第7章1
一月十二日、午前九時。国立エネルギー研究所・優希の研究室。
優希は、デスクに向かって資料を読んでいた。
桜井の「新世界秩序法案」の詳細。
読めば読むほど――
「......合理的だ」
優希は、呟いた。
**統一政府:**
意思決定の効率化。重複する行政コストの削減。
**地域管理:**
限られた人員で、広大な地球を管理するための現実的手段。
**資源の中央管理:**
無駄を省き、公平に配分するシステム。
**移動の制限:**
治安維持、感染症対策、資源の効率的配分。
「全部......科学者として見れば、正しい......」
優希は、頭を抱えた。
「でも......」
ノックの音。
「入ってます」
ドアが開き、健吾が入ってきた。
「よう、優希。朝から難しい顔してんな」
「健吾さん......」
「桜井の法案、読んでたのか?」
「......はい」
健吾は、椅子に座った。
「で、どう思う?」
「......合理的です」
優希は、正直に答えた。
「科学者として見れば、効率的で、論理的で、正しい」
「でも?」
「でも――」
優希は、拳を握った。
「何かが、おかしい気がするんです」
「何が?」
「わかりません」
優希は、窓の外を見た。
「データ的には正しい。でも、心が――納得しないんです」
健吾は、しばらく黙っていた。
そして――
「なあ、優希」
「はい」
「お前、変わったな」
「......変わった?」
「ああ」
健吾は、笑った。
「昔のお前なら、データが正しければそれで終わりだった」
「でも、今は違う。『心が納得しない』って言える」
健吾は、優希を見た。
「それって、成長だと思うぜ」
「成長......」
「ああ」
健吾は、立ち上がった。
「科学者だけじゃなくて、人間としても成長してる」
「それって......いいことなんでしょうか」
「いいことに決まってんだろ」
健吾は、優希の肩を叩いた。
「お前は、リーダーなんだから」
---
**同日、午後二時。首相官邸・会議室。**
緊急閣議が開かれていた。
藤堂総理、桜井、石橋副長官、各省庁の大臣、そして――優希。
「では」
藤堂総理が、口を開いた。
「桜井大臣の『新世界秩序法案』について、議論を始める」
藤堂総理は、桜井を見た。
「まず、桜井大臣から説明を」
「ありがとうございます」
桜井は、立ち上がった。
資料を配る。
「この法案の目的は、秩序の確立です」
桜井は、スクリーンに図を表示した。
「現在、地球上には約一億二千万人の日本人と、三百四十万人の在日外国人がいます」
「この一億二千三百四十万人を、効率的に管理するためには――」
桜井は、組織図を表示した。
「中央集権的な政府が必要です」
「現在のような、地域ごとのバラバラな管理では、非効率です」
桜井は、データを見せた。
「例えば、資源配分。現在、各地域が独自に資源を管理しています」
「その結果――」
グラフが表示される。
「資源の無駄が、約三十パーセント発生しています」
「三十パーセント......」
藤堂総理が、眉をひそめた。
「それは、深刻だな」
「ええ」
桜井は、頷いた。
「しかし、中央管理にすれば――」
別のグラフ。
「無駄を五パーセント以下に削減できます」
「......」
「そして、治安」
桜井は、犯罪統計を見せた。
「消失後、犯罪率が上昇しています。特に、日本人と在日外国人の間での衝突」
「これを防ぐためには、明確な管理が必要です」
桜井は、全員を見回した。
「この法案は、理想ではありません。現実です」
桜井は、席に座った。
藤堂総理は、優希を見た。
「佐藤君。君の意見は?」
優希は、立ち上がった。
深呼吸。
「......桜井大臣の分析は、正しいです」
ざわめきが起こった。
「佐藤君......」
石橋副長官が、驚いた顔をした。
「統一政府、中央管理、資源の効率化――全て、科学的には合理的です」
優希は、資料を見た。
「データも、正確です。無駄が三十パーセント、それは事実でしょう」
「では」
桜井が、口を挟んだ。
「君も、この法案に賛成するのか?」
「いいえ」
優希は、桜井を見た。
「反対です」
「......なぜだ?」
「理由は、三つあります」
優希は、指を三本立てた。
「一つ。この法案は、人権を無視しています」
優希は、法案の第五条を指した。
「『全ての人間を日本国民として統合』。これは、在日外国人のアイデンティティを奪うものです」
「アイデンティティ、か」
桜井は、冷笑した。
「それは、感情論だ」
「いいえ」
優希は、首を振った。
「これは、人間の尊厳の問題です」
優希は、全員を見回した。
「人間は、データじゃありません。感情を持ち、文化を持ち、誇りを持つ存在です」
「それを無視した効率化は――」
優希は、拳を握った。
「機械の管理と同じです」
「......」
「二つ目」
優希は、続けた。
「この法案は、移動の自由を制限します」
「治安維持のため、必要だ」
桜井が、反論した。
「確かに、治安維持は重要です」
優希は、頷いた。
「でも、移動の自由は基本的人権です。それを制限するには、よほどの理由が必要です」
「治安悪化は、よほどの理由だろう」
「いいえ」
優希は、データを見せた。
「犯罪率の上昇は、確かにあります。でも――」
グラフを表示する。
「昨年比で十五パーセント増。確かに増えています」
「しかし、絶対数で見れば――」
別のグラフ。
「まだ、管理可能な範囲です」
優希は、桜井を見た。
「移動の自由を制限するほど、深刻ではありません」
桜井は、何も言わなかった。
「三つ目」
優希は、最後の指を立てた。
「この法案は、時期尚早です」
「時期尚早?」
藤堂総理が、尋ねた。
「はい」
優希は、資料を見せた。
「統一政府、中央管理――これらは、いずれ必要になるかもしれません」
「でも、今ではありません」
優希は、タイムラインを表示した。
「消失から、まだ三ヶ月です」
「人々は、まだ混乱の中にいます。家族を失った悲しみ、未来への不安――」
優希は、全員を見回した。
「そんな中で、強制的な秩序を押し付けるのは――」
「反発を生むだけです」
沈黙。
長い、重い沈黙。
「では」
桜井が、口を開いた。
「君は、どうすべきだと思うんだ?」
「段階的に、進めるべきです」
優希は、即答した。
「まず、対話と理解。時間をかけて、人々に納得してもらう」
「そして、合意が得られたら――統一を進める」
「時間がかかるぞ」
桜井が、言った。
「その間に、資源の無駄は続く。治安も悪化する」
「それでも」
優希は、桜井を見た。
「急いで失敗するより、時間をかけて成功する方がいい」
「......」
藤堂総理は、考え込んでいた。
「難しいな......」
藤堂総理は、全員を見回した。
「各大臣の意見を聞きたい」
次々と、意見が出た。
**賛成派(桜井支持):**
「効率化は必要だ」
「治安維持を優先すべき」
「強いリーダーシップが求められる」
**反対派(優希支持):**
「人権を無視できない」
「時間をかけるべき」
「強制は反発を生む」
拮抗している。
藤堂総理は、頭を抱えた。
「......決められない」
藤堂総理は、顔を上げた。
「では、こうしよう」
藤堂総理は、宣言した。
「国民投票を行う」
「国民投票!?」
全員が、驚いた。
「ああ」
藤堂総理は、頷いた。
「この法案は、全人類に関わる問題だ。だから、全人類に決めてもらう」
「投票権は、十八歳以上の全ての人間。日本人も、在日外国人も」
藤堂総理は、カレンダーを見た。
「投票日は、二月一日。三週間後だ」
「それまでに、双方が国民に訴えてくれ」
藤堂総理は、桜井と優希を見た。
「賛成派は桜井大臣が、反対派は佐藤君が、それぞれ代表となる」
「そして――」
藤堂総理は、深呼吸をした。
「投票で決まった方を、採用する」
---
**午後六時。優希の研究室。**
優希は、一人でソファに座っていた。
「国民投票......」
呟く。
三週間。
三週間で、国民を説得しなければならない。
「できるのか......」
ドアが開いた。
美咲が入ってきた。
「佐藤先生」
「早川さん......」
「お疲れ様です」
美咲は、コーヒーを差し出した。
「ありがとうございます」
優希は、コーヒーを受け取った。
二人は、しばらく黙っていた。
「早川さん」
「はい」
「僕、正しいことをしているんでしょうか」
優希は、コーヒーカップを見つめた。
「桜井大臣の言うことも、一理あるんです」
「......」
「効率化、秩序、管理――全部、必要なことです」
優希は、顔を上げた。
「でも、僕はそれに反対している」
「それって――」
優希の声が、震えた。
「感情で動いているだけじゃないでしょうか」
美咲は、優希の隣に座った。
「佐藤先生」
「はい」
「あなたは、間違っていません」
美咲は、優希の目を見た。
「確かに、桜井大臣の主張には合理性があります」
「でも――」
美咲は、優希の手を握った。
「人間は、機械じゃありません」
「効率だけで動く存在じゃないんです」
美咲は、笑った。
「あなたは、それをわかっている。だから、反対しているんです」
「......」
「それは、感情論じゃありません」
美咲の声が、優しくなった。
「人間性です」
優希は、美咲を見た。
そして――涙が溢れた。
「早川さん......」
「泣いてもいいですよ」
美咲は、優希を抱きしめた。
「あなたは、ずっと頑張ってきました」
「もう、十分です」
優希は、美咲の胸で泣いた。
「僕......怖いんです......」
「何が?」
「失敗することが......」
優希の声が、震えた。
「もし、国民投票で負けたら――桜井大臣の法案が通ります」
「そして――」
「在日外国人の文化が、失われます」
「......」
「それが、怖いんです」
美咲は、優希の頭を撫でた。
「大丈夫です」
「でも――」
「大丈夫です」
美咲は、優希の顔を上げさせた。
「あなたには、仲間がいます」
「仲間......」
「ええ」
美咲は、笑った。
「健吾さん、田村さん、リーさん、パクさん、アフマドさん――みんな、あなたの味方です」
「そして――」
美咲は、優希の目を見た。
「私も、あなたの味方です」
優希は、美咲を見た。
そして――笑った。
「......ありがとうございます」
二人は、抱き合った。
---
**同時刻。桜井の執務室。**
桜井晋三は、窓の外を見ていた。
「国民投票、か」
桜井は、呟いた。
「面白い」
桜井は、机に戻った。
そして――資料を広げた。
『世論操作戦略・第二弾』
「佐藤優希。お前は、理想を語るだろう」
桜井は、不敵に笑った。
「だが、国民が求めているのは――理想じゃない」
「安心だ。秩序だ。強いリーダーシップだ」
桜井は、拳を握った。
「そして、それを与えられるのは――私だ」