ネームプレートに、私の名前が貼ってある
夜中の二時。
病院のナースステーションは、蛍光灯の澱んだ青に沈んでいた。
古河エリーはミッドナイトブルーのカーディガンを羽織り、無言でカルテをめくっている。
紙をめくる音が、やけに重く響く。
球磨崎はヘッドホンを右耳だけに引っ掛け、誰の曲でもないリズムを指で机に叩いていた。
釜田ミツキは、インスタントコーヒーの粉をスプーンからこぼし、低いため息をつく。
「ねぇ」
球磨崎が、ぼんやりと天井の不快なシミを見つめたまま言った。
「ナースコールって、なんで“コール”なんですかね」
古河が、だるそうに顔を上げる。その目の下には、黒ずんだ隈が張り付いていた。
「呼んでるからよ。……霊を」
「患者を、でしょ」球磨崎が乾いた声で突っ込む。
「同じようなものよ。ここにいる人間なんて、特に寝てる時はね」
ミツキが笑いもせず、紙コップにお湯を注ぐ。湯気が立ち上る。
「うちの病棟、たまに鳴るじゃん。誰も入ってない部屋のやつ」
「基盤の接触不良ですよ」
「でもね……誰もいないはずの部屋から『すみません』って声が聞こえるって、先週辞めた夜勤の人が言ってたの」
古河はカルテをパタンと閉じた。その音に、ミツキがビクッと肩を揺らす。
「声の主は誰?」
「知らない。ただね……その声が聞こえた次の日には、必ずその部屋に『新しい患者』が入ってくるんだって」
球磨崎が、右耳のヘッドホンをゆっくりと外した。
「……それ、予兆ってことですか」
「この前なんか、まだ入院予定もないのに鳴ったのよ」古河がぼそっと呟く。
「AIのバグじゃないですかね」
「AIが霊感持つ時代よ」
沈黙が落ちる。
コーヒーの湯気だけが、青い蛍光灯の下でゆらゆらと歪んでいた。
*ピンポーン*
乾いた電子音が、ナースステーションの天井から降ってきた。
三人の視線がモニターへ向かう。
廊下の奥、空き部屋であるはずの「305号室」。
「……鳴ったね」球磨崎の指が止まる。
「誰も入ってないですよね、あの部屋」ミツキの声がかすれていた。
「呼ばれたなら、行かないと」
古河が立ち上がった。
カーディガンの裾が、一瞬、青い光を吸い込んで黒く見えた。
三人は静かな廊下を進む。
靴音がリノリウムの床にやけに冷たく響く。
古河の後ろを歩くふたりの足取りは、どこか重い。
305号室の前。
ネームプレートの枠は空っぽで、ドアの向こうは底なしに暗い。
古河が真鍮のノブを握り、押し開けた。
部屋の中央、パイプベッドの上。
そこに、コードのちぎれた古いヘッドホンがひとつ、ぽつんと置かれていた。
片方のイヤーパッドが黒く裂け、中のスポンジが覗いている。
「これ……」ミツキがドアの脇から覗き込むようにして呟く。
「ナースコール、ここから鳴ってたのか?」球磨崎が低い声で言った。
古河は迷いなく歩み寄ると、その壊れたヘッドホンを拾い上げ、自分の耳へ押し当てた。
その瞬間――
*ピンポーン*
ナースコールが再び鳴り響く。
部屋のスピーカーからではない。古河が耳に当てている、線のつながっていないヘッドホンからだ。
「ねぇ、聞こえる?」
古河が静かに言った。その瞳には何も映っていない。
球磨崎とミツキは、古河から一歩引き下がり、言葉を失っていた。
「……何が、聞こえるんですか」
「『ありがとう』って言ってる」
一瞬の静寂。
古河の耳元にある裂けたスポンジから、微かに、人の呼吸音が漏れていた。
シュ、シュー、と、人工呼吸器のような機械的な喘ぎ。
『ありがとう。もう、起きなくていいの』
古河の口元が、歪に吊り上がった。
「そう。やっと、眠れるのね」
古河はヘッドホンをベッドの上にそっと戻すと、すっと振り返り、何事もなかったかのように部屋を出て行った。
残されたふたりは青ざめた顔で見合わせ、古河の背中を追うように急いで部屋を後にした。
ナースステーションに戻ると、会話は完全に途切れていた。
球磨崎はヘッドホンを握りしめたまま、二度とそれを耳に掛けようとはしなかった。
ミツキは冷めきったコーヒーの入った紙コップを、指が白くなるほど強く握り潰している。
古河だけが、いつものようにデスクに座り、黙々とカルテにペンを走らせていた。
さらさら、さらさらと、不自然なほど速いペースで。
けれど――
手元のモニターで、「305号室」の赤いランプは点滅を止めていなかった。
ずっと、点いたままだ。
「……古河さん」
ミツキが、震える声で呼びかけた。
古河はカルテから目を離さずに答える。
「なあに」
「さっき部屋を出るとき……戻る途中で見ちゃったんです。305号室のプレート、もう名前が書いてありました」
古河のペンの音が、ピタリと止まった。
「なんて書いてあったの?」
ミツキは、唇を噛み締めながら古河の顔を見つめた。
その顔は、蛍光灯の青い光のせいで、まるで最初から血が通っていないように白かった。
「……古河エリーって。もう、貼ってありました」
古河はゆっくりと顔を上げた。
そして、自分が今書き込んでいたカルテの表紙を、愛おしそうに撫でた。
「そう。だから言ったじゃない」
古河の口元が、ふっと笑う。
「患者って言葉は、すでに霊寄りなのよ。……寝てる時なんて、特にね」
青い光の中、球磨崎とミツキは息を殺した。
デスクの上で古河が開いていたカルテには、今日の日付と、ただ一行だけ――
『死亡確認:古河エリー』
と、彼女自身の筆跡で書かれていた。




