第1章4
同日、午後十時。首相官邸・休憩室。
優希は、ソファに深く沈み込んでいた。
体中が痛い。頭も重い。
だが、眠れなかった。
スマートフォンを見る。
SNSには、オペレーション・プロメテウスの成功を祝う投稿が溢れていた。
『原発メルトダウン回避!政府発表』
『佐藤優希博士、人類を救う』
『在日外国人との協力、歴史的成功』
でも、優希の心は晴れなかった。
「五基......」
呟く。
停止できなかった、五基の原発。
ロシアと中東。アクセスが困難で、チームが到達できなかった。
「あの五基が、もしメルトダウンしたら......」
ノックの音。
「入ってます」
ドアが開き、美咲が入ってきた。手には、コーヒーカップが二つ。
「お疲れ様です。コーヒー、いかがですか?」
「......ありがとうございます」
優希は、カップを受け取った。
美咲は、隣のソファに座った。
「考え込んでましたね。五基のことですか?」
「......バレバレですね」
「ええ」美咲は、コーヒーを一口飲んだ。「でも、あなたは間違ってない」
「でも、完璧じゃなかった」
「完璧である必要はないんです」
美咲は、優希を見た。
「百二十基のうち、百十五基を止めた。成功率、九十五パーセント以上。これは、驚異的な数字です」
「でも、残りの五パーセントで――」
「死ぬかもしれない。ええ、そうです」美咲は頷いた。「でも、あなたがいなければ、百パーセントが死んでいた。それを忘れないでください」
優希は、黙っていた。
「佐藤先生」
美咲の声が、優しくなった。
「あなたは、全てを救おうとしている。でも、それは無理です。神様じゃないんだから」
「......わかってます」
「わかってないから、そんな顔をしてるんです」
美咲は、わずかに笑った。
「あなたは、優しすぎる。それは長所でもあり、短所でもある」
「短所......」
「ええ。優しすぎる人間は、自分を責めすぎる。そして、壊れる」
美咲は、コーヒーカップを置いた。
「私は、外交官として色々な人を見てきました。理想を持つ人、現実に妥協する人、権力に溺れる人......色々です」
「......」
「でも、あなたは――珍しいタイプです」
美咲は、優希の目を見た。
「理想を持ちながら、現実も見ている。権力を持ちながら、それに溺れていない。そして――人を信じることができる」
「それは......買いかぶりすぎです」
「いいえ」美咲は首を振った。「今日、あなたはリー・ジュンホを信じた。彼は技術者じゃない。でも、あなたは彼を信じて、第三号機へ送った」
「......」
「普通の人間なら、そんなリスクは取らない。でも、あなたは信じた。そして、成功した」
美咲は、立ち上がった。
「だから、自分を責めないでください。あなたは、十分すぎるほど頑張っています」
優希は、美咲を見上げた。
「......ありがとうございます、早川さん」
「どういたしまして」
美咲は、ドアに向かった。
だが、ドアノブに手をかけたところで振り返った。
「それと、一つ」
「はい?」
「明日から、もっと大変になります」
美咲の表情が、真剣になった。
「桜井大臣が、動き始めます」
「......動く?」
「ええ。今日の成功で、あなたの人気が急上昇しました。国民も、在日外国人も、あなたを支持している」
「それは......いいことじゃないですか?」
「普通ならね」美咲は、苦笑した。「でも、桜井大臣にとっては脅威です」
「脅威......」
「あなたが人気を集めれば集めるほど、桜井大臣の影響力は下がる。だから、彼はあなたを利用しつつ、コントロールしようとする」
美咲は、ドアを開けた。
「気をつけてください。政治は、科学より複雑です」
そして、去っていった。
優希は、コーヒーカップを見つめた。
政治......
苦手な分野だ。
でも、避けられない。
「はあ......」
優希は、ため息をついた。
その時、スマートフォンが震えた。
着信。田中健吾だ。
「もしもし」
『おう、優希。まだ起きてたか』
「起きてるというか、眠れない」
『だろうな。俺もだ』
健吾の声には、疲労が滲んでいた。
『なあ、優希。ちょっと屋上来いよ』
「屋上?」
『ああ。ビール買ってきた。二人で飲もうぜ』
「......仕事中ですよ」
『バカ言え。今日は十分働いただろ。少しくらい休憩しろ』
優希は、笑った。
「わかりました。今、行きます」
---
**首相官邸・屋上。**
夜風が、心地よかった。
東京の夜景が、眼下に広がっている。
健吾は、屋上の縁に座って、ビール缶を開けていた。
「よう」
「来ましたよ」
優希も隣に座った。
健吾は、ビール缶を渡した。
「飲め。今日は祝杯だ」
「祝杯......」
「そうだろ? 世界を救ったんだぜ、俺たち」
健吾は、ビール缶を掲げた。
「乾杯」
「......乾杯」
カチン、と缶が触れ合う音。
二人は、ビールを飲んだ。
「うまい......」
「だろ? 疲れた後のビールは最高だ」
健吾は、夜景を見た。
「なあ、優希」
「はい?」
「お前、すげえよ」
「......何がですか」
「全部だよ」健吾は、笑った。「原発の作戦、在日外国人との交渉、全部。俺には絶対できない」
「そんなことないです。健吾さんの通信システムがなければ、作戦は成功しなかった」
「それは技術の話だ」健吾は首を振った。「お前がすごいのは、人を信じられることだ」
「......」
「リー・ジュンホを、第三号機へ送っただろ? 俺なら、できなかった」
健吾は、ビールを飲んだ。
「だって、怖いもん。もし失敗したら、責任取らなきゃいけない。そう思うと、リスクを取れない」
「僕も怖かったですよ」
「でも、やった」
健吾は、優希を見た。
「それが、お前のすごいところだ」
優希は、何も言えなかった。
「なあ、優希」
「はい」
「俺、お前についていくわ」
健吾は、真剣な目で言った。
「この世界、どうなるかわからない。でも、お前がリーダーなら、きっと大丈夫だ」
「......ありがとうございます」
「礼を言うな」健吾は、笑った。「友達だろ?」
「......ええ」
二人は、しばらく黙って夜景を見ていた。
風が吹く。
優希は、ふと思い出した。
「そういえば、健吾さん」
「ん?」
「奥さん、海外出張中だったんですよね」
健吾の表情が、一瞬固まった。
「......ああ」
「すみません、変なこと聞いて」
「いや、いいんだ」
健吾は、ビール缶を見つめた。
「美和は......ロンドンにいた。IT企業の国際会議でさ。消失の前日、電話で話したんだ」
「......」
「『明日帰るから、美味しいもの食べに行こうね』って言ってた」
健吾の声が、震えた。
「でも、明日は来なかった」
優希は、何も言えなかった。
「なあ、優希」
「はい」
「俺、最初は思ったんだ。なんで日本にいた俺だけが残って、美和は消えたんだって」
健吾は、空を見上げた。
「でも、今日の作戦を見て思った。これは、チャンスなのかもしれないって」
「チャンス......?」
「ああ」健吾は頷いた。「美和の分まで、俺が生きる。そして、この世界を――美和が帰ってきても恥ずかしくない世界を作る」
健吾は、優希を見た。
「だから、頼むよ。お前が理想とする世界、作ってくれ。俺も、全力で手伝うから」
優希は、目頭が熱くなった。
「......わかりました」
優希は、拳を握った。
「僕は、作ります。みんなが幸せになれる世界を」
「おう」
健吾は、ビール缶を掲げた。
「じゃあ、改めて乾杯」
「乾杯」
カチン。
再び、缶が触れ合う音。
そして――
「よう、二人とも。いい雰囲気だな」
声が聞こえた。
振り返ると、リー・ジュンホが立っていた。
「リーさん!?」
「驚かせてすみません」リーは、笑った。「私も眠れなくて、散歩していたんです」
「怪我は大丈夫なんですか?」
「ええ、かすり傷程度です」
リーは、優希と健吾の隣に座った。
「ビール、いただいてもいいですか?」
「どうぞ」
健吾が、缶を渡した。
三人は、並んで夜景を見た。
「綺麗ですね」
リーが、呟いた。
「この景色、昨日までは当たり前だと思っていました。でも、今は......とても貴重に思えます」
「......そうですね」
優希は頷いた。
「佐藤先生」
「はい?」
「今日、ありがとうございました」
リーは、優希を見た。
「あなたは、私を信じてくれた。技術もない、ただの元商社マンを」
「いえ、あなたは――」
「わかっています」リーは、微笑んだ。「あなたは、国籍も、経歴も関係なく、人を見てくれる。それが、嬉しかった」
リーは、ビールを飲んだ。
「私たち在日外国人は、長い間『よそ者』として扱われてきました。日本にいても、母国にいても、どちらでも完全には受け入れられない」
「......」
「でも、今日――あなたのおかげで、初めて『仲間』だと思えました」
リーの目には、涙が浮かんでいた。
「ありがとう、佐藤先生。あなたは、私たちに希望をくれました」
優希は、リーの肩に手を置いた。
「いえ、僕こそ感謝しています。あなたがいなければ、第三号機は止められなかった」
「......ええ」
三人は、しばらく黙っていた。
そして――
「なあ、二人とも」
健吾が、口を開いた。
「これからもっと大変になるぞ。エネルギーも、食料も、全部確保しなきゃいけない」
「ええ」
「でも」健吾は、笑った。「俺たちなら、できる気がする」
「......そうですね」
リーも、笑った。
「私も、そう思います」
優希は、二人を見た。
そして――
「やりましょう。三人で、いや――全人類で」
優希は、拳を握った。
「この世界を、もう一度作り直すんです」
「おう!」
「ええ!」
三人は、ビール缶を掲げた。
「J-リセット、成功させるぞ!」
乾杯の音が、東京の夜空に響いた。
---
**翌日、午前九時。首相官邸・大会議室。**
優希は、大勢の前に立っていた。
政府関係者、自衛隊幹部、科学者、技術者、そして――在日外国人コミュニティの代表たち。
総勢、百人以上。
「皆さん」
優希は、マイクを握った。
「昨日、オペレーション・プロメテウスが成功しました。これは、皆さんの協力のおかげです」
拍手が起こった。
「しかし」
優希は、声を張った。
「これは、始まりに過ぎません」
拍手が止まった。
「今、日本は深刻なエネルギー不足に直面しています。石油、天然ガス、石炭。全て、輸入に頼っていました」
スクリーンに、グラフが表示される。
「日本の石油備蓄は、約二ヶ月分。天然ガスは、約三週間分。このままでは、年内に全ての火力発電所が停止します」
会議室が、ざわめいた。
「そして、食料問題」
優希は、次のスライドを表示した。
「日本の食料自給率は、カロリーベースで三十八パーセント。つまり、六十二パーセントを輸入に頼っていました」
「小麦、大豆、トウモロコシ。全て、海外から運ばれていました。しかし、今はそれができない」
優希は、会議室を見回した。
「つまり、我々には二つの選択肢があります」
優希は、指を二本立てた。
「一つ。日本国内だけで生活する。エネルギーを節約し、食料を配給制にし、耐え忍ぶ」
「二つ」
優希は、拳を握った。
「世界中の資源を活用する。中東の油田、アメリカの農地、オーストラリアの鉱山。全てを、我々が管理する」
沈黙。
重い、重い沈黙。
「当然、二つ目を選びます」
優希は、宣言した。
「我々は、この地球の唯一の住人です。だから、この地球の全ての資源を使う権利があります」
「ただし」
優希の表情が、引き締まった。
「それは、略奪ではない。管理です。我々は、この地球を次世代に引き継がなければならない。だから、計画的に、持続可能に資源を使います」
優希は、スクリーンに次の画像を表示した。
「これが、『J-リセット・フェーズ2』の計画です」
画面には、世界地図。そして、赤い点が無数に表示されている。
「中東の油田、二十箇所」
「アメリカの穀物地帯、十五箇所」
「オーストラリアの鉱山、十箇所」
「これらを、今後六ヶ月以内に確保します」
会議室が、再びざわめいた。
「六ヶ月......」
「できるのか......」
優希は、マイクを握りしめた。
「できます。いや、やらなければなりません」
「そして――」
優希は、在日外国人の代表たちを見た。
「この作戦にも、皆さんの協力が必要です」
リー・ジュンホが、立ち上がった。
「佐藤先生、我々も協力します」
パク・ジョンスも、立ち上がった。
「我々は、昨日証明しました。日本人も外国人も、協力すれば何でもできると」
ワン・シュウも、立ち上がった。
「我々は、もう『外国人』ではない。『全人類』です」
次々と、在日外国人の代表たちが立ち上がった。
そして――
会議室全体が、立ち上がった。
拍手が起こった。
熱い、熱い拍手。
優希は、その光景を見て――涙が溢れそうになった。
「ありがとうございます......!」
優希は、声を張った。
「では、今から『J-リセット・フェーズ2』を開始します!」
「目標は――」
優希は、拳を高く掲げた。
「全人類の生存と繁栄!」
「おおおおお!!!」
会議室が、歓声に包まれた。
---
だが。
その光景を、冷ややかな目で見ている男がいた。
桜井晋三。
彼は、会議室の隅で腕を組み、優希を見つめていた。
「......面白い」
桜井は、小声で呟いた。
「だが、佐藤優希。お前の理想論は、いずれ限界が来る」
桜井は、不敵に笑った。
「その時が、私の出番だ」




