第2章1
十月二十五日。サウジアラビア・ガワール油田上空。
輸送機の窓から見下ろす景色は、圧倒的だった。
地平線まで続く砂漠。その中に、無数の油井が立ち並んでいる。
世界最大の油田、ガワール。
ここだけで、世界の石油生産量の約五パーセントを占めていた。
「すごい......」
優希は、窓に張り付くようにして外を見ていた。
「初めて見るのか?」
隣に座るリー・ジュンホが、微笑んだ。
「はい。テレビや写真では見たことあるけど、実際に見ると......規模が違いますね」
「ああ。私も初めて来た時は、圧倒された」
リーは、遠い目をした。
「二十年前、商社マンとして初めてサウジに来た時のことを思い出すよ」
「リーさんは、石油取引もやってたんですか?」
「ああ。中東、ロシア、アメリカ。世界中を飛び回った」
リーは、笑った。
「まさか、こんな形で戻ってくるとは思わなかったがね」
機内には、二十人のチームメンバーがいた。
日本人技術者十人、在日外国人技術者十人。
その中には、サウジアラビア出身の石油技師、アフマド・アル=ファリドもいた。
「アフマドさん」
優希は、後ろの席に声をかけた。
「はい、佐藤先生」
三十代後半の、浅黒い肌の男性。サウジの国営石油会社で十五年働いていた。
「ガワール油田の状態、どう思いますか?」
「......正直、わかりません」
アフマドの表情は、硬かった。
「消失から一週間。油井は自動制御されているはずですが......人がいない状態で、どこまで持つか」
「最悪の場合は?」
「油井の暴走。圧力制御が失われれば、原油が噴き出します。そして――」
アフマドは、窓の外を見た。
「火災が起これば、制御不能になります」
優希は、ごくりと唾を飲んだ。
「それは......避けなければいけませんね」
「ええ」
その時、パイロットの声が聞こえた。
『間もなく着陸します。シートベルトを締めてください』
機体が揺れる。
優希は、シートベルトを締めた。
そして――
窓の外を見て、息を呑んだ。
「あれは......」
地平線の彼方。
黒い煙が、立ち上っていた。
「火災だ......!」
アフマドが、叫んだ。
「どこかの油井が燃えている!」
機体が、急速に降下する。
優希の心臓が、激しく打った。
---
**午後二時。ガワール油田・第三区画。**
輸送機から降り立った瞬間、熱風が襲ってきた。
気温は摂氏四十五度。
そして、その熱さに加えて――
「煙が......」
リーが、咳き込んだ。
遠くから流れてくる黒煙。石油が燃える独特の臭い。
「マスクをつけて!」
優希は、全員にマスクを配った。
「アフマドさん、状況を確認してください」
「了解」
アフマドは、近くの制御室へ走った。
優希も、その後を追う。
制御室の扉を開けると――
「誰も、いない......」
当然だ。この世界に、日本以外の人間はいない。
制御パネルには、赤いランプが点滅していた。
「これは......」
アフマドが、パネルを確認する。
「第七油井が暴走しています! 圧力が異常に上昇!」
「それが、火災の原因ですか?」
「おそらく。そして――」
アフマドの顔が、青ざめた。
「このままでは、隣接する油井にも延焼します。連鎖的に爆発すれば......」
「どうなるんですか?」
「ガワール油田全体が、火の海になります」
優希は、拳を握った。
「それだけは、避けなければ......」
「佐藤先生」
リーが、通信機を手に駆け込んできた。
「官邸から緊急連絡です」
「今?」
優希は、通信機を受け取った。
「こちら佐藤」
『佐藤君、聞こえるか』
桜井晋三の声だ。
「聞こえます」
『状況は把握している。第七油井の火災だな』
「はい。これから消火作業に――」
『待て』
桜井の声が、冷たくなった。
『撤退しろ』
「......え?」
『撤退だ。危険すぎる。君たちが死んだら、この作戦全体が破綻する』
「でも、このままでは油田全体が――」
『それは承知している。だが、人命の方が重要だ』
桜井は、続けた。
『ガワール油田を失っても、他の油田がある。だが、君を失えば――J-リセット計画そのものが終わる』
優希は、歯を食いしばった。
「桜井大臣、聞いてください」
『何だ』
「ガワール油田は、世界最大です。ここを失えば、石油生産量が大幅に減少します」
『それでも――』
「そして」
優希は、声を張った。
「ここで撤退すれば、次も、その次も、撤退することになります!」
『......何が言いたい』
「僕たちは、困難に立ち向かわなければならない。逃げていては、何も守れません」
沈黙。
長い、重い沈黙。
そして――
『......好きにしろ』
桜井は、冷たく言った。
『ただし、失敗したら責任を取れ。いいな?』
「......了解しました」
通信が、切れた。
優希は、通信機を握りしめた。
「佐藤先生......」
リーが、心配そうに見ている。
「大丈夫です」
優希は、笑った。
「やりましょう。この油田を、守ります」
---
**午後三時。第七油井・現場。**
近づくにつれ、熱が増していく。
炎が、空高く上がっている。
油井から噴き出した原油が、燃えている。
「すごい熱量だ......」
優希は、防護服を着ていたが、それでも熱が伝わってくる。
「佐藤先生」
アフマドが、図面を広げた。
「消火方法は二つあります」
「一つは?」
「爆薬を使う方法。爆風で炎を吹き飛ばし、酸素を遮断します」
「もう一つは?」
「泡消火剤を大量に投入する。炎を泡で覆い、窒息させます」
優希は、炎を見た。
「どちらが確実ですか?」
「......爆薬です。でも」
アフマドは、躊躇した。
「リスクも高い。タイミングを間違えれば、逆に延焼を広げる可能性があります」
「泡消火剤は?」
「安全ですが、時間がかかります。そして――」
アフマドは、空を見上げた。
「風向きが変われば、延焼します」
優希は、考えた。
爆薬か、泡か。
どちらもリスクがある。
「佐藤先生」
リーが、肩を叩いた。
「決めてください。時間がありません」
優希は、深呼吸をした。
そして――
「爆薬を使います」
「......了解」
アフマドは、チームメンバーに指示を出した。
「爆薬の準備! 油井から五十メートルの位置に設置!」
「了解!」
技師たちが、動き出した。
優希は、その光景を見ていた。
日本人も、外国人も、一緒に動いている。
国籍も、言語も、関係ない。
ただ、一つの目標に向かって。
「これが......僕の目指す世界だ」
優希は、呟いた。
---
**午後四時。爆破準備完了。**
「佐藤先生、準備完了しました」
アフマドが、報告した。
「爆破スイッチは、こちらです」
アフマドは、小さなリモコンを渡した。
「このボタンを押せば、爆発します」
優希は、リモコンを受け取った。
手が、震えた。
「大丈夫ですか?」
「......大丈夫です」
優希は、深呼吸をした。
「全員、退避!」
チームメンバーが、安全な距離まで下がる。
優希も、リーとアフマドと共に退避した。
「佐藤先生」
リーが、優希を見た。
「後悔しませんか?」
「後悔?」
「もし失敗したら、油田全体が燃える。それは、あなたの責任になります」
優希は、リモコンを見た。
「......後悔するかもしれません」
「でも」
優希は、炎を見た。
「やらなければ、もっと後悔します」
リーは、微笑んだ。
「......そうですね。では、やりましょう」
優希は、ボタンに指をかけた。
「三、二、一――」
ボタンを、押した。
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轟音。
地面が揺れる。
巨大な爆発が、油井を包み込んだ。
衝撃波が、砂漠を駆け抜ける。
優希は、思わず目を閉じた。
そして――
静寂。
恐る恐る目を開けると――
「消えた......!」
炎が、消えていた。
爆風が、炎を吹き飛ばしていた。
「成功だ! 成功した!」
アフマドが、叫んだ。
チームメンバーが、歓声を上げた。
優希は、その場に座り込んだ。
緊張の糸が、切れた。
「やった......本当に、やった......」
リーが、優希の肩を叩いた。
「よくやりました、佐藤先生」
「いえ、皆さんのおかげです」
優希は、立ち上がった。
そして、チームメンバー全員を見た。
「ありがとうございました! 皆さんの協力で、ガワール油田を守ることができました!」
拍手が起こった。
優希は、その拍手を聞きながら――
ふと、空を見上げた。
青い空。
雲一つない、美しい空。
「これで......エネルギー問題も、少しずつ解決していく」
優希は、呟いた。
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だが。
その時、優希はまだ知らなかった。
この成功が、新たな対立を生むことを――。