早弁を完遂せよ。
真っ先に目に飛び込んできたのは黒板だった。それから教壇に立つ白髪の男性の後ろ姿と、たくさんの後頭部。
男性はチョークを打ち付けるように「ヤドカリの生活史」と板書する。シンとした空間にカッカッと力強い音が響き渡る。
「ねぇ、──」
ヤドカリだって、と続けようとした私を、肩に乗ったヤドカリが遮った。
──シーッ、静かに! 今は講義中ですから! この世界線のあなたは社会人を経験した後、思い直して大学に入学したんです。
へぇ、この世界線の私はなかなか勉強熱心みたい。
──ここでは筆談をお願いします。あの先生は海洋生物生態学の教授なんですが、彼の講義では死語厳禁、内職厳禁、飲食厳禁。もしバレたら……
ヤドカリがそう言いかけた時、ヒュオッ! と風を切る音がして「グエォ」という悲鳴が上がる。
「講義中にトマトジュースを飲むなーーッ!!」
倒れ伏した青年の額からは煙が立ち上っている。床には血さながらに広がるトマトジュース、息を飲む学生達……。
──このように、容赦なくチョークの弾丸が飛んできますので、ご注意を。
なんて殺傷能力……アレ食らったら、下手したら死ぬんじゃ?!
……まぁ、座っているだけだなら楽勝だわ。
しかし。力を抜いた瞬間、猛烈な空腹感が私を襲ったのだ。それも倒れるレベルの!
──ここでのあなたは隙間時間にバイトを詰め込みすぎて、ご飯を食べる時間がないようですね。
私は『無理! 抜け出す!』と手元のルーズリーフに書き込みヤドカリに示した。
──うーん、それはやめた方がいいですね。この講義はこの世界線のあなたにとって必修科目。単位が取れないと留年の可能性もあるんですよ。
あぁ、それは気の毒だ。でもこのままだと倒れてしまう。
──講義中に何か食べるしかないですね。早弁ってやつです。ほら、早弁してる人が他にもいますよ。前から三列目右寄りのポニーテールの女性を見てください。
見ると彼女は教授の目を盗みつつ、リュックから焼きそばパンとシュークリームを取り出している。
──彼女は早弁の常習犯、『早弁四天王』の一人なんです!
なんなのよ、その恥ずかしい四天王は!
──彼女の持ち味はその速さにあります。カロリー高めの物を瞬時にたいらげることから、『吸引力斉藤』の二つ名が付きました。
吸引力斉藤は教授が背中を見せた隙に、焼きそばパンとシュークリームを瞬く間に吸い込んだ。
なるほど、炭水化物の権化のような食べ物のチョイスといい、その吸引力といい、教壇から見えにくいとは決して言えない席で果敢にも早弁に挑む姿勢といい、四天王の名は伊達じゃない!
──それから窓際に座るチェック柄シャツの男性。彼は翻るカーテンを利用し、死角を作ることで効率よく早弁を進めています。二つ名を『霧隠れ小泉』!
忍者かよ。
その時、風が吹き込み、膨らむカーテンが霧隠れ小泉の姿を教授の目から隠した。彼はカーテンの陰で颯爽とぬれ煎餅をかじっている。その口元に、笑みすら浮かべて!
風向、風速、カーテンを膨らます持続時間など風を読む能力に加え、とっさの判断力があって始めてなしえる技! まさに四天王の一角を担う男!
──それに最前列中央の長髪の男性。最前列にもかかわらず、気配を消すことでむしろ堂々と食べ進めていますよ。二つ名は『隠密大原』!
隠密大原は、大量の練乳をかけながらイチゴを黙々と口に運んでいる。教授がこちらを向いていようとお構いなしだ。
確かに一番前の席は死角ではあるが、教授との距離は最短! 音が聞こえる可能性、匂いでバレる可能性共に大きいにもかかわらず、この威風堂々とした立ち振る舞い! これこそ四天王を名乗るにふさわしい貫禄!
三人の食事風景を見た私のお腹は限界を迎えた。私に残された道はただ一つ、年甲斐もなく鬼教授の隙を見て早弁を成功させる以外にない!
何か……何かないか……私は足元のバッグをまさぐった。
あった! ……が、私の手がつかんだのはカップうどんのカレー味! と、水筒!
──そうです! あなたこそ『早弁四天王』の中でも最強と名高い『カレーうどん三島』!!
なんで私だけ何のひねりもない名前なのよ!
それにしてもカレーうどんとは! お湯が必要な上、教官の目と同時に汁はねも避けねばならない! 下手すれば麺をすする音も出るし、匂いも強烈……! 高等技術が必要とされる……!
何故この世界線の私はカレーうどんを選んだのだろうか。
私はテキストを立ててカップを隠し、おもむろに蓋を開け、水筒の湯をそろそろと注いだ。よし、第一関門突破!
ちなみに私が座るのは通路側の端、前から二列目の席。教授は右の手で板書しているから、無意識に反時計回りに振り向きがちなのを考えると、最も目立ちにくい席の一つと言えるだろう。さすが最強四天王!
三分が経過した。割り箸を慎重に割る。音を立てないように、そっと、そっと……やった! 第二関門突破!
急がず慌てずスープをかき混ぜる。カレーの匂いが鼻に心地よい。
箸に数本の麺を絡めた、その時だ。
「ぬおぅッ!」という声に振り向くと、霧隠れ小泉が椅子から崩れ落ちるところだった。食べかけのぬれ煎餅を、敗者の烙印を押されたかのごとく、ピタリと額に貼り付けて──
「講義中にぬれ煎餅を食べるなーーッ!!」
ざわ……ざわ……。
四天王の一角が……落ちた……!
ついに彼はチョークの凶弾に倒れたのである。無言のざわめきが講義室に満ちる。割り箸を持つ手が震えた。
──ふふっ……安心してください。彼は四天王の中でも最弱……。自分のペースを崩さず、早弁を完遂してください!
と、ヤドカリの声。あなた結構楽しんでない?
しかし。その後の講義室の有り様は、阿鼻叫喚の地獄絵図のようだった。
四天王の一人の陥落により、動揺の走った他の四天王は、普段の動きができなくなったと見える。
「講義中にオムライスを食べるなーーッ!!」
霧隠れ小泉に続いて吸引力斉藤までもが、新たにオムライスの吸引を始めたばかりのところを、カーブを描いて飛んできたチョーク弾の犠牲となってしまう。頬に、血飛沫のようなケチャップを付着させて……。
「講義中に練乳イチゴを食べるなーーッ!!」
間をおかず、隠密大原が至近距離より叩きつけられたチョークに屈した。教壇前にぶちまけられたイチゴと練乳が、まるで彼の墓前に手向けられた紅白の花のよう。
ウソ……この短時間で、四天王のうちの三人までもが陥落するなんて……!
鬼教授の勢いは止まらない。
「講義中に小説投稿サイトを閲覧するなーーッ!!」
「講義中にろくろを回すなーーッ!!」
「講義中にデイトレードするなーーッ!!」
「講義中に悟りを開くなーーッ!!」
ありとあらゆる内職を行っていた学生達は、次々と地に伏してゆく。この大学と学生達の将来が心底心配だ。
ついに私の周りの学生は全滅した。私が食らったらビンゴが三列成立する!
彼らの死を無駄にはしない……。折り重なる学生達の躯の陰で、私はカレーうどんの麺を丁寧に丁寧に喉に流し込んだ。
そして……
キーンコーンカーンコーン……
やり切った! あふれた涙で塩気の増したスープの、最後の一滴までもを飲み干した瞬間、ファンファーレのごとく鳴り響くチャイム!
背もたれにグッタリと体を預ける。でも教授はこう言ったのだ。
「環境学部の三島アキ君はここに残るように!」
え……もしかして私だけ最大級のお説教がくるとか?!
地に倒れ伏した学生達はゾンビのごとく立ち上がり講義室を後にした。彼らを見送った後、鬼教授と私は向かい合う。
「あの……なんでしょうか……?」
「君ねぇ、早弁するならせめて無臭のものにしなさいよ」
呆れたように彼は言う。え、バレてたの?!
「じゃあどうして……」
「行く先々で君の必死に働く姿を見るからな。私も昔苦学生だったことを思い出して、つい大目に見てしまったんだ。次は無いからな! それに……」
そう言って教授は私の肩のあたりをじっと見つめた。
「そのヤドカリにチョークが当たったら大変だ。……ところで、やけに大人しいヤドカリだが……詳しく見せてくれないか」
──ギャッ! 早く次の世界線へ急ぎましょう!
ヤドカリも慌てている。
「バイトがありますので失礼します!」
私は講義室から逃げ出し、叫んだ。
「チェンジーーーッ!!」
早弁は休み時間にやりましょう。