第1章2
同日、午後二時。東京・新宿区。
優希と美咲は、政府の公用車で新宿のビルへ向かっていた。
ここは、在日外国人コミュニティの中心地。特に韓国系、中国系の住民が多い地域だ。
「緊張してますね」
美咲が、助手席から振り返った。
「......バレバレですか」
「ええ。でも、無理もない」美咲は、資料を見ながら言った。「これから会う人物は、リー・ジュンホ。在日韓国人三世、四十五歳。元・大手商社の重役で、現在は在日外国人コミュニティの事実上のリーダーです」
「事実上?」
「ええ。公式な組織ではないんですが、消失以降、在日外国人たちが自然と彼のもとに集まっている。カリスマ性があり、冷静で、交渉上手。そして――」
美咲は、優希を見た。
「日本政府を、全く信用していません」
「......それは、当然かもしれませんね」
優希は、窓の外を見た。
街を歩く人々の中に、いつもより多くの外国人の姿がある。コンビニの前で立ち話をする中国人グループ。ベンチに座り込んで泣いているベトナム人女性。スマートフォンを握りしめ、呆然としているフィリピン人男性。
彼らは、一夜にして全てを失った。
母国も、家族も、友人も。
「美咲さん」
「はい?」
「もし、僕が彼らの立場だったら......日本政府の言うことを、信じられると思いますか?」
美咲は、少し考えてから答えた。
「信じられないでしょうね。でも」
彼女は、優希の目を見た。
「あなたは政府じゃない。あなたは、科学者だ。そして、何より――あなたは本気で『全員で生き残る』ことを考えている。それは、伝わります」
「伝わる......かな」
「伝えるんです。言葉で。熱意で」
車が、ビルの前に停まった。
十階建ての雑居ビル。一階には韓国料理店、中華料理店が並んでいる。
「三階の会議室です」美咲が降りながら言った。「既に、各国のコミュニティ代表が集まっています」
「各国......何カ国くらいですか?」
「主要なのは、韓国、中国、ベトナム、フィリピン、ブラジル、ネパール。合計で約三百四十万人の代表です」
優希は、ごくりと唾を飲み込んだ。
三百四十万人。
彼らの未来が、これからの交渉にかかっている。
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**三階・会議室。**
ドアを開けると、約二十人の視線が一斉に優希に向けられた。
年齢も、性別も、服装もバラバラ。だが、全員の目に共通しているものがあった。
警戒と、疲労と、そして――絶望。
「ようこそ、佐藤先生」
流暢な日本語。部屋の奥から、一人の男性が立ち上がった。
リー・ジュンホだ。
五十代に見えるが、実際は四十五歳。黒いスーツを着こなし、落ち着いた物腰。だが、その目は鋭い。
「リーさん、お時間をいただきありがとうございます」
優希は、丁寧に頭を下げた。
「いえ。こちらこそ、来ていただいて」リーは、わずかに笑った。「政府の方が、我々のような『残留者』に会いに来るとは思いませんでした」
「残留者......」
「ええ」リーは、部屋を見回した。「我々は、日本に『残された』外国人です。望んで残ったわけではない。ただ、たまたま日本にいた。それだけです」
優希は、その言葉の重さを感じた。
「紹介させてください」リーが、順番に指していく。
「ワン・シュウ。中国人コミュニティの代表。元・IT企業のCTO」
四十代の男性が、無表情で会釈した。
「グエン・ティ・ラン。ベトナム人コミュニティの代表。看護師です」
三十代の女性。疲れた顔だが、芯の強さを感じさせる。
「カルロス・サントス。ブラジル人コミュニティの代表。工場労働者です」
五十代の、筋骨たくましい男性。腕を組んでいる。
「そして――」
リーは、部屋の隅にいる初老の男性を指した。
「パク・ジョンス。元・韓国の原子力発電所の主任技術者です」
優希の目が、輝いた。
「原子力......!」
「ええ」パク・ジョンスが、ゆっくりと立ち上がった。「私は三十年間、韓国の月城原子力発電所で働いていました。定年退職後、息子を頼って日本に来て......そして、これです」
彼の声は、静かだが、深い悲しみを含んでいた。
「息子は、韓国に出張中でした。妻も、娘も、孫も。全員、韓国にいました」
「......」
「私だけが、生き残った」
沈黙。
重く、痛い沈黙。
優希は、何を言えばいいのかわからなかった。
「佐藤先生」
リーが、口を開いた。
「単刀直入に聞きます。政府は、我々に何を求めているのですか?」
優希は、深呼吸をした。
そして、まっすぐリーを見て言った。
「協力を、お願いしたいんです」
「協力?」
「はい。世界中の原子力発電所が、今、無人になっています。このままでは、七十二時間以内にメルトダウンのリスクがある。それを防ぐために――」
優希は、パク・ジョンスを見た。
「各国の原発に精通した技術者の力が、必要なんです」
パクは、何も言わなかった。
ただ、じっと優希を見ている。
「しかし」
ワン・シュウが、冷たい声で言った。
「それは、我々を『利用する』ということですね?」
「利用......」
「そうでしょう?日本政府は、我々の技術が必要だから、今さら頭を下げに来た。でも、これが終わったら?我々はどうなるんですか?」
優希は、言葉に詰まった。
「日本人として扱われるんですか?それとも、二等市民として?あるいは、『お荷物』として追い出されるんですか?」
「そんなことは......」
「ないと、言い切れますか?」
ワンの目が、鋭くなった。
「私は、中国で家族を失いました。両親も、妻も、子供も。全員です」
彼の声が、震えた。
「私には、もう何も残っていない。母国も、家族も、未来も。ただ生きているだけです。そんな私に、『協力しろ』と?」
優希は、拳を握った。
何と答えればいいのか。
どんな言葉が、彼らの心に届くのか。
「ワンさん」
美咲が、静かに言った。
「あなたの悲しみは、想像を絶するものだと思います。言葉では、慰めることもできない」
ワンは、美咲を睨んだ。
「でも」美咲は続けた。「今、この瞬間も、世界中で原発が暴走しつつある。もしメルトダウンが起これば、放射能汚染は地球全体に広がります。日本も、例外ではない」
「......」
「つまり」美咲は、全員を見回した。「これは、『日本のため』の作戦ではありません。『全人類のため』の作戦です。あなたたちも、私たちも、もう区別はない。全員が、地球に残された最後の人類なんです」
グエン・ティ・ランが、小さく笑った。
「綺麗事ですね」
「ええ、綺麗事です」美咲は、認めた。「でも、綺麗事でも何でも、生き残らなければ意味がない。そうでしょう?」
ランは、何も答えなかった。
「佐藤先生」
リーが、優希に向き直った。
「あなた個人に聞きます。政府の代表としてではなく、一人の人間として」
「はい」
「あなたは、本当に我々を『全人類の一員』として見ていますか?それとも、口先だけですか?」
優希は、リーの目を見た。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「僕は......科学者です。政治家じゃない。だから、政治的に正しいことを言うのは苦手です」
「......」
「でも、一つだけ確信していることがあります」
優希は、全員を見回した。
「科学に、国境はない。物理法則は、日本人にも外国人にも、平等に働く。原子炉のメルトダウンも、放射能汚染も、国籍を選びません」
優希は、拳を握った。
「だから、僕たちは協力しなければならない。日本人も、韓国人も、中国人も、ベトナム人も。全員が、同じ船に乗っているんです。この船が沈めば、全員が死ぬ」
「そして――」
優希は、パク・ジョンスを見た。
「パクさん。あなたは家族を失った。それは、取り返しのつかない悲劇です。でも」
優希の目に、涙が浮かんだ。
「あなたの技術で、何百万人もの命を救えるんです。それは、あなたの家族も望んでいることじゃないでしょうか」
パクの目が、わずかに揺れた。
「僕は......あなたに『日本のために働け』とは言いません。『人類のために働いてください』とお願いします」
沈黙。
長い、長い沈黙。
そして――
「......わかりました」
パク・ジョンスが、ゆっくりと立ち上がった。
「私は、協力します」
「パクさん......」
「ただし」パクは、優希を見た。「一つ、条件があります」
「何でしょう?」
「私だけじゃない。チームを組ませてください。韓国人、中国人、日本人。混成チームです」
「もちろんです!」
「そして」パクは、リーを見た。「リーさん、あなたにも来てほしい」
「私が?私は技術者じゃない」
「いいえ」パクは首を振った。「あなたは、リーダーです。技術だけでは、この作戦は成功しない。人をまとめる力が必要だ」
リーは、しばらく黙っていた。
そして――
「......わかった」
リーは、優希に向き直った。
「我々も、協力しましょう。ただし、佐藤先生」
「はい」
「これは、取引です。我々は技術を提供する。その代わり、日本政府は我々を『全人類の一員』として扱うと約束してください」
「約束します」
優希は、即答した。
「僕の名において、約束します」
リーは、わずかに笑った。
「あなたの名において、ですか。政府じゃなく」
「はい。僕は、政府を代表してここに来たわけじゃない。人類を代表して来たんです」
「......面白い人だ、あなたは」
リーは、手を差し出した。
「では、契約成立です。佐藤優希先生。我々は、あなたに協力します」
優希は、その手を握った。
温かい手だった。
人間の手だった。
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**午後四時。首相官邸。**
優希と美咲が戻ると、会議室には既に多くの人が集まっていた。
「どうだった?」
健吾が駆け寄ってきた。
「成功した。パク・ジョンスさんを始め、各国の技術者が協力してくれることになった」
「マジか!やったな!」
健吾は、優希の肩を叩いた。
「それで、チーム編成は?」
「混成チームでいく。日本人と外国人、半々くらいで」
「了解。じゃあ、俺も通信機材の準備を――」
「待て」
低い声。
桜井晋三が、会議室に入ってきた。
「佐藤君、報告を聞いた」
「はい」
「外国人との混成チーム、か」桜井は、腕を組んだ。「リスクが高いな」
「リスク?」
「裏切られる可能性がある。彼らは、日本政府を信用していない。もし、現地で反乱を起こしたら?」
「そんなことは......」
「『そんなことはない』と、言い切れるのか?」
桜井は、優希を見た。
「君は科学者だ。人間の心理は、専門外だろう?」
優希は、言葉に詰まった。
確かに。人間の心は、方程式では解けない。
「桜井大臣」
美咲が、口を挟んだ。
「リスクはあります。でも、彼ら抜きでは作戦は成功しません。これは、賭けるしかない」
「賭け、か」桜井は、鼻で笑った。「ギャンブルで、人類の未来を決めるのか?」
「違います」
優希は、桜井を見た。
「これは、ギャンブルじゃない。信頼です」
「信頼?」
「はい。僕は、彼らを信じます。彼らも人間です。生き残りたいと思っている。だから、協力してくれる」
桜井は、じっと優希を見た。
そして――
「......いいだろう。君のやり方でやれ。ただし」
桜井は、冷たく言った。
「失敗したら、次は私のやり方だ。覚えておけ」
優希は、頷いた。
「覚えておきます」
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**午後六時。作戦室。**
巨大なスクリーンに、世界地図が表示されている。
赤い点が、無数に点灯している。
世界中の原子力発電所だ。
「現在、優先順位の高い原発をリストアップしました」
石橋副長官が、資料を配る。
「韓国・月城原発、中国・大亜湾原発、フランス・カットノム原発、アメリカ・ディアブロキャニオン原発......合計、百二十基を第一陣でカバーします」
「輸送は?」
「自衛隊の輸送機と、民間の航空機を総動員します。パイロットは足りているので、問題ありません」
「通信は?」
健吾が手を上げた。
「衛星通信を確保した。各チームに通信機材を配布する。リアルタイムで状況を把握できる」
「よし」
優希は、地図を見つめた。
赤い点。
一つ一つが、人類の命運を握っている。
「出発は、明日午前六時。各チームは、それぞれの原発に向かい、手動で緊急停止を実行する。作戦時間は――」
優希は、時計を見た。
「残り、五十四時間」
会議室が、静まり返った。
「大丈夫だ」
優希は、全員を見回した。
「僕たちなら、できる。日本人も、外国人も、全員で協力すれば――必ず、成功する」
そして、優希は宣言した。
「オペレーション・プロメテウス、開始する!」