空ノ模様
一年ほど前に浮かんでいたアイデアを書き起こしてみました。
完成したのは最近なので、私の掌編二十三作目になります。
『お兄ちゃん――ごめんね――』
空の声が途切れる。
彼女の声は細く、今にも消えそうだった。
携帯から耳を離して画面を見ると、圏外の文字が表示されている。
校門を出て、ちょうど家との中間あたり。小さな川の河川敷を歩いている時の事だった。
◆
六月。この町にもそろそろ湿っぽい空気が入ってきている。
高校からの帰り道。黒くて厚い雲が俺のはるか頭上を覆っていた。それは宇宙船のように大きな塊で、この世界に影を落としている。
「……ヤバいな」
いつ雨が降り出してもおかしくない空模様。家まで歩いてあと十五分と言ったところか。走れば何とか間に合うか……。
焦り。そして少し高揚した気分が、じんわりと胸の中から溢れ出てくる。
――ゴロゴロ……。
時おり、光をその中で暴れさせる雲。それを見た少し後でその音は流れた。濁ったような音。
俺は何とか早く家に帰ろうと、小走りで家路を急いだ。
やがて公園に辿り着いた。その場所は普段から閑散としていて、ブランコとシーソーだけが来客を出迎えてくれる。
時計を見ると、急いでいるはずなのに予想以上に時間がかかってしまっていた。
唇を噛みしめて上空を見る。そこには先程の灰色よりもさらに黒くなった空があった。
焦る気持ちに追いつこうと足を進めたその時、ふと横目に女の子がしゃがみ込んで泣いているのが見えた。
「ぅええぇぇん……」
これから来るかもしれない嵐の予感に、怯えているのだろうか。薄明るい空間に子供の泣き声が滲む。周りには誰の姿もない。この公園にいるのは俺とその少女だけだった。この子の親はどうしたんだろうか。
ふと、目の前の女の子に最近の空の面影を重ねてしまった。
そういえば、空も大雨や雷が苦手だったっけ……。
俺の一つ下の妹。今年には中学に上がったというのに、たまに小学生にも間違えられるらしい。そこには兄としても同調してしまう。
男の子のように短く切り揃えられた黒髪。日向ぼっこする猫のようなのんびりした動き。鼻につくような幼な声。
そして、中学にあがった今でも雷を怖がる小心者。
ついこの間も、遠くの方で音がしただけで俺の服の裾を掴んで震えていた。でも、そんな空も可愛らしくて、兄としては放っておけないんだよな。
それに……。
――ごめんね。
俺と空は今朝、ちょっとした事がキッカケで喧嘩していた。今までもたまに意見が食い違って衝突する事もあった。でも、あんなに素直に謝ってくる空は初めてかもしれない。
電話越しに聞こえた声。その中で感じたのは、焦り。苛立ち。そして、恐怖。やり場のない感情を抱えているような声音だった。
今も一人ぼっちで、この黒い空を見上げながら誰かの帰りを待っているのかもしれない。
「おかーさぁ~ん……」
相変わらず、女の子は目の前で泣き続けている。このまま知らん顔で通り過ぎるのも何だか忍びない。でも、ごめん。俺は君の親代わりにはなれないんだ……。
今の俺にはどうしようもなかった。現に、早歩きくらいにはなっていたが、俺は自分の足を止めていなかった。
「ちよちゃんッ!」
俺が一人悩んでいる間に、女の人が近づいてきた。そして女の子を抱きしめる。どうやらあれがお母さんらしい。手に持ったビニール袋からするに、近くの店に行っていたのだろうか。
「ここにいたのね……急にいなくなったら心配するじゃない……」
「ごめんなさぃ、おかーさぁぁん……」
俺は既に公園を通り過ぎていたが、二人が手を繋いで公園を出ていくのが見えた。女の子の顔は涙でぐしゃぐしゃだったけど、満面の笑みだった。そんな光景に思わず微笑んでしまう。
ああ、良かった。これで俺も安心して家に帰れる。
心の底からそう思った。
ようやく家の前に辿り着いた。何とか雨に降られる事は免れたようだ。
いつもより呼吸が乱れているのが自分でも分かる。俺は無理やり息をのみ、体に力を入れて玄関の扉を開いた。
「……ただいま」
玄関の鍵は開いていたが、誰からも返事がない。両親は仕事だろうけど、家にいるはずの空の声もなかった。
少し安心している自分がいる。
俺が焦ってるなんて空が知ったら笑われてしまうかもしれないしな。そんな小さな意地を張る自分がどこか可笑しかった。
――ゴロゴロ……。
もしかしたら、空は一人部屋で耳を塞いでいるのかもしれない。……でも、少しだけ待っててくれないかな。
俺はあくまで冷静に、靴を脱いで廊下を歩く。できる限りの速さで。
目指さすは廊下の奥の狭い一人部屋。
その中には今も、白い陶器が静かに佇んでいる。
――ゴロゴロゴロ……ギュルルゥ~。
本日何度目かの不快な音が俺のお腹の底から流れてくる。
「そろそろ……限界かな」
額から汗が流れてくる。でも、それを拭う余裕もなくなってきた。ただただ、聖域を目指す。
ああ、もうすぐ。
もうすぐ俺は苦しみから解放されるんだ。
ようやくたどり着いた廊下の奥。俺は静かに……しかし鋭く、目の前の扉のノブを捻る。
……が、扉は開かなかった。
『え、もしかして……兄ちゃんッ? ちょ、ちょっと待ってッ。もうすぐ出るから』
な、何故……、ドウ、シテ……。
『あ、そうだ。今朝は、ごめん……』
扉ごしに、ノンビリとした声が響く。
『ケーキ食べられただけで、あんなに怒っちゃって。それにさ、後で気づいたんだけど……あれ、賞味期限切れてたんだよね……』
もう何も耳に入ってこない……。代わりに、何かが出ていく予感がした。
「あ、ああ……」
『……許してくれて、ありがと。へへ……。やっぱり兄ちゃんは優しいね』
「あああァァァァ~……」
『え? 兄ちゃん? ど、どうしたの?』
報告……。
只今ノトイレノ住人……空ノ模様……。
思わず膝から崩れ落ちてしまう俺。
すぐさま、俺の元に解放感と絶望感が押しよせた。
くだらないオチで失礼しました!