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ネームプレートに、私の名前が貼ってある

作者: 北大路京介
掲載日:2026/10/24

夜中の二時。


病院のナースステーションは、蛍光灯の澱んだ青に沈んでいた。


古河エリーはミッドナイトブルーのカーディガンを羽織り、無言でカルテをめくっている。

紙をめくる音が、やけに重く響く。

球磨崎はヘッドホンを右耳だけに引っ掛け、誰の曲でもないリズムを指で机に叩いていた。

釜田ミツキは、インスタントコーヒーの粉をスプーンからこぼし、低いため息をつく。


「ねぇ」


球磨崎が、ぼんやりと天井の不快なシミを見つめたまま言った。

「ナースコールって、なんで“コール”なんですかね」


古河が、だるそうに顔を上げる。その目の下には、黒ずんだ隈が張り付いていた。

「呼んでるからよ。……霊を」

「患者を、でしょ」球磨崎が乾いた声で突っ込む。

「同じようなものよ。ここにいる人間なんて、特に寝てる時はね」


ミツキが笑いもせず、紙コップにお湯を注ぐ。湯気が立ち上る。

「うちの病棟、たまに鳴るじゃん。誰も入ってない部屋のやつ」

「基盤の接触不良ですよ」

「でもね……誰もいないはずの部屋から『すみません』って声が聞こえるって、先週辞めた夜勤の人が言ってたの」


古河はカルテをパタンと閉じた。その音に、ミツキがビクッと肩を揺らす。

「声の主は誰?」

「知らない。ただね……その声が聞こえた次の日には、必ずその部屋に『新しい患者』が入ってくるんだって」


球磨崎が、右耳のヘッドホンをゆっくりと外した。

「……それ、予兆ってことですか」

「この前なんか、まだ入院予定もないのに鳴ったのよ」古河がぼそっと呟く。

「AIのバグじゃないですかね」

「AIが霊感持つ時代よ」


沈黙が落ちる。

コーヒーの湯気だけが、青い蛍光灯の下でゆらゆらと歪んでいた。


*ピンポーン*


乾いた電子音が、ナースステーションの天井から降ってきた。


三人の視線がモニターへ向かう。

廊下の奥、空き部屋であるはずの「305号室」。


「……鳴ったね」球磨崎の指が止まる。

「誰も入ってないですよね、あの部屋」ミツキの声がかすれていた。

「呼ばれたなら、行かないと」


古河が立ち上がった。

カーディガンの裾が、一瞬、青い光を吸い込んで黒く見えた。


三人は静かな廊下を進む。

靴音がリノリウムの床にやけに冷たく響く。

古河の後ろを歩くふたりの足取りは、どこか重い。


305号室の前。

ネームプレートの枠は空っぽで、ドアの向こうは底なしに暗い。

古河が真鍮のノブを握り、押し開けた。


部屋の中央、パイプベッドの上。

そこに、コードのちぎれた古いヘッドホンがひとつ、ぽつんと置かれていた。

片方のイヤーパッドが黒く裂け、中のスポンジが覗いている。


「これ……」ミツキがドアの脇から覗き込むようにして呟く。

「ナースコール、ここから鳴ってたのか?」球磨崎が低い声で言った。


古河は迷いなく歩み寄ると、その壊れたヘッドホンを拾い上げ、自分の耳へ押し当てた。


その瞬間――


*ピンポーン*


ナースコールが再び鳴り響く。

部屋のスピーカーからではない。古河が耳に当てている、線のつながっていないヘッドホンからだ。


「ねぇ、聞こえる?」

古河が静かに言った。その瞳には何も映っていない。


球磨崎とミツキは、古河から一歩引き下がり、言葉を失っていた。

「……何が、聞こえるんですか」


「『ありがとう』って言ってる」


一瞬の静寂。

古河の耳元にある裂けたスポンジから、微かに、人の呼吸音が漏れていた。

シュ、シュー、と、人工呼吸器のような機械的な喘ぎ。


『ありがとう。もう、起きなくていいの』


古河の口元が、歪に吊り上がった。

「そう。やっと、眠れるのね」


古河はヘッドホンをベッドの上にそっと戻すと、すっと振り返り、何事もなかったかのように部屋を出て行った。

残されたふたりは青ざめた顔で見合わせ、古河の背中を追うように急いで部屋を後にした。


ナースステーションに戻ると、会話は完全に途切れていた。


球磨崎はヘッドホンを握りしめたまま、二度とそれを耳に掛けようとはしなかった。

ミツキは冷めきったコーヒーの入った紙コップを、指が白くなるほど強く握り潰している。


古河だけが、いつものようにデスクに座り、黙々とカルテにペンを走らせていた。

さらさら、さらさらと、不自然なほど速いペースで。


けれど――

手元のモニターで、「305号室」の赤いランプは点滅を止めていなかった。

ずっと、点いたままだ。


「……古河さん」


ミツキが、震える声で呼びかけた。

古河はカルテから目を離さずに答える。


「なあに」


「さっき部屋を出るとき……戻る途中で見ちゃったんです。305号室のプレート、もう名前が書いてありました」


古河のペンの音が、ピタリと止まった。


「なんて書いてあったの?」


ミツキは、唇を噛み締めながら古河の顔を見つめた。

その顔は、蛍光灯の青い光のせいで、まるで最初から血が通っていないように白かった。


「……古河エリーって。もう、貼ってありました」


古河はゆっくりと顔を上げた。

そして、自分が今書き込んでいたカルテの表紙を、愛おしそうに撫でた。


「そう。だから言ったじゃない」


古河の口元が、ふっと笑う。


「患者って言葉は、すでに霊寄りなのよ。……寝てる時なんて、特にね」


青い光の中、球磨崎とミツキは息を殺した。

デスクの上で古河が開いていたカルテには、今日の日付と、ただ一行だけ――


『死亡確認:古河エリー』


と、彼女自身の筆跡で書かれていた。

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