第1章3
翌日、午前六時三十分。韓国・月城原子力発電所上空。
自衛隊の輸送機C-2の機内は、緊張に包まれていた。
優希は窓から外を見下ろした。朝日に照らされる韓国の海岸線。美しい景色だが、地上には人影がない。
「佐藤先生、もうすぐ着陸します」
パイロットの声が、ヘッドセットから聞こえた。
「了解」
優希は、隣に座るパク・ジョンスを見た。
「パクさん、準備はいいですか?」
「......ええ」
パクの顔は蒼白だった。無理もない。これから向かうのは、彼が三十年間働いた場所。そして、家族と過ごした思い出の地。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫です」パクは、かすかに笑った。「ただ......少し、怖いだけです」
「怖い?」
「ええ。もし、誰かに会ったら。もし、息子が......家族が、まだそこにいたら」
パクの声が、震えた。
「でも、そんなことはない。わかっているんです。でも、それでも......」
優希は、何も言えなかった。
ただ、パクの肩に手を置いた。
「......ありがとうございます」
パクは、深呼吸をした。
機体が揺れる。着陸態勢に入った。
---
**午前七時。月城原子力発電所・正面ゲート。**
輸送機から降り立った瞬間、優希は息を呑んだ。
原発は、そこにあった。
巨大な建造物。冷却塔からは、まだ蒸気が立ち上っている。つまり、まだ稼働している。
だが――
「誰も、いない......」
リー・ジュンホが、呟いた。
ゲートは開いたまま。守衛室には誰もいない。駐車場には車が並んでいるが、人の姿はない。
「制御室へ急ぎます!」
パクが先頭を切って走り出した。
優希も、その後を追う。
---
**制御室。**
ドアを開けた瞬間、異様な光景が広がっていた。
警告音が鳴り響いている。赤いランプが点滅している。
だが、席には誰もいない。
コーヒーカップが、デスクの上に置かれたまま。椅子は倒れたまま。
まるで、人々が突然消え去ったかのように――。
「これは......」
パクが、制御パネルに駆け寄った。
「冷却系統に異常! 温度が上昇しています!」
「どのくらい?」
「......このままでは、六時間後にメルトダウンのリスクが」
優希の背筋に、冷たいものが走った。
「六時間......予想より早い!」
「消失後、誰も制御していなかったからです! すぐに手動停止を――」
その時、建物全体が揺れた。
「地震!?」
「いえ、違う!」リーが叫んだ。「これは――」
再び揺れ。今度はもっと激しい。
天井から、粉塵が降ってくる。
「爆発音だ!」
パクが、窓の外を見て叫んだ。
「第三号機から煙が!」
優希も窓に駆け寄った。
原発の一角から、黒煙が上がっている。
「なぜ......」
「わかった!」パクが制御パネルを見て叫んだ。「第三号機の冷却ポンプが故障している! このままでは水素爆発が――」
その瞬間、轟音。
窓ガラスが振動する。
第三号機の建屋が、爆発した。
「くそっ!」
優希は、通信機を掴んだ。
「こちら月城チーム! 第三号機が爆発! 繰り返す、第三号機が爆発した!」
『こちら官邸作戦室。被害状況は!?』
健吾の声だ。
「建屋の一部が崩壊。放射能漏れの可能性あり!」
『撤退するか!?』
「いや!」優希は叫んだ。「まだ他の号機が残ってる! 今撤退したら、全部がメルトダウンする!」
『でも――』
「やる! やるしかない!」
優希は、パクを見た。
「パクさん、第一号機と第二号機の緊急停止、できますか!?」
「......できます」
パクの目には、決意の光があった。
「ただし、時間が必要です。最低でも三時間」
「三時間......」
優希は、窓の外を見た。黒煙が、風に乗って流れてくる。
「放射能の濃度は?」
リーが、線量計を見た。
「まだ許容範囲内。でも、上がっています」
「時間がない......」
優希は、拳を握った。
そして――
「パクさん、お願いします。第一号機と第二号機を止めてください」
「佐藤先生、あなたは?」
「僕は......第三号機へ行きます」
「なんですって!?」
リーが叫んだ。
「正気ですか!? あそこは爆発したんですよ!?」
「わかってる。でも、第三号機の冷却系統を復旧させないと、放射能漏れが止まらない」
「でも、あなたは原子力の専門家じゃない!」
「......そうだ」
優希は、苦笑した。
「僕の専門はエネルギーシステム。原子炉は専門外だ。でも」
優希は、パクを見た。
「パクさんは、ここで第一号機と第二号機を止めなきゃいけない。他に行ける人間がいない」
「待ってください! 私が行きます!」
リーが前に出た。
「私は技術者じゃない。でも、指示に従うことはできる。佐藤先生、あなたがここから指示を出してください。私が現場へ行きます」
優希は、リーを見た。
四十五歳の男性。元・商社マン。技術的な知識はない。
でも、その目には――迷いがなかった。
「......リーさん」
「私は、あなたを信じると言いました」リーは、静かに言った。「だから、あなたも私を信じてください。私は、逃げません」
優希の目が、熱くなった。
「......わかりました」
優希は、通信機をリーに渡した。
「これを持って行ってください。僕が指示を出します。絶対に、生きて帰ってきてください」
「ええ」
リーは、防護服を着た。
そして、第三号機へと走り出した。
---
**午前八時。第三号機・建屋内。**
リーは、暗闇の中を進んでいた。
爆発で照明が落ち、非常灯だけが頼りだ。
通信機から、優希の声が聞こえる。
『リーさん、聞こえますか?』
「聞こえます」
『今から指示します。まず、冷却ポンプの場所を確認してください。建屋の地下一階、西側です』
「了解」
リーは、階段を降りた。
足元が、水で濡れている。
冷却水が漏れているのか。
『リーさん、線量計の数値は?』
リーは、腰の線量計を見た。
「......上がっています。毎時五十ミリシーベルト」
『まだ大丈夫です。作業時間は三十分以内に抑えてください』
「わかりました」
リーは、さらに奥へ進んだ。
その時――
足が、何かに引っかかった。
「うわっ!」
リーは、転倒しそうになった。
懐中電灯を足元に向ける。
そして――
「......っ!」
リーは、息を呑んだ。
そこには、作業服を着た男性が倒れていた。
いや、倒れているのではない。
「服だけ......」
作業服が、そこにあった。中身のない、ただの服。
まるで、人間が一瞬で消え去ったかのように。
『リーさん? どうしました?』
優希の声が聞こえる。
「......いえ、何でもありません」
リーは、立ち上がった。
深呼吸をする。
「続けます」
『了解。もうすぐ冷却ポンプの部屋です。ドアを開けてください』
リーは、重いドアを開けた。
その向こうには――
巨大な機械。
冷却ポンプだ。
だが、その一部が破損している。パイプが折れ、水が噴き出している。
『見えますか? ポンプの右側、制御弁があります』
「見えます」
『その弁を閉じてください。時計回りに、全力で』
「了解」
リーは、弁に手をかけた。
固い。
全力で回す。
ギギギ......
金属が軋む音。
「回らない......!」
『もっと力を! あなたならできます!』
優希の声に、力が込められている。
リーは、歯を食いしばった。
「うおおおお!」
全身の力を込めて、弁を回す。
そして――
カチン。
弁が、閉まった。
「やった......!」
『リーさん、成功です! 冷却水の漏れが止まりました!』
「本当ですか!?」
『はい! これで第三号機の暴走は防げます! すぐに戻ってきてください!』
リーは、笑った。
疲労と、安堵と、そして――達成感。
「わかりました。今、戻ります」
リーは、来た道を引き返し始めた。
その時――
再び、建物が揺れた。
「!?」
天井から、コンクリートの破片が降ってくる。
「まずい......!」
リーは、走り出した。
階段を駆け上がる。
だが――
ゴゴゴゴゴ......
天井が、崩れ始めた。
「リーさん!? リーさん、応答してください!」
優希の声が、遠くなる。
リーは、必死に走った。
出口が見える。
あと少し――
その瞬間、目の前の天井が崩落した。
「うわああああ!」
---
**制御室。**
「リーさん! リーさん!!」
優希は、通信機に向かって叫んでいた。
だが、応答はない。
「くそっ......!」
優希は、立ち上がった。
「佐藤先生、どこへ!?」
「第三号機へ! リーさんを助けに――」
「待ってください!」
パクが、優希の腕を掴んだ。
「今、あなたが行っても無駄です! それに、第一号機と第二号機の停止作業が――」
「でも!」
「佐藤先生」
パクは、優希の目を見た。
「あなたは、ここにいなければならない。あなたは、全体を見なければならない。一人を救うために、全体を危険にさらすことはできません」
「......」
優希は、拳を握りしめた。
パクの言うことは、正しい。
でも――
「僕は......僕は......」
その時、通信機から雑音が聞こえた。
『......こちら......リー......』
「リーさん!?」
『......生きて......ます......』
「無事なんですか!?」
『ええ......瓦礫に......埋まって......ますが......怪我は......ありません......』
優希は、安堵のため息をついた。
「今、助けを――」
『いえ......大丈夫です......自力で......脱出できます......それより......』
リーの声が、少し明瞭になった。
『第三号機......冷却成功......ですよね?』
「はい! 成功です! あなたのおかげで!」
『......よかった......』
リーの声には、笑みが含まれていた。
『では......私は......これから......脱出します......少し......時間が......かかるかも......しれませんが......』
「待ってます! 絶対に、戻ってきてください!」
『ええ......約束......します......』
通信が、途切れた。
優希は、その場に座り込んだ。
緊張の糸が、切れた。
「佐藤先生......」
パクが、優希の肩を叩いた。
「彼は、立派でした。そして――あなたも」
「僕は......何もしてない」
「いいえ」パクは首を振った。「あなたは、信じた。それが、もっとも大切なことです」
優希は、パクを見た。
そして、小さく笑った。
「......ありがとうございます、パクさん」
「さあ」パクは、制御パネルに向き直った。「我々の仕事を続けましょう。第一号機と第二号機を、無事に止めるまで」
優希は、立ち上がった。
「はい。やりましょう」
---
**午前十一時。月城原子力発電所・正門。**
第一号機と第二号機の緊急停止作業が、完了した。
そして――
瓦礫の中から、リー・ジュンホが這い出してきた。
全身埃まみれ、防護服は破れている。
だが、その顔には――笑顔があった。
「リーさん!」
優希は、駆け寄った。
「大丈夫ですか!?」
「......ええ。少し......疲れましたが」
リーは、その場に座り込んだ。
「やりましたね、佐藤先生」
「あなたが、やったんです」
「いいえ」リーは首を振った。「我々が、やったんです。日本人も、韓国人も、みんなで」
優希は、その言葉に涙が溢れそうになった。
「......そうですね。みんなで、やりました」
パクが、二人のもとに来た。
「輸送機が迎えに来ます。帰りましょう」
「ええ」
三人は、空を見上げた。
青い空。そして、遠くから聞こえる輸送機のエンジン音。
「これが......始まりですね」
リーが、呟いた。
「ええ」優希は頷いた。「J-リセットの、始まりです」
---
**同日、午後三時。首相官邸・作戦室。**
スクリーンには、世界地図が表示されている。
赤い点が、次々と緑に変わっていく。
「月城原発、停止完了」
「大亜湾原発、停止完了」
「カットノム原発、停止完了」
報告が、次々と入ってくる。
優希は、その光景を見つめていた。
「やった......やったぞ......」
健吾が、優希の肩を叩いた。
「お前、すげえよ。本当にやりやがった」
「僕じゃない。みんなが、やったんだ」
優希は、スクリーンを見た。
緑の点。
一つ一つが、誰かの命がけの作戦の結果だ。
「第一陣、百二十基のうち、百十五基の停止を確認」
石橋副長官が、報告した。
「残り五基は......」
「ロシアの三基と、中東の二基です。アクセスが困難で、まだ到達できていません」
「......そうか」
優希は、唇を噛んだ。
完璧ではない。でも――
「でも、これで最悪の事態は避けられました」
美咲が、優希に微笑みかけた。
「あなたの判断は、正しかった。在日外国人との協力、大成功です」
「......ありがとうございます」
その時、ドアが開いた。
桜井晋三だ。
「佐藤君」
「はい」
「君の作戦、見事だった」
桜井は、珍しく笑顔を見せた。
「オペレーション・プロメテウス、成功だ。よくやった」
「......ありがとうございます」
「だが」
桜井の表情が、引き締まった。
「これは、始まりに過ぎない。エネルギー問題は、まだ解決していない。そして、食料問題も待っている」
「わかっています」
「君には、引き続き総責任者を務めてもらう。いいな?」
「......はい」
桜井は、優希の肩を叩いた。
「期待してるぞ、佐藤優希」
そして、去っていった。
優希は、窓の外を見た。
東京の夕暮れ。
いつもと変わらない景色。
でも、世界は変わった。
「さて」
優希は、振り返った。
「次は、エネルギーだ。中東の油田を、確保しなきゃいけない」
「マジか......休む暇もないのかよ」
健吾が、苦笑した。
「当たり前だ。僕たちは今、全人類の未来を背負ってるんだから」
優希は、笑った。
疲れている。
でも――
まだ、戦いは終わっていない。




