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短編作品

塔と翼

作者: 清水進ノ介

塔と翼


 このせかいには、それはそれは高い、塔があります。雲をつきぬけ、月までとどくような、とても高い塔です。

 その塔には優しいロボットがいて、きょうも塔を、高く伸ばし続けているのです。


 眼下に広がる真っ白な雲海は、地平線まで続いている。雲の上から見たなら、天国と見間違うような絶景だが、その下に広がっているのは地獄。分厚い雲の正体は、地表から成層圏までを覆い尽くす、毒ガスだ。海中の魚類ですらが、このガスの犠牲となった。水溶性の毒は雨に溶け、大地のみならず母なる海ですら、死だけが存在する、停止した世界へと変えてしまった。いや、地獄の方が現在の地球よりましだろう。あらゆる命が破壊され、生命の足跡の途絶えたこの星は、もはや宇宙に浮かぶ巨大な石ころでしかないのだから。

「明日は満月か。楽しみだなぁ」

 塔の頂上で、ロボットがそう言った。全身が金属で構成された、鈍色の少年のような見た目をしている。長い年月の末に、かつての輝く銀色は失われ、そのボディには細かな傷跡が無数に刻まれていた。ロボットは基本的に不眠不休で働き続けているのだが、満月の日は自身のメンテナンスをする為の、休養日になっていた。

 ロボットは満月を見るのが好きだった。この塔がまだ短かった頃は、毒ガスの雲に遮られ、月はおろか星の光すら見えなかった。初めて塔が毒ガスを超え、頭上に瞬く宝石達を目にした時の感動は、今でもはっきりと覚えていた。しかしロボットはそれと同時に、筆舌に尽くしがたい脱力感にさいなまれるようになった。毒ガスを超える高さまで塔を伸ばすことが、彼に課せられた役目、責任であった。それを果たした今もなお、彼は塔を高く伸ばし続けているのだが、自分の行動に意味が無いことは、よく分かっていたのだ。


 ロボットにはかつて、たくさんの仲間がいた。数百体を超えるロボットが塔の建設に従事し、一心不乱に働き続けた。毒ガスに脅かされた人類は、世界各地に無数の塔を建設し、ガスが届かぬ空の上へと逃れようとした。しかし、全てが遅すぎた。塔が死の壁を越えたその時、すでに人間は死に絶えていた。この塔は新天地ではなく、墓標になっただけだった。ロボット達はアイデンティティを喪失し、与えられた知性は崩壊した。ある時、一体の仲間が塔の上から身を投げた。永遠の眠りへと続く、逃避行動は連鎖し、いつの間にか彼は、独りぼっちになっていた。何度も同胞の後を追おうとしたが、どうしても無理だった。

 死が、怖かったのだ。

「……僕はなんで、こんなことを続けているんだろう。この塔に住む人は、もういない。世界のどこにも、誰もいない」

 ロボットは満月を見上げながら、自身へ数千回は繰り返した問いかけを、今日もまた口にした。

「僕がやっていることに、塔を高く伸ばし続けることに、なんの意味があるの……?」

 その時、満月の中にきらりと輝く何かが見えた。流星?隕石?ロボットはしばらくの間、ぼうっとその光を見ていたが、迫っている危険に気付き、塔の中へと急いで逃げ込んだ。その光は、真っすぐにここへ、塔の頂上へ向かってきていた。数秒後、激しい振動と衝突音が塔を襲う。塔の強度を考えれば、隕石の直撃を受けたところで問題はないはずだが、ロボットは前代未聞の出来事に恐怖し、その後十分ほど、塔の中で震えていた。

 ロボットは恐る恐る、塔の頂上の様子を確認しに行った。落ちてきたものがなんであれ、このまま隠れているわけにもいかない。ゆっくりと、頂上への階段を上がり、そっと頭部カメラを目標へと向ける。そこにあった物体は、球形のなにかだった。直径は二メートルほどで、完全な球の形を保っており、破損することなく静かにたたずんでいる。全体が乳白色で、焦げ付きが見られない。この物体は塔と衝突しても無傷だったばかりか、大気圏突入時の摩擦熱の影響すら受けていない。ロボットは球体に、おずおずと近づいてみた。すると突然ぷしゅうと音が鳴り、球体が開いた。その様は蕾が開花し、大輪となる姿を連想させ、中心に入った亀裂が、放射状に広がり、その中にいた者の姿を外へと晒した。

 ロボットはその者の全体像より先に、背に生えていた翼のような器官に、視線を吸い込まれた。サンゴ礁のような形状で、ほんのりと赤みがかかった、石灰質の物体が、背中を突き破り外へと飛び出していた。

「……人間の女の子?それとも天使?」

 ロボットはひとり言なのか、質問なのか、どちらとも取れる抑揚でそう言った。球体の中に座っていたのは、まだ十歳ほどの女の子に見えた。真っ白な長髪でワンピースだけを身に着け、初見ではその姿に神聖さを感じたが、すぐに病的な無機質さを覚えた。女の子は人間のようでもあり、人工物のようでもある。人の姿をした、使い捨ての道具。なぜだかロボットは、女の子にそういった印象を受けた。

 女の子は虚ろな目つきで、よろよろと球体から出てくる。ロボットはその瞬間、女の子に無我夢中で駆け寄った。女の子が座っていたときには気付かなかったが、彼女は重傷だったのだ。右脚がちぎれ、肉と骨が、むき出しに見えていた。球体は塔との衝突に耐えたが、中にいた女の子はそうはいかなかったのだ。女の子は球体から出た直後、意識を失い倒れた。ロボットは間一髪、その柔らかな体を受け止めたが、ちぎれた右脚の処置方法が分からず、無数の思考が同時に、彼の脳回路の中を駆け巡った。止血か、縫合か、なにを優先すべきなのか。

 しかしそんなパニックは杞憂に終わった。女の子の翼から、蒸気のようなものが噴出したかと思うと、細胞が爆発的な増殖を始め、彼女の右脚は、完全に再生されたのだ。指先まで傷一つなく元通りだが、女の子は意識を失ったままだった。この女の子は、一体どこから来た何者なのか。ロボットは女の子が未知の存在であると認識し、かえって普段の平静さを取り戻した。女の子がただの人間であったなら、落ち着いてはいられなかったはずだ。ロボットは女の子が無事で安堵してはいたが、その正体に疑問と不安を感じていた。


 それから数時間後、女の子はロボットが塔の中に用意したベッドで、静かな寝息を立てていた。この塔は人間が住む予定だった場所だ。生活の為の道具はいくらでも用意されている。ロボットは女の子が眠っている間に、もう一度球体を調べてみた。球体の中には、ひしめき合う機械と、ちぎれたまま残されていた女の子の足があった。ロボットはある程度、精密機器の知識を持っていたが、球体に組み込まれているそれは、彼の全く知らない技術だった。球体の外側も細かく観察してみたが、やはりほんの少しの傷跡すら見受けられない。球体の衝突によって、塔の頂上には大きなヒビが入っていた。球体はあらゆる面において、ロボットの知るテクノロジーよりも、高度な力を誇示していた。

 ロボットは女の子が目覚めるまで、彼女の正体と、目的の推測を始めた。この女の子は、かつての地球よりも、遙かに高度な技術を有する、宇宙人ではないだろうか。だとしたら目的は明確だ。高度な文明が、発展途上の文明に接触を試みるその理由は、一つだけ。支配である。その態度が暴力的なら分かりやすいが、その反対でも同じことだ。友好という言葉を隠れ蓑にした、植民地化だろう。真にその文明を保護したいのであれば、そもそも接触しないことが最善だからだ。だがこの仮説はおそらく違う。地球の環境はすでに崩壊している。そもそも、たった一人の女の子がやって来ること自体おかしな話だ。それならば事故の可能性が高い。なんらかの理由で、女の子だけがこの死の星に墜落してしまったのだろう。いやしかし別の可能性も……。ロボットはこんな調子で、自身の考察に振り回されながら、安心したり緊張したりを、延々と繰り返した。このロボットは、臆病なのだ。もっともそのおかげで、彼は今日まで生き長らえてきたのだが。

 女の子は、十分ほど前に目を覚ましていた。女の子が体を起こして最初に目にしたのは、目覚めた自分に気付かずに、首を回したり、頭を抱えるロボットの姿だった。それは滑稽な光景だったが、女の子はそんなロボットの様子が面白くて、黙ってそれを見つめていた。しかしロボットは頭を抱えたまま動かなくなり、女の子は心配して彼の顔を覗き込んだ。 

「……あ、おはよう」

 ロボットが反射的にそう言うと、女の子はにこりと笑みを浮かべて、うなづいた。ロボットはその行動の意味を少し考え、続く言葉を発した。

「Can you speak English?」

「?」

「日本語は話せる?」

「!」

 女の子は再び、こくこくとうなづいた。どういうわけか、女の子は日本語を理解している。前時代において公用語だった英語には反応を示さなかった。他にもいくつかの言語で話しかけてみたが、女の子が反応を返すのは日本語だけだった。そしてもう一つ分かったことは、女の子は、言葉を発することが出来ない。ロボットに対し、ジェスチャーで意思疎通を図ることは可能だが、言葉を使っての対話は出来ないようだ。ロボットはいくつもの質問を投げかけ、女の子は身振り手振りでそれに答え続けた。

 しばらく後、ロボットと女の子は塔の頂上で、雲の下へと隠れていく満月を見送っていた。夜から朝への谷間、山吹色の陽光が、雲に鮮やかな陰影をつける。ゆったりとした時間の中で、眼下の雲は彼方へと流れ、波間のように形を変え、美しい姿で二人を楽しませた。

「雲海って言葉があるんだ。まさにそれだね。雲に海って書くんだよ」

「?」

「考えたんだけど、文字の読み書きを、きみに教えようかなって。そうすれば、言葉でコミュニケーション出来るようになるよ」

 ロボットは様々な質問を女の子にぶつけたが、疑問は解決しなかった。ジェスチャーでは結局、女の子が伝えようとしていることがなんなのか、ほとんど分からなかった。女の子はどこから来たのか、何者なのか、なぜここに来たのか。女の子がどうにかそれらを伝えようとしていることは確かだったが、結局お互いが疲れて諦めてしまった。だが一つだけ確かな事は、互いに敵対する必要は無いということだ。ロボットは事情が分からないままでも、この女の子を守るべき対象であると感じたし、彼女もどういうわけか、最初からロボットを信用しているようだった。ロボットの臆病さと猜疑心の絡まり合った、心の糸をほどく純真さが、女の子の表情や仕草の一つ一つに表れていた。所見で感じた無機質な印象はさっぱりと消え去り、生き生きとした鼓動を、女の子は全身から溢れさせていたのだ。

「あ、そうだ。きみの名前、なんて呼ぼうかな」

 女の子はそれを聞くと、自分の翼を指差した。

「……ツバサ?それがきみの名前?」

 女の子は笑顔でうなづき、ロボットを指差した。

「僕?僕に名前はないよ。型番はTー636だけど。TっていうのはTowerの頭文字。英語で塔って意味の言葉だよ。僕は日本製なのにね、なぜか英語の型番を付けられたんだ。そのうち文字が書けるようになったら、僕のことはカタカナで、トウって表記してくれていいよ。僕はトウで、きみはツバサ」


 その後トウは、ツバサを連れて塔の内部を案内することにした。ツバサはここで生活していくことになる。居住区の理解は必須だ。トウは建設作業を休止し、ツバサの生活の世話と、日本語の読み書きを教えることにした。いつかツバサと筆記での意思疎通が出来るようになったら、彼女の正体と目的が分かるはず。それが最優先だ。

「移動はエレベーターしかなくてね。階段とか、はしごは作ってないから。このエレベーターは高性能で、磁力で動いてるんだ。動いているのが分からないくらい、静かで揺れないよ。……これは内緒の話なんだけど、エレベーターは今乗っているこれしかないんだ。毒ガスから下のフロアには、たくさんエレベーターがあるよ。でもそこから上は、どうせ僕しか使わないものだったからね。だから作るのをさぼっちゃった。でもツバサがいるなら、新しいエレベーターも、階段も改修するよ。移動用路がこれだけだと、なにかあったとき大変だからね」

 塔は幅が五十メートル、高さ二十メートルの円筒を、ひたすら積み上げたつくりになっている。植物の竹のような構造だ。もしくは「だるま落とし」と表現した方が、分かりやすいかもしれない。外側に強固な骨組みと外壁、内側を空洞にすることで、居住スペースを確保しつつ、強風や地震からの耐性を獲得している。

 トウが最初に向かったのは、食料の生産フロアだった。エレベーターの扉が開くと、真っ赤に実ったイチゴが、フロア一面に広がっていた。土壌は無く、等間隔に設置された水路での水耕栽培だ。水路を爽やかに流れる水によって、可愛らしい果実は小刻みに揺れ、まるで赤いドレスで着飾った妖精達がダンスし、ツバサを歓迎しているようだった。見ている者を自然と朗らかにさせる、このフロアの雰囲気は、ツバサの内面を体現しているかのようだ。

「天井から人口の紫外線を照射してるんだ。作物に応じた適温を維持して、一年中栽培できるようにしてる。作物は基本的に、一つのフロアに一つの品種のみ栽培しててね。これはイチゴっていうんだけど、知ってる?」

 ツバサは笑顔でうなづいた。その後いくつかジェスチャーでの問答をし、どうやらツバサは一般常識程度の知識を持っているだろうことが分かった。過去の地球環境のことを、ある程度は知っているようだ。

「食料生産フロアは、全部で二百以上あるんだ。全部ツバサのものだよ。健康上問題が発生しない程度に、好きなだけ食べてね」

 ツバサは興奮した様子で、イチゴの香りをかいだり、両手を上げて喜びを表現した。しかし一切それらを口に入れようとはしない。代わりに水路に顔を突っ込んで、ごくごくと水を飲み始めた。トウは慌ててツバサを止めた。水路を流れる水は、地下水をろ過し毒を分解したうえで、栽培用に成分を調整されている。少々飲んだところで問題はないが、多量に摂取させるのは心配だ。トウはイチゴを摘んで、ツバサに渡してみたが、彼女は首を横に振って、それを食べようとはしなかった。

「もしかして食べないわけじゃなくて、食べられないの?」

 トウがそう尋ねると、ツバサはうなづいた。トウはさらに、いくつかの質問を重ねてみる。

「生まれてから今まで、水しか飲んだことがないの?」ツバサはうなづく。

「それは、食べ物が無かったから?」ツバサは動きを止めた。少し暗い表情をしてから、首を横に振った。

「つまりツバサは、固形の物体を食べることが出来ない体ってこと?経口摂取できるのは、液体だけ?」

 ツバサは小さく何度かうなづいた。この子は見た目は人間に近いが、やはり根本が違うようだ。ツバサはその後も、無邪気にフロアを走り回り、イチゴをつついては、嬉しそうに笑顔を見せた。トウはその様子を見て、最初は微笑ましく感じていたが、やがて疑問を持った。ツバサはイチゴが食べ物であると理解している。しかしそれを食べることは出来ない。ではなぜ、こんなにも喜んでいるのか。花畑を鑑賞するのと同じように、視覚的に楽しんでいるわけではないようだ。ツバサの笑顔の中には、長年探し続けた人生の宝物を見つけ出したような、もっと深い喜びと、安堵が含まれているように感じられた。トウはツバサを呼び止めて、自分の予想を提示してみた。

「ツバサはこの塔に、食べ物を探しに来たの?」ツバサは大きくうなづいた。

「それは、誰かに食べ物を届けるために?」ツバサは何度もうなづいた。

「その誰かっていうのは、人間?どこかに生き延びている人間がいるの?」

 ツバサは両手を上げた。彼女は大きな喜びを表現する際に、この仕草を取る。ツバサの目的が分かるのは、ずっと先のことになると考えていたが、予想以上の収穫が突然もたらされた。人間は、まだこの世界に存在していたのだ。


 トウとツバサはエレベーターに戻り、別のフロアへ向かった。トウが次に向かったのは、食肉の生産フロアだ。しかしそのフロアには何も無く、だだっ広い空間が広がっているだけだった。

「ここは牛とか豚とか鶏とか、家畜を育てられるようになってるんだ。今まではそうしてなかったけどね。この狭い世界にただ生まれてきて、死んでいくだけなんて、悲しいと思ったから。……だけど人間がどこかにいるなら、ここを稼働させないといけないね」

 トウの言葉の中には、否定の本心があった。それが最善だし、そうしなければならない。だけど本当はそんなことはしたくない。トウはすぐに、その感情を出すべきでなかったと気付き、ツバサの顔を見た。ツバサは人間の為に、たった一人でここにやって来たというのに、自分はそれを嫌がる素振りを見せてしまった。ツバサの表情は、案の定暗かった。曇天の雲の下のように、今にも土砂降りになりそうな、重い顔つきだ。トウはエレベーター脇に設置してあるタブレットを手に取り、それをツバサに見せながら、家畜の生産を始めようとした。

「この端末から、いつでもフロアをフル稼働させられる。どれくらいの家畜を用意すればいいのかな?人間の生存数に応じて、適切な量を設定するよ」

 トウがそこまで言ったところで、ツバサは彼の手を取り、操作を止めさせた。ツバサは顔を伏せたまま、ゆっくりと首を横に振る。家畜の生産はしなくていいという、明確な意思表示だ。

「……ごめんね。僕が変なこと言ったから」ツバサは顔を上げ、トウの顔を見ながら、顔を横に振った。

「でも人間達には、食肉が必要でしょ?ここは稼働させないと」ツバサはしばらくトウの顔を見つめた後、うつむき顔を横に振った。

 なにか、事情がある。トウはそれを察した。ツバサは明確な目的と意思の上で、この塔に来た。食肉が必要なら、迷うことなくここを稼働させることを選ぶはずだ。ツバサも動物の命を奪うことには反対だったとしても、それを実行せざるを得ないはず。それを否定したということは、人間達は家畜の運用には成功しているのだろうか。……ツバサの目的が判明しても、その詳細な内部事情が分からない以上、彼女の意思に従うべきだとトウは判断した。

「別のフロアに行ってもいい?僕のお気に入りの場所があるんだ」ツバサはにこりと微笑むと、うなづいてそれを了承した。

 トウはエレベーターの扉が閉まる間際、一度も稼働させたことのない、空っぽのフロアを眺めた。すると今まで感じたことのなかった感想が、ふっと心に浮かんだ。薄暗く、その広さが深海のような圧迫感を生む、ただ静かな空間。まるで自分の心の状態を、つまり「空虚」を表しているようだ。そんな考えが一瞬脳裏をよぎったが、トウは無意識にそれを手放し、ツバサの手を引いて歩き出した。


 トウが向かったのは、彼が自分の趣味で作り上げた、安らぎを得る為のフロアだ。そこには「平穏」という言葉が具現化したような自然環境が構築されていた。春のような柔らかな陽射し……人口の光ではあるがーーーに包まれ、フロア全体に敷き詰められた芝生は、心地よさそうに、そよ風……これも機械からの送風だがーーーに揺られている。フロアの中心には、天井ぎりぎりまで育った、立派なコナラの木が一本だけある。豊かな枝葉を誇らしげに伸ばし、その木漏れ日はそれら全てが、ここが塔の内部であることを忘れてしまうような、幻想的な情景を形作っていた。

「つくろうと思えば、森林をつくることも出来たんだ。熱帯雨林も再現できたし。でもこれだけにしておいたんだよ。僕なりの美学でね。シンプルイズベスト。でもこれは、大多数の人から見れば単純すぎるかな。ツバサはどう思う?もっと植物を増やした方がいい?」

 ツバサは首をかしげ、コナラの木に向かって走り出した。そしてその根元に転がる、どんぐりを見つけると、満面の笑みで拾い始め、すぐに両手いっぱいになった。

「これは初めて見た?どんぐりって言うんだよ。このコナラの木の種なんだ。どんぐりって可愛いよね。帽子をかぶったどんぐりは、とっても愛くるしいと思うよ。塔の建造が始まった頃には、もうほとんど地球上の植物は枯れてしまってたんだ。だけど後世の為に残された種子は、もう保存されていたんだよ。独りぼっちになってから、お休みの日に過去の映像とか図鑑を見るようになって、コナラの木をここに再生してみたんだ。どんぐりの見た目が、一目で気に入っちゃってね」

 二人は木に背を預け、ツバサはトウの顔を見つめた。トウがなにか話し始めてくれることを待っているのだ。トウはその視線に気付いているのか、いないのか分からないが、どこかぼうっとした表情で、遠くを見つめながら、ツバサに問いかけた。

「ツバサは、人間が好き?一緒に暮らしてきた人達のこと、好きだって思う?」

 ツバサは迷うことなく、笑顔でうなづいた。

「だけど、嫌いな人もいるでしょ?」

 ツバサはしかめっ面で、首を横に振った。嫌いな人なんていないらしい。

「そっか。ツバサはそうなんだね。……ずっとツバサのことを聞いてばかりだから、僕のことも話さないとね」

 ツバサはトウが見つめている、焦点の定まらない彼方へと視線を向けてみた。トウが視ているのは、きっと遠い過去から、現在に至るまでの長い道のりなのだろう。

「……ツバサに聞きたいことと、話したいことがあるんだ。ツバサは、地球を覆っている毒が、どこから来たものなのか、知ってるの?」

 ツバサは、何の反応も返さなかった。ツバサは本当は、それを知っていたのかもしれないが、彼女はなにもしなかった。

「この毒は、人間全ての、人類という生物が生み出した、罪の結晶だよ」


「ある時、突然発生した謎のウイルスが、人類に襲い掛かった。人類史上最大の悲劇、なんて最初は言われていたらしいね。たった三週間で、世界中の人間の、およそ六割が死んでしまった。だけどそれは全て、仕組まれていたことだったんだ。そのウイルスは、人工的につくられたものだった。増え続ける人口を抑止する為に、世界を支配していた特権階級の人間達が実行した、虐殺だったんだよ。事前にワクチンを打っていた特権階級は無事に生き残って、それ以外の人間が生き残れるかは、本人の生命力次第だった。それが明るみに出た直後は、世界中で戦争が起きそうになった。支配者と、その下の人間達との間でね。でも戦争は起きなかった。そんなことが起きる前に、人類は滅亡してしまったんだから」

 塔の建築プロジェクトが発足したのは、人類が滅亡するほんの数年前だった。トウは当時見てきた惨状を思い浮かべながら、話を続けた。

「そのウイルスは、ただ人間を死に至らしめるだけのもの、のはずだった。だけどそれ以上のことが起きてしまったんだ。その発生源がどこだったのか、詳細は分かっていないけど、ウイルスが人間の死体の中で、突然変異を起こした。筋肉や骨を分解して、毒ガスを発生させるようになったんだ。死体がガスでどんどん膨らんできて、風船が割れるみたいに、破裂するんだ。毒ガスと一緒にウイルスも巻き散らかされ、風に乗って、また別の人間、あるいは他の死体へ。さらに人間以外の生物にまで、感染するように進化して。まるで死者の怨念が、復讐を始めたみたいだった。特権階級に殺された人間達が、毒ガスに姿を変えて、人間どころか生物全てを滅ぼし始めてしまった。あらゆる生物から放たれた毒ガスは地球を覆い尽くすまでになって、この地獄が出来上がったんだ。正直に言うけど、僕はそんな人間達を憎んでいるよ」

 トウはあっさりと「自分は人間を憎んでいる」と言ってのけた。トウの言葉の中には、一切の感情が無く、彼は淡々と事実だけを語った。トウの視線は過去へと向けられたものであり、現在のことは思考の外側にあったからだ。しかしここからの言葉の中には、メトロノームのように、時間の両端を揺れ続ける葛藤があった。

「僕はずっと、矛盾の中で生きてきたんだ。塔が毒ガスを超えた時、僕は言いようのない脱力感に襲われた。僕は人間達が生きていく為に、生み出された存在。だけどもう、ここに住む人間はいなかった。『空虚』なんだよ。僕や仲間達がやってきたことに、意味なんてなかったんだ。だけどその脱力感は同時に『平穏』でもあった。僕が本心では憎んできた人間は、もうこの世界にはいないから。その安心感で、体の力が全部抜けてしまったんだ。そして僕はずっと、塔を伸ばし続けた。そこに理由なんてなかったよ。ただ、そうするしかなかった。果ての無い砂漠を、彷徨い続けるように。歩みを止めてしまえば、灼熱の孤独に焼き尽くされてしまう気がしたし、実際にそうなっていたと思う。答えの無い矛盾の中で、ただ、死ぬのが怖くて、意味もなく、塔を伸ばし続けた。でも……」

 トウはツバサの顔を見た。その頭部カメラの焦点は、ツバサの顔にしっかりと合わされている。

「でも、だからこうして、ツバサに会えた」

 ツバサは人間が好きだと言った。ならば自分は、人間の為に出来る限りのことをしよう。それがツバサの為になるのだから。この瞬間に、トウの中で渦を巻いていた矛盾は消えた。迷宮さながら複雑になっていたプロセスは最適化し、沈んではまた昇る太陽と同じように、今日の始まりと同じ場所に戻って来た。

「それじゃあ、文字の読み書きの勉強を始めようか」

 ツバサは笑顔でうなづいた。


 月が塔の真上に登る頃、ツバサは眠りについていた。ツバサはカタカナの「アイウエオ・トウ・ツバサ」を覚え、書けるようになった。本人の勉強意欲は十分だったが、塔の中を歩き回り疲れたのだろう。ツバサはいつの間にか眠っており、トウはそっと彼女をベッドへと運んだ。

 トウはほんの少しだけ欠けた満月を、塔の頂上から見上げていた。たった一日で、世界の何もかもが変わった。今日あったことは詳細に思い出せるが、塔を建設し続けた過去数百年のことは、ほとんど記憶になかった。中身の無い数百年は、充実した一日に劣る。もしも毒ガスを抜けた瞬間に、塔の建設を止めていたら、それでも自分はツバサに出会えていたのだろうか。

 トウがそんなことを考えていると、月の中に、一筋の光が見えた。昨日と違い、トウは落ち着いていた。きっと今日も、なにかがここへ落ちてくる。そんな予感はしていた。落下してくる球形の物体は、真っすぐに塔の頂上へと向かってくる。昨日と違ったのは、その物体は衝突の前に減速を始め、無音でトウの目の前に着陸した。球は開花し、その中には人型のなにかがいた。武装した軍人のように、アーマージャケットを身に着け、頭にはガスマスクをかぶっている。全身が真っ黒の装備で覆われたその姿は、威圧感という言葉が具現化したようだった。トウはその姿を見て、内心怯えてはいたが、それを隠して自分から先に話しかけた。

「こんばんは。今日も誰かが来ると思っていたよ」

「……女の子が、ここへ来たはずだ」

 人型は、やはり日本語を話した。人型は球の中からゆっくり出てくると、トウの前に立った。人型の身長は約二メートル、ガスマスクごしに聞こえたその声は、ノイズのかかった重低音だった。

「あなたは人間なの?」

「あぁ」

「会話が出来る人に会えてよかった。聞きたいことがたくさんあるんだ」

「その前に、あの子に会わせろ」

 トウが「ついて来て」と言うと、人間は「あぁ」とすぐに返答した。ツバサもそうであったが、人間もどういうわけか、トウのことをすでに信用しているようだ。トウはこの時すでに、その態度の理由に核心を持っていた。トウは人間を塔の内部へと招き入れ、二人はエレベーターに乗った。人間は周囲の様子を確認することもなく、目の前にある壁を黙って見ている。あるいは何も見ていないのかもしれない。人間は自分から口を開くつもりはないらしく、トウは出来る限りほがらかな口調を意識して、人間に話しかけた。

「僕は、人間はとっくに絶滅したと思っていたよ。まさか月で生き延びているとは思わなかった」

「……我々が月から来たことを、予想していたのか?」

「それ以外に考えられないからね。ずっと僕のことを見ていたんでしょ?」

「二年ほど前のことだ。ツバサが望遠鏡で地球を見ていたときに、偶然ここと、お前を見つけた。……お前に敬意を表する。たった独り、この軸を築き上げてきたことは偉業だ」

 ……軸?とトウは疑問を持ったが、それについては特に言及せずに、別の質問を優先した。

「この『軸』があることを、月の人間達は知らなかったの?」

「何一つ知らない。我々の先祖は、多くの人間を見捨て、月へ逃げ延びた。私が知っているのは、当時地球にあったシャトルは、全て特権階級の人間が使用し、そのほとんどが発射直後に撃墜されたことだけだ。地上に残された者達は、元凶の逃亡を許さなかった。その後の地球でなにがあったのかは、一切記録がない」

 人間は自分から話すことはしないが、質問に対する受け答えはしっかりとしてくれた。しかしトウが人間に「ここではマスクを外しても大丈夫だよ」と伝えてみたときは、直立不動でそれを無視した。トウはなるべく友好的な態度を心掛けていたが、人間は無駄な身振りを一切せず、その声も機械的だ。ツバサとはなにもかもが正反対な人だな、とトウが感想を持ったところで、エレベーターが到着した。トウが人間を連れてきたのは、空っぽの家畜生産フロアだった。イチゴ畑に連れてくることも考えたが、今は余計な情報が一切ない、このフロアで段階を踏んで話をした方が、建設的だと判断したからだ。

「あの子はどこだ」

「ツバサは寝付いたばかりだよ。すぐに起こすのは可哀想だから、ここで話をしよう」

「……あの子の名を探り当てたのか」

「ジェスチャーでなんとかね。あなたとは会話が出来るから、まずは色々聞かせてほしい」

「……」

「ツバサは無事だよ。それは約束する」

「……無事なことは分かっている。ツバサは私がつくった『実験体』だからな。あの子は自身に受けた損傷を、瞬時に再生させる。無限に増殖する細胞、臓器の設計に成功した。ツバサの背から生えているあれが、その臓器だ。無限に生み出される、細胞の貯蔵庫のようなものだ」

 トウはツバサに初めて会った時に、その光景をすでに見ている。右脚が、すぐに再生したところを。球体の中に、ちぎれた足が残されていたことも。そしてトウが直感した通り、ツバサは自然発生した生物ではなく、人工的につくられたものだった。トウは特に驚きもせず、その予想が外れていればよかったのにと、ただ暗い表情を浮かべていた。人間はそんなトウの様子を凝視し、初めて自分から口を開いた。

「ずいぶんと、深刻な顔をしているな」

「……そんなことないよ」

「私がなぜ、ツバサをつくりあげたか、もう分かっているのだろう?」

 トウは寒気を感じた。足元からゆっくりと、恐怖の冷気が這い上がって感覚。実はトウはツバサの正体を、とっくに見抜いていたが、それを無意識下で否定し続けていた。『そんなこと』があってはならないと。今目の前にいるこの人間は、それを言葉にし、残酷な現実を突きつけようとしている。いいや、残酷なんて言葉では足りない。地獄ですら生温い。

「まずは暗い歴史から教えてやろう。月に逃げた先祖は、作物の種も、家畜の遺伝子も持って来ていなかったのだ。とんでもない馬鹿どもだ。過去の人間達を憎むことしか出来ない。自分の命を救うことだけ考え、その後のことはどうでもよかったのだろう。結果人間は死よりも酷な道を歩むことになった。同族を食い、生き延びてきたのだ。最初は死者の肉を分配し、やがて食べる為に産み、殺し合うようになった。狂った自給自足だ。このままでは、人類は絶滅してしまう。だから私は、実験体達をつくったのだ」

「もう、言わなくていい」

「ツバサは、あらゆる損傷を、瞬時に再生させる」

「言わなくていい」

「腕が切断されても、脚が切断されても、すぐに生えて元通りだ」

「もう言うな。やめて」

「ツバサは、我々の食料だ」


 トウの心の中で、今まで感じたことがないほどの、激怒の気泡がふつふつとこみ上げ、瞬間的に沸騰しそうになったが、彼はそんな自身の内情を客観的に観察することで、なんとか平静を装った。ここで怒りを見せたところで、なんの解決にもならないと自分に言い聞かせ、ぐっとそれを飲み込む。人間はそんなトウを置き去りにして、淡々と話を続けていった。

「しかし、人間の愚かさは苛烈を極めていた。ツバサよりも過去の実験体達は、ことごとく人間に貪り食われて死んだ。再生能力が追いつかなかったのだ。腕が生えてくるよりも、脚が生えてくるよりも早く、人間達は我先にと生きたままの肉に嚙り付いた。奴らが好き放題に実験体を食う限り、安定した食料の供給など、夢のまた夢だ。私は必死に考えた。どうにかして、実験体を食うことに、ためらいを生じさせることは出来ないだろうか。倫理の崩壊したこの人間達に、罪悪感を抱かせる方法はないだろうか、とな。さて、突然だがいくつか質問をさせてもらおうか」

「質問……?」

「お前は、ツバサのことが大切か?」

「……大切だよ」

「ツバサが好きか?」

「好きだよ」

「ツバサの為に、出来る限りのことをしてやりたいと思うか?」

「当り前だよ」

「『当たり前』か。そうだ、それがあの子の、ツバサの設計なんだ」

「……設計?」

「疑問に感じることすらなかっただろう。お前は心の底からツバサを信用し、あの子の為に出来うる限りのことをしようと決めた。無償の奉仕をな。なぜ自分がそんな思考を持つに至ったのか、それを考えもしなかっただろう。お前は心理の経過を飛び越えて、結果に辿り着いたはずだ。『出来る限りのことをしよう。それがツバサの為になるのだから』なんて着地点に、突然飛躍したのだろう。違うか?」

「……僕はただ、ツバサを大事にしたいと感じた。それだけだよ。誰かを大切にしたい思う心に、理屈なんて必要?」

「まんまとツバサの術中に、はまったようだな。いや、私の仕掛けた罠にかかったと言うべきか。ツバサは遺伝子をデザインされた生物だ。目の前にいる対象を観察し、その人物にとって、最も都合のいい表情、行動や仕草を取るように設計されている。ツバサは本能で、お前の心に入り込んだのだ。そしてお前の信用を獲得し、自分に従わせることに成功した」

 トウは無言だった。それが言葉無き反論だったのか、降伏だったのかは、本人にしか分からないことだろう。

「つまり私は実験体に『愛おしさ』を与えることにしたのだ。実験体を食料ではなく、愛するべき、守るべき存在なのだと、人間達に認識させようとした。そうすれば、飢餓に暴走した人間達を、いくらか冷静に戻せるはずだと計算した。……だがこれも、失敗だった。人間達はある時期から、ツバサを愛しすぎるようになってしまったのだ。馬鹿げた話だ。私以外の誰もが、ツバサを食べようとしなくなってしまった。最初は分配されたツバサの肉を、躊躇はしつつも食べていたというのに。奴らはツバサを食べ続けるくらいなら、そうまでして生き延びるくらいなら、餓死したほうがましだと言い始めたのだ」

「あなたと違って、他はまともな人間達でよかったよ」

「私はまともだ。私は馬鹿な先祖と、無能な弱者達とは違い、必死に考え行動を起こしてきた。安定した食料の生産方法を、模索し続けてきたのだ。必死に、必死に、必死に、ひたすら必死に!」

「一つ、聞かせてよ」

「なんだ?」

「そうまでして、生きたいの?」

 人間の言葉が途絶えた。人間は数秒間、直立したまま無言だったが、唐突に蚊の鳴くような声でこう言った。

「死が、怖かったのだ」

 その言葉を聞いたとき、トウの心の中で、憎しみの一部が憐れみへと変わった。この人は自分と同じだ。死を恐れ、ただ行動し続けてきた。自分が塔を伸ばし続けたように、この人は……。

「あなたは何歳なの?何年の時を、そうやって生きてきたの?」

「百五十年ほどだ。人間同士で食い合いをしていた時代に私は生まれ、不幸にも生き延びてしまった。……体の大半を機械化されてな」

「……まずはこれだけ言わせてもらうよ。ツバサは……」

 その瞬間だった。人間が右手をトウに向けた、その瞬間。手の平から閃光と同時に、なにかが放たれた。それが熱波のようなものだったのか、質量のある実弾だったのかは、トウには見えなかった。トウが考えるよりも早く、彼の頭部は人間が放った一撃によって、消し飛んでいたのだから。トウは後ろ向きに倒れ、がしゃんという虚しい音が、空っぽのフロア内に反響し、そして消えた。

「『ツバサは渡さない』と、言おうとしたのだろう?お前の許可など要らない。私はあの子を連れ帰る」


 人間はエレベーターに乗り、一階ずつ上のフロアの中を確認していった。どのフロアにツバサがいるのかは分からないが、全ての階を調べればいつかは見つかる。そして十階分のフロアを調べ終わった後、人間はエレベーターの電子パネルを操作しながら、こう言った。

「邪魔をするならしてみろ。スペアのボディくらいは、用意していたはずだろう?」

 問いかけへの応答はなかったが、人間は確信を持っていた。トウはまだ生きているはずだと。頭を吹き飛ばしたところで、内部のメモリーはバックアップユニットと同期されているはずだ。人間は実のところ、トウに対し一種の親近感を持っていた。たった独り、建築を続けていたその姿と、自分の姿が重なり合ったのだ。そのせいで、さっきはずいぶんと話し過ぎてしまった。……正直に告白するなら、誰かに話を聞いてもらいたかった。月にいる弱い人間達に、自分の感情を吐露することなど決して出来なかった。トウは自分と同じだ。臆病で、死ぬ勇気がなく、しかし強く、ひたすら行動し続けてきた。自分はトウと同じだ。だからこそ分かるのだ。不測の事態に備え、予備の体を用意していないわけがない。

 人間は次々とフロアを調べていく。この階にはなにも無い。次だ。この階にもなにも無い。次だ。この階にもいない。次だ。この階にも……。この階にも……。この階にも……。

「……これは、なんだ?……なにが起きている?」

 なにかがおかしい。どのフロアも、全てが空っぽだった。すでに百階以上のフロアを調べた。その全てに何も無い。

「そのエレベーター、磁力で動いてるんだよ。リニアモーターカーならぬ、リニアエレベーター。駆動音がしないし、揺れもない。つまり『本当は上下の階を往復していただけでも、あなたは一切それに気付けない』ってことだね」

 トウの声がエレベーター内に響く。スピーカーらしきものは見当たらないが、どこからか声を届けているようだ。

「エレベーター内の階層表記パネルなんて、遠隔でいくらでも細工出来るよ。あなたは百階以上のフロアを調べたつもりだったんだろうけど、実際は二つのフロアを行き来していただけ」

「足止めをしたところで、お前に私が止められるのか?」

 人間はエレベーターから降りて、フロアの中央まで歩いた。そして右手を上に向け、トウにこう言った。

「力づくでも移動は出来る。天井に穴を開ければいいだけだ。私の火力ならそれが可能なはずだ」

「天井まで二十メートルはあるよ。穴を開けたところで、どうやって上に行くつもり?」

「私は短時間であれば飛べる」

 人間はそう言うと、天井に向け閃光を放った。ほんの一瞬の間に、天井に円形の穴が開き、その断面は溶岩のように赤く溶けていた。人間は背中のブースターから、青白い炎を発しながら飛び立つと、垂直に上昇していくが、トウの言葉がそれを止めた。

「もしもその上に、大量の僕がいたら、どうするつもり?」

 人間はブースターを止め、元居た場所に着地した。天井を見つめたまま、どうするべきかと案じている。トウは人間へと追い打ちをかけた。

「僕があなたをエレベーター内に足止めしていた間、なにも用意していないわけがないよね」

「……スペアボディを、どれだけ用意していた?」

「教えるわけないよ。でも、もしも、数百体の僕が上で待ち構えているとしたら、あなた一人でどうにか出来る?」

「……嘘だな。だったら私が今開けた穴から、全員下に降りて来ればいい」

「うん、全部嘘だよ。上に大量の僕なんていない。でも時間稼ぎはこれで十分。準備は終わったからね」

 突然、強大な力が発生し、人間はエレベーターの入り口から反対方向の壁に向かって吹き飛ばされた。その力の大きさに、人間はなにが起きているのか理解出来ないまま、反射的にブースターをフル稼働させ、フロアの中央へ戻ろうと抗った。この時、人間がすぐにトウが発生させた力の正体に気付いていたなら、どれだけ抵抗したところで、もはや勝ち目がないことを悟っていたはずだ。

「これはなんだ……?暴風……?いや、重力か……!」

「だいたい正解。正確には『遠心力』だよ。ここを高速で回転させてるだけ。僕ならそれが出来る」

「たかが建設用のロボットに、そんな権限があるはずが……」

「そもそも、僕の本体はロボットじゃない」

 ブースターが切れ、人間は壁に叩きつけられた。小さくうめくような声が聞こえたが、トウは力を弱めることなく、むしろ回転を加速させていく。

「僕の型番はTー636。僕は『塔』だ。無数に建設された塔の中の、その一本。この塔そのもの。塔に搭載されたAIなんだよ。ロボットの体は、僕が遠隔で操作しているだけの、操り人形なんだ」

「もういい、やめろ!お願いだ、もうやめてくれ!これ以上続けたら……」

 もしも人間がアーマーを脱いでいたなら、トウはその青ざめた表情を見ていただろう。人間が発した「やめろ」の意味は、自分自身の身を案じたものではなかったからだ。だがその顔が見えなくても、トウにはその言葉の先が、誰に向けられているのかが分かった。

 『ツバサをそれだけ大事に想っているのに、なぜあなたはあの子を』

 トウはそう言おうとして、しかしやめた。回転はゆっくりとおさまり、人間は壁に背をつけたまま、膝から崩れ落ちた。その後すぐにエレベーターの扉が開き、中から一体のロボットが現れ、人間の前まで歩いてきた。銀色に輝く、新しいボディのトウだ。トウはあぐらをかいて座ると、落ち着いた口調で人間にこう言った。

「僕の言葉足らずが原因だけど、あなたは勘違いしているよ。回転していたのはこのフロアだけ。塔全体が回っていたわけじゃないから。この塔は、円筒を積み重ねた構造でね。それぞれを独立して動かすことが出来るんだよ。僕がツバサを傷つけると思ったの?」

「……ここは、塔、なのか?」

「別のなにかだと思ってたの?そういえば『軸』とか言ってたね。まぁ、今はそれはいいや。先に謝っておくけど、こんな形でやり返したのはよくなかったと思ってるよ。でもどうしても、あなたに痛い目を見せてやらないと、気が済まなかったものだから」

「……だろうな」

「ツバサがなんでこの塔に来たのかは、分かってるよね?なんであの子を無理矢理、連れ帰ろうと?」

「そんなこと、わざわざ聞かなくても分かるだろう。ツバサは私から逃げて、ここに来たのだ。あの子は月へ、いや、私の元へ帰るつもりなんてない。無理矢理連れ帰る以外に、方法があるか?」

「違うよ。ツバサはここに、食べ物を探しに来ただけだよ。月にいる人間達の為に。ツバサは目的を果たしたら、月に帰るつもりだったはず」

「……本人が、そう意思表示したのか……?」

 トウは大きな声を出しながら、わざとらしくため息をついた。どうやらこの人間は、最初から全てを勘違いしている。トウはツバサとの意思疎通が可能になったら、食料を持たせて彼女を月へ送り返すつもりだった。すぐにそれをしなかったのは、ツバサが月から来たという確証を得られなかったのと、彼女が乗ってきた「船」の動かし方が分からなかったからだ。もしも船が故障していて、離陸直後に毒ガスの雲の下に落ちでもしたら、ツバサは即死してしまう。時間をかけて船の技術と構造を解き明かし、必要なら修理することも、トウは計画していた。

「僕をいきなり攻撃してきたのは、僕がツバサを渡さないと考えたから、みたいだけど」

「あぁ」

「これからもツバサを食べるつもりなら、あなたの予想通り、絶対渡さない。だけど他に食料があるなら、もうそんなことする必要ないでしょ」

「……ここには食料があるのか?」

「たくさんあるよ。生産プラントだってある。……まぁ、僕のミスだね。最初にあなたを生産プラントに案内していれば、余計な喧嘩をしないですんでいたね」

「……客観的に見れば、お前の考えを決めつけて攻撃した、私の過ちの方が大きいと判断されるだろう」

「じゃあお互い水に流そう。それで、他に説明し忘れてることはもうないよね?」

「いや、まだある。私がツバサを連れ帰ろうとした理由は、他にもう一つある」

「どうぞ」

「ツバサは特殊な薬を打たないと、数日で体が崩壊してしまう」


 ツバサはあらゆる損傷を瞬時に再生する。だがそれは無限ではない。この世のあらゆるものには、原動力となるエネルギーが必要になり、ツバサの体を再生させているのは、テロメアという遺伝子だ。普通の人間の遺伝子にもテロメアは存在し、細胞分裂するごとにこれは短くなり、それが老化の原因となっている。このテロメアに異常が起きることで発症する病気が、ガンだ。ガンは細胞が無限に増殖していく病気だ。それだけを聞けば不老不死を実現する鍵にも思われるが、その実態は正常に機能している他の細胞から、強制的にエネルギーを奪い取ることで成立している、体内の強権主義政治のようなものだ。通常の人間がガンを発症すると、無限に増殖していくガン細胞によって、正常な細胞が破壊されてしまい、最終的に衰弱し死に至る。ツバサの体はこのガンの働きを利用、制御することで、健康を維持したまま、再生能力を発揮しているのだ。

 しかしその制御には、特殊な薬品が必要になる。ツバサ自身の体から精製されるその薬がないと、彼女の体は数日のうちに崩壊し、泥のように溶解して消滅してしまう。人間は眠っているツバサの腕に注射器の針を刺し、その薬品を流し込むと、ふぅと安堵の息を吐いた。

「これで大丈夫だ」

「なんだか疲れたよ。昨日と今日で、色んなことが起こり過ぎだもの」

「そんなことより、この塔の食料生産力を教えてくれ」

 人間は図々しく情報収集を始めた。トウとしては「そんなこと」の一言で自分の感情を放り出されては、たまったものではないのだが、ツバサの為ならと渋々質問の受け答えをこなした。人間は塔の生産力の大きさを知ると、トウの顔を見ながら「脱帽だ」とだけ発した。おそらく人間なりの、最大の賛辞だろう。

「月には今、どれくらいの人間がいるの?それによって食料の運用方法を考えないと」

「私だけだ」

「え?」

「正確に言うと、私以外の全生存者、約二百名が冷凍睡眠に入っている。そうしないと、全員が餓死してしまうところだった。私がそうさせたし、奴らも思考を手放してそれを受け入れた。率先して冷凍された奴もいるし、もう眠ったままにしてくれという奴もいた。なんにせよ、活動している個体は、私だけだ」

 ツバサが塔へ行くことを決意したのは、それがきっかけだった。冷凍されていく生存者達を見て、一か八か、塔へと食料を探しに行くことにしたのだ。それは本当にただの賭けだった。なぜなら月の人間達は、トウが建設しているものが生活住居だとは、一切予想していなかったからだ。

 月の人間達は塔を見て「あの筒状の物体から、大気圏外へ向けて毒ガスを逃がすつもりだ」とか「外宇宙の知的生命体へ向けて、救援メッセージを送る為の電波の送信機だ」とか、様々な予想を上げていたが、最も支持された説が「軌道エレベーターの軸」というものだった。衛星と地球とを繋ぐ、ケーブルを支える為の巨大な土台軸だと推測したのである。そしてトウは建設停止命令を出す人間がいないから、ひたすらそれを伸ばし続けているロボットなのだろうと考えられていた。月にいる人間達が、今まで塔に来ようとしなかった理由はそれである。ただのエレベーターの軸に、食料なんてあるわけがないと考え、わざわざ危険を犯して、毒ガスにまみれた地球に行こうとはしなかったのだ。だがもしかすると、ある程度の保存食や、作物の種が保管されているかもしれない。ツバサはそれを期待して、たった一人で船に乗り込んだのだった。

「疑問なのは、なんでツバサは一人でここに来たのか、なんだよね。食料を探しに来たなら、あなたと二人で来た方がよかったはずなのに」

「……私の失言が原因だろう。生存者を全て冷凍した後、つい言ってしまった」

「なんて言ったの?」

「『もう疲れた。もうなにもしたくない、なにも考えたくない。しばらく私を放っておいてくれ。本を読むでも、望遠鏡を覗くでもなんでもいい。お前がやりたいことを、好きにしていてくれ』と、そう言った」

「それでツバサが逃げたと勘違いしたのね。ツバサのやりたいことは、あなたから逃げることだと」

 人間は無言でうなづいた。その仕草がツバサと似ていて、トウは若干の不快感を覚えたが、人間が感情を発露し始めたのは、よい変化だと考え、それを受け入れることにした。この人間に必要なのは、食料ではなく、悩みや泣き言を聞いてやれる、たった一人の友人なのだろう。……自分がその友人になるべきなのか?結論は先延ばしにしておく。そんなことよりも先に、人間に言っておかないといけないことがあるからだ。トウは眠っているツバサの頭を撫でながら、彼女を起こさないように、静かな、しかし力のこもった声でこう言った。

「まずはこれだけ、言わせてもらうよ。今回はちゃんと聞いてね」

「……なんだ?」

「ツバサは、人間が好きだと言っていたよ。嫌いな人なんていないって」

「……それは、お前を喜ばせる為の嘘で……」

「僕が『人間が好きか』と尋ねた時、ツバサは笑顔でうなづいたんだ。あの時点で、僕が人間に対して抱いている感情は、なにもツバサに伝えていなかった。好きだとも、憎んでいるとも、なにも言及してない。だからツバサがどういった態度を示そうと、それは僕の為の行動じゃない。あの意思表示はデザインされた生物設計から出たものじゃなく、ツバサの本心だよ。ツバサは人間を、好きだと言ったんだ。自分を食い続けてきた人間達を」

 人間は呆然と立ち尽くしていた。やがて小さな嗚咽が聞こえてくると、トウはなにも言わずにその場を去った。今まで部外者であった自分が、月の人間達に憎しみを向けるのは、筋違いであると気付いたのだ。これは当事者にしか理解出来ない問題であり、ツバサと生存者達の間で解決するべきことだろう。もっとも、ツバサが「人間が嫌いだ」とはっきり意思表示していたのなら、そうはいかなかっただろうが、彼女が憎しみを持っていないというのに、トウがそれを人間達に向けるのはおかしな話だ。

 もしも自分がツバサの立場だったら、憎しみを持たずにいられただろうか。自分の痛みを受け入れて、他者の命を救うことを、選び続けることが出来ただろうか。逃げようとはしなかっただろうか。そして自分がもしも人間の立場だったら……。トウはその先までは、想像しようとしなかった。


 それから数時間後、食料生産フロアのイチゴ畑の中で、はしゃぐツバサとそれに寄り添う人間の姿を、トウは少し離れた位置から見守っていた。ツバサは人間の手を引き、両側から敬礼するイチゴ達の間を、元気に走り回る。人間は今もなおアーマーを脱がないままだが、もしかすると「彼女」は、月でもずっとアーマーを着たままなのかもしれない。十分にあり得る話だ。百年以上を生きた人間が、生身のまま活動することは不可能だろう。体の大半を機械化していると本人も話していたし、あのアーマーは脱がないのではなく、脱げないものなのだろう。

「お母さん、かぁ」

 トウはいまだに信じられない様子で、月からやってきた二人を見ていた。ツバサが目覚める少し前のこと、彼は人間にふと質問をしてみたのだ。

「ツバサって、人間の遺伝子を改造して作られたんだよね?元になった人間って……」

「元は私のクローンだ。私の遺伝子を使った、私ではない生物がツバサだ。……私の娘、と言っていいだろうな」

 もしも月面基地で生き延びた人間が、彼女一人だけだったなら、それでも彼女は実験体をつくり、それを食べるなんて罪を犯していたのだろうか。彼女にそれをさせたのは、自分が死ぬのが怖かったのもあるだろうが、それよりも人類を生かすという重荷を、一人で背負い込んでしまったから、なのかもしれない。ツバサはそれを感じ取って、自分がその半分を引き受けることにしたのか……。

 トウは心の中にフィルターをかけて、アーマーを脱いだ若かりし頃の人間の姿を想像し、その隣にツバサを並べてみた。母と娘。まだ罪の重さも、これから背負う重責も知らない、平凡な親と、子の姿。この塔はそんな人間達の為に、トウとその仲間のロボット達が築き上げたもの。塔から身を投げて死んでいった仲間達も、これで報われるだろう。トウはそんな美しい幻像に、ほんのひと時の間だけ旅をしてみたが、すぐに思考を現実へと引き戻した。そこにいるのは、重荷の果てにアーマーを着込んだ、罪人が一人。そしてこれからは、それを背負う必要のない、無垢な子が一人、いるだけだ。

「そろそろいい時間だよ。月へ帰る準備をしよう」

 トウがそう声をかけると、ツバサは名残惜しそうな顔をした。ツバサの薬は月の設備でしか精製出来ない為、ずっとこの塔にいるわけにはいかないのだ。これから何度もツバサは塔と月とを行き来することになるが、その度にそんな顔をされてはたまらないな、とトウは思った。もっとも、なんてことない顔でいられると、それはそれで寂しくなってしまうが、そんなわがままを考えられるようになったことが、彼には嬉しかった。

 ツバサが眠っている間に、トウと人間はこの先の計画を話し合い、それぞれの目標を定めていた。トウが出した第一案「月の人間全員を、この塔に連れてきて定住させる」はすぐに却下された。地球の重力は強すぎて、ずっと月で暮らしてきた人間達には耐えられないというのだ。アーマーを着込んだ彼女は活動出来ているが、生存者達を連れてきても歩くことすら出来ないだろうということだった。ツバサは”生まれつき豊かな筋肉を持っていた”から、塔の中で走り回ることが出来ていただけだという。

「しかし、私は出来ることならこの塔で暮らしたいと考えている。月面基地は、忌むべき歴史の墓所にしたい。ここを新たな人類の家にしたいのだ」

「でも地球の重力下では、月の人間達は動けないんでしょ?」

「いや、方法はある。この塔をさらに、伸ばし続ければいい。地球と月の中間点、地球の重力が及ばない地点で暮らすのだ」


 ツバサ達が乗ってきた船は、往復の度に数週間のメンテナンスが必要になるらしい。一度の往復で運べる食料は、せいぜい一人の一か月分。全生存者分はとてもまかなえないが、作物の種を月で育てていけば、いずれ算段がつけられそうだ。とはいえ問題は山積みだし、進行形で増えていくだろうが、それは時間をかけて少しずつ解決していくしかない。

「月の技術で、塔の建設速度を早められないか計算しておく。目下、私に出来るのはそれくらいか」

「僕はスペアボディを大量につくって、人海戦術でスピードを上げていく。ツバサにはこれを渡しておくね」

 ツバサは元気よく手を上げてから、袋に入った作物の種を受け取った。月でそれを育てるのが、ツバサの仕事になりそうだ。

「食料の積み込みはよしだね。大豆とかホウレンソウとか、たんぱく質が豊富な野菜を多めにしておいたからね」

「……感謝する」

「それと、大事な仕事を忘れないようにしてよ」

「……なんのことだ?」

「僕の代わりに、ツバサに文字の読み書きを教えること」

 人間はツバサの顔を見た。ツバサは得意げにノートを拾ってきて開き、そこに書かれたカタカナを人間に見せた。人間は視線をトウに移してから、しっかりとうなづいた。人間達は、ツバサの心を知ることが怖くて、今まで彼女に文字を教えていなかった。もしもそこに「苦しい、痛い、やめて」なんて書かれてしまった時は、なにもかもに耐えられなくなってしまう。だがこれからは、ツバサに対する今までの罪滅ぼしの為にも、それから目を背けることは許されない。

「過去の人類と同じ過ちは起こさないよ。優位に立つ者とか優秀な者が、一方的に最善策を決定し実行に移すなんて、するべきじゃない」

「……生存者達に意見を求めたところで、どうせ私達の独裁に従うだけだろうがな。お前は奴等の、心身の脆弱さを知らない」

「だとしてもだよ。そうだとしても、対話するべきだったんだ。僕と、ツバサと、あなたと、そのうち生存者達とも、みんなで言葉を交わそう。それが全てだよ。今ここにいる三人だけで、これからの全てを決めちゃだめだ。生きているみんなで、自分達の未来を話し合っていかないといけない。お互いの考えていることを、ちゃんと伝え合っていこう。……もうあなた一人で、背負い込まなくいいよ」

「……あぁ」

「あとツバサ、ちょっと内緒の話」

 トウはツバサを連れて、人間から離れた場所で、小さな声で彼女にこう伝えた。

「僕からのお願いなんだけど、人のことなんて、もう気にしなくていいよ。人の感情とか、こうしたら喜ぶだろうなとか、そういうことはしなくていいからね。ツバサの思うように、自由にしてもらいたいんだ。それが僕にとっても、ツバサのお母さんにとっても、他のみんなにとっても、一番嬉しいことだからね。それじゃあ、また来月会おうね」

 ツバサはきょとんとした顔で、うなづいた。ツバサが言葉を発せたなら、彼女はこう言っていたはずだ。

「最初からずっと、そうしていたよ」


 数週間後、月面基地で計算作業をしている人間の元に、ツバサがノートを持って駆け寄って来た。ほとんどのページに、ひらがな・カタカナ・漢字が羅列されており、ツバサの勉強の成果がうかがえる。ツバサが得意げな顔で、一番後ろのページを開くと、そこにはこう書かれていた。

『コナラの塔!』

「……なんだそれは?」

 ツバサはノートにさらさらと字を書き、手早く筆談を進めていく。

『あの塔の名前!かんがえたの!こんどトウに教えてあげるの!』

「コナラ、というのはなんだ?」

 ツバサはポケットから、どんぐりを一つ取り出すと、人間に渡した。ツバサは、これが育つと立派なコナラの木になるのだ、と人間に教え、彼女は「ほう」と興味深く発した。月には図鑑があり、いくらかの植物の知識を彼女達は持っていたが、どんぐりはそこには記されていなかった。

「……可愛らしい種だな。特にこの、帽子のようなものが愛くるしさを引き立てている」

 トウは作物の種の中に、どんぐりを混ぜていた。もちろんそれを育ててくれという意味ではなく、お守りのようなものだ。ツバサは笑顔でうなづくと、ノートを持って別の部屋へと走って行った。

 そこは、冷凍睡眠室。生存者達が、今はそこで眠りについている。ツバサはそこで、どんぐりをじっと見つめながら、幸せな未来を想い描いていた。

 地球にたった一つだけ残された種。その種が芽吹き、どんどん大きくなり、やがて立派な大樹になる。その大樹の名前は、コナラの塔。大きく育ったその塔からは、たくさんの新しい種が生まれ、さらに世界が広がっていくのだ。いつか皆が目覚めたら、次世代の赤ん坊が生まれてきたら、トウのことを教えてあげよう。あの塔のことを、それをたった一人で育ててきたロボットのことを。ツバサはその為に今まであったこと、これから起こることを全て、記録しておこうと決めていたのだ。

 ツバサはそんな幸福への設計図を組み立てながら、ノートにペンを走らせていく。

 

 このせかいには、それはそれは高い、塔があります。雲をつきぬけ、月までとどくような、とても高い塔です。

 その塔には優しいロボットがいて、きょうも塔を、高く伸ばし続けているのです。


おわり

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