第3章1
十一月十五日。東京・国立エネルギー研究所。
優希は、久しぶりに自分の研究室に戻っていた。
国会での勝利から一週間。
J-リセット計画は順調に進んでいたが、優希の心には一つの疑問が引っかかっていた。
「なぜ、日本だけが残ったのか......」
デスクには、大量の観測データ。
地震計、重力計、電磁波測定器。
消失の瞬間、日本中の観測機器が異常なデータを記録していた。
「これは......」
優希は、グラフを見つめた。
消失の瞬間――午前六時ちょうど。
全ての観測機器が、同時に異常値を示している。
「重力異常......0.003%の変動」
「地磁気異常......通常の十倍」
「そして――」
優希は、別のグラフを広げた。
「空間歪み......?」
ノックの音。
「入ってます」
ドアが開き、健吾が入ってきた。
「よう、優希。久しぶりの研究室だな」
「健吾さん。どうしたんですか?」
「お前を迎えに来た。今から、特別会議がある」
「特別会議?」
「ああ」健吾は、タブレットを見せた。「ロシアで、異常事態が発生した」
「ロシア......」
優希は、立ち上がった。
「何が起きたんですか?」
「それは、会議で説明する。急ごう」
---
**午前十時。首相官邸・会議室。**
優希が到着すると、既に多くの人が集まっていた。
石橋副長官、美咲、リー、パク、そして――桜井晋三。
「佐藤先生、お待ちしていました」
石橋が、優希を席に案内した。
「それでは、始めます」
石橋は、スクリーンにロシアの地図を表示した。
「昨日、ロシア・シベリア地方で異常な現象が観測されました」
スクリーンに、衛星写真が表示される。
雪に覆われた大地。
だが、その一部が――光っていた。
「これは......」
「光の柱です」
石橋は、別の画像を表示した。
「高度約三千メートルまで伸びる、青白い光の柱。そして、その周辺では――」
次の画像。
建物が、歪んでいた。
まるで、空間そのものが歪んでいるかのように。
「空間歪み......」
優希は、息を呑んだ。
「ええ」石橋は頷いた。「そして、この現象は拡大しています」
動画が再生される。
光の柱が、徐々に太くなっていく。
そして、その範囲も広がっている。
「現在の直径、約五キロメートル。このペースで拡大すれば、一週間後には――」
石橋は、地図を指した。
「モスクワに到達します」
会議室が、ざわめいた。
「何が原因ですか?」
優希が、尋ねた。
「わかりません」石橋は首を振った。「ただ、一つだけ確実なことがあります」
「何ですか?」
「これは、消失と同じ現象です」
石橋は、優希を見た。
「消失の瞬間、日本でも同様の空間歪みが観測されました。ただし、それは一瞬で消えた」
「でも、ロシアのものは消えていない......」
「ええ。そして、拡大している」
優希は、考えた。
空間歪み。
消失との関連。
そして――
「待ってください」
優希は、立ち上がった。
「もしかして、これは......」
優希は、ホワイトボードに数式を書き始めた。
「特異点の逆現象かもしれません」
「逆現象?」
「ええ」優希は、図を描いた。「消失の時、日本は『特異点』になった。つまり、空間が局所的に安定化した」
「でも、ロシアで起きているのは、その逆。空間が不安定化している」
優希は、図を指した。
「このまま拡大すれば――」
「どうなるんだ?」
桜井が、口を挟んだ。
「......わかりません」
優希は、正直に答えた。
「最悪の場合、ロシア全土が――消失するかもしれません」
「なんだと!?」
会議室が、騒然となった。
「佐藤先生」
美咲が、冷静に尋ねた。
「止める方法は、ありますか?」
「......わかりません。でも」
優希は、グラフを見た。
「現地で観測すれば、何かわかるかもしれません」
「現地......ロシアに行くのか?」
桜井が、眉をひそめた。
「危険すぎる」
「でも、行かなければ何もわかりません」
「佐藤君」桜井は、腕を組んだ。「君は、J-リセット計画の総責任者だ。そんな危険な場所に行くべきではない」
「でも――」
「私が、代わりの研究者を派遣する」
「待ってください!」
優希は、桜井を見た。
「この現象は、僕の専門分野です。エネルギー、空間物理、全て僕が一番詳しい」
「だからこそ、危険なんだ」
桜井は、冷ややかに言った。
「君が死ねば、J-リセット計画は終わる」
「......」
「石橋副長官」
桜井は、石橋を見た。
「佐藤君の派遣は、却下だ」
「しかし――」
「これは、命令だ」
桜井は、立ち上がった。
「代わりの研究チームを編成する。佐藤君は、ここで待機しろ」
桜井は、会議室を出ていった。
優希は、拳を握りしめた。
「くそっ......」
「佐藤先生」
リーが、優希に近づいた。
「諦めないでください」
「でも、桜井大臣が――」
「裏から、行きましょう」
「え?」
リーは、小声で言った。
「私が、手配します。非公式に、ロシアへ」
「でも、それは......」
「規則違反ですね」リーは、微笑んだ。「でも、必要なことです」
「リーさん......」
「佐藤先生」
パク・ジョンスも、近づいてきた。
「私も同行します」
「僕もだ」
健吾も、手を上げた。
「お前一人で行かせるわけにはいかねえ」
優希は、三人を見た。
そして――笑った。
「......ありがとうございます。みんな」
「では」
リーは、腕時計を見た。
「今夜、出発しましょう」
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**同日、午後十一時。羽田空港・非公式エリア。**
優希、健吾、リー、パクの四人は、小型プライベートジェットの前に立っていた。
「本当に、大丈夫なんですか?」
優希が、リーに尋ねた。
「ええ。このジェットは、在日外国人コミュニティが所有しているものです」
リーは、飛行機を見上げた。
「パイロットも、信頼できる仲間です」
「でも、政府にバレたら――」
「その時は、私が責任を取ります」
リーは、優希を見た。
「でも、後悔はしません。これは、必要なことです」
優希は、リーの目を見た。
強い意志と、決意。
「......わかりました。行きましょう」
四人は、飛行機に乗り込んだ。
エンジンが始動する。
そして――
飛行機は、夜空へ飛び立った。
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**十一月十六日、午前八時。ロシア・シベリア地方。**
着陸した瞬間、寒気が襲ってきた。
気温は、マイナス二十度。
「さ、寒い......」
優希は、防寒着を着込んでいたが、それでも寒い。
「こっちです」
リーが、雪の中を歩き出した。
「光の柱は、ここから三十キロ先です」
四人は、用意された四輪駆動車に乗り込んだ。
雪道を進む。
そして――
「見えた......」
優希は、息を呑んだ。
地平線の彼方に、青白い光の柱が立っていた。
まるで、天と地を繋ぐかのように。
「すごい......」
「ああ」健吾も、窓に張り付いていた。「写真で見るより、ずっとデカい」
車は、光の柱に近づいていく。
そして――
「待って!」
優希が、叫んだ。
「止まってください!」
車が、急停止した。
「どうしたんですか?」
「これ以上近づくと、危険です」
優希は、計測器を取り出した。
「空間歪みの影響範囲は、光の柱から半径約二キロ。その内側に入れば――」
優希は、計測器を見た。
「何が起こるか、わかりません」
「じゃあ、どうするんだ?」
健吾が、尋ねた。
「ここから、遠隔で観測します」
優希は、機材を車から降ろし始めた。
「健吾さん、通信機材の設置をお願いします」
「おう」
「パクさん、電源の確保を」
「了解」
「リーさんは――」
「私は、見張りをします」
リーは、双眼鏡を取り出した。
「何が起こるかわかりませんから」
四人は、それぞれの作業を始めた。
---
**午前十時。観測開始。**
優希は、モニターを見つめていた。
画面には、光の柱の詳細なデータが表示されている。
「これは......」
優希の目が、見開かれた。
「どうした?」
健吾が、覗き込んだ。
「この波形......見覚えがあります」
優希は、別のデータを呼び出した。
「これは、消失の時に日本で観測された波形です」
二つのグラフを並べる。
「完全に、一致している......」
「ということは?」
「ロシアで起きている現象は、消失と同じメカニズムです」
優希は、拳を握った。
「でも、違いが一つだけある」
「何だ?」
「日本の時は、波形が安定していた。でも、ロシアのものは――」
優希は、グラフを指した。
「不安定です。まるで、暴走しているように」
その時――
地面が、揺れた。
「地震!?」
「いえ、違います!」
優希は、計測器を見た。
「光の柱が――拡大しています!」
四人は、光の柱を見た。
確かに、太くなっている。
そして――
「うわっ!」
突風が吹いた。
いや、突風ではない。
空気そのものが、光の柱に吸い込まれているのだ。
「まずい......!」
優希は、叫んだ。
「車に戻ってください! 今すぐ!」
四人は、車に飛び乗った。
エンジンをかける。
だが――
「動かない!?」
健吾が、ハンドルを握った。
「電気系統が死んでる!」
「電磁波の影響です!」
優希は、窓の外を見た。
光の柱が、さらに太くなっている。
そして――
車が、動き始めた。
いや、引っ張られている。
光の柱に向かって。
「くそっ! 車を捨てろ!」
四人は、車から飛び降りた。
雪の上を転がる。
そして――
車が、宙に浮いた。
まるで、見えない手に掴まれたかのように。
そして、光の柱に吸い込まれていった。
「......」
四人は、呆然と立ち尽くしていた。
「今の......何だったんだ......」
健吾が、呟いた。
「重力異常......いや、空間そのものが歪んでいる」
優希は、震える手で計測器を見た。
「これは......予想以上にヤバい」
その時、優希の通信機が鳴った。
『佐藤先生! 聞こえますか!』
美咲の声だ。
「聞こえます!」
『無事ですか!?』
「なんとか......でも、車を失いました」
『それどころじゃありません! 今すぐ撤退してください!』
「え?」
『光の柱、急速に拡大しています! このままでは、あなたたちも――』
通信が、途切れた。
優希は、空を見上げた。
光の柱が、空全体を覆い始めていた。
「......逃げるぞ」
優希は、三人を見た。
「走れるだけ、走ります」
四人は、雪の中を走り出した。
だが――
光は、追いかけてくる。
まるで、生き物のように。
「佐藤先生!」
パクが、叫んだ。
「もう、無理です!」
優希は、振り返った。
光の壁が、すぐそこまで迫っている。
「くそっ......!」
優希は、拳を握った。
逃げ切れない。
このままでは――
その時。
優希の脳裏に、一つのアイデアが浮かんだ。
「待って!」
優希は、立ち止まった。
「佐藤先生!?」
「逃げないんですか!?」
「逃げません」
優希は、光の壁を見た。
「僕には、やらなきゃいけないことがある」
優希は、計測器を取り出した。
「この現象の正体を、確かめなきゃいけない」
「でも――」
「大丈夫です」
優希は、笑った。
「きっと、大丈夫です」
そして――
光が、優希を飲み込んだ。




