パラレルワールド?!
水平線近くをタンカーがゆっくりと横切るのが見える。ニャァニャァと、のどかさの象徴みたいにウミネコの声が降ってくる。
永遠に続く波音に包まれ、岩場に座る私は「うーん」と伸びをした。
一人きりの時間を持つなんて、ミクが生まれて以来初めてのことだ。常に何かに追われていたせいか、いざ自由な時間ができても何をしていいのかわからない。
今朝も起きると、カズヒコはもう台所で朝食を作っていた。焼き鮭、ワカメと豆腐の味噌汁、ヒジキの煮物、卵焼きに、大根おろしまでついた理想の朝食。しかも美味しかった。
それをミクは残さず食べ、癇癪を起こすことなく着替え、余裕を持って家を出た。
姑は嫌な顔一つせずミクを預かってくれた。
今日、私はたまりにたまった有給の消化で仕事がない。ミクは当然家でみようと思っていたら、夫も姑も「たまにはリフレッシュしてきたら?」と、丸一日のフリータイムをくれたのだ。
とりあえず職場近くの海に来てみたものの、こうやって座って考え事をする他にやることがない。
夫も娘も姑も、一瞬にして人が変わったようになってしまった。理由を考えてみたけれど、五日経った今も全くわからない。
例の水たまりに鍵があるのかと、雨上がりに再び突っ込んでみたりもしたけれど、何も起こらず。もうお手上げ!
ただ言えるのは、どうしてか元の夫や娘が、ちょっと恋しいということだけ。
天気はいいし海風も心地いいし、なんだか眠たくなってきた。
「……田所さん、田所アキさん」
瞼が閉じかけた時、声が聞こえた。
「誰?」
見回しても誰もいない。気のせいだろうか? ところが声は続ける。
「ここです! あなたの目の前の潮溜りにいます!」
「え、潮溜り?」
「はい、ヤドカリが一匹見えるでしょう?」
「はぁ……」
確かに潮溜りの端にヤドカリがいる。黒い巻貝からハサミを出して振っている。私は立ち上がった。
「しかるべき病院を受診しよう……!!」
「待ってください! あなたは決しておかしくなったわけではないんです!」
「幻覚幻聴に言われても説得力がないセリフNo. 1ね!」
「私はこの世界の管理者の一人です! 信じてください! 驚かせないようにヤドカリの体を借りてるんです! 頭の中に直接話しかける方法もあったんですが、それだとびっくりしちゃうでしょう?」
幻覚幻聴は追い打ちをかけるように叫んだ。ヤドカリが急に人語で話しかけてくるのと、頭の中に直接声がするのとでは、大差ないと思うんだけど。
「強めの薬を処方してもらわなきゃ」
そうだ、私はストレスのあまり、おかしくなってしまったんだ。だとすれば夫達の不自然さだって全て説明がつく。
「ここから一番近い病院はどこだっけ……?」
スマホを取り出そうとした私に、ヤドカリは続ける。
「あなた、旦那さんや娘さんが激変して戸惑ってるんでしょう? あなたは別の世界線に来てしまったんです!」
両方のハサミを必死にフリフリしている。世界の管理者とか言ってるけど、ちょっと可愛らしい感じ。
「別の世界線……? それってつまり、パラレルワールドとか言うやつ?」
ラノベなんかで流行っているとカズヒコが言ってたっけ……。ちょっと興味が湧いてきたし、少しだけ幻覚幻聴(仮)の話を聞いてみようか。私は再び腰を下ろした。
「まぁそんな感じですね。いいですか? この世界は各個人のその時々の選択によって、いくつもの世界に分岐してるんです」
「どういうこと?」
「例えばですね……娘さんが生まれてすぐの頃、旦那さんがカレーを作ってくれたことがあったでしょう?」
「確かにそんなこともあったような……」
一度きりの夫手作りのカレー、結構美味しかった。やっぱり人の作った料理というものは無条件に美味しく感じるものだ。
「その時、『豚と牛と鷄のどれがいい?』と聞かれたでしょう?」
「そうそう! で、ビーフカレーがいいって答えたのよね!」
「はい。その三つの選択肢によって、そこから世界は三つに分岐したんです。こっちの世界のあなたはチキンカレーを選択しました。鶏肉に火が通っておらず、あなただけが食中毒で死にかけたんです。旦那さんは反省して、それ以来家事育児を率先してこなすようになったんですよ」
「ホントに?!」
確かに夫は鉄の胃袋を持つ。
「ちなみにポークカレーを選んだ世界線では、その直後に宝くじが高額当選しました。夫婦でセミリタイア生活を満喫してますよ」
「えぇ〜〜……」
豚、選んどきゃ良かった……。
「そういえば夫だけじゃなくて、娘と姑も激変してたわよ」
「あれは本気出した旦那さんの教育の賜物ですよ」
「教育……」
すごいなカズヒコ! じゃあ、元の世界の彼も、凄まじいポテンシャルを秘めていることになる。
「それにしても信じられないわ……宇宙には私が三人存在するってことよね」
「違います。あなたはこれまでの人生で、無数とも言える選択をしてきたでしょ? その度に世界は枝分かれしました。その数だけあなたも存在するんです。例えば『結婚せずバリキャリとして生きるあなた』『他の男と結婚してDINKsとして生きるあなた』『場末のスナックで名物ママやってるあなた』『モンゴルの大草原で馬頭琴を弾き語ってるあなた』『出家して衆生に教えを説くあなた』などなど」
「へぇ……いろんな人生があるのね」
最後の方の私には一体何が起こったんだ。
でもヤドカリの言うことがホントなら、すごい数のパラレルワールドが存在することになる。私の存在は無限大……
「でも、なんで私はこっちの世界に来ちゃったの?」
「あなたが元いた世界線とここは隣接してるんですが、何かのバグによって転移ゲートが開いたことで、いくつかの世界線のあなたがシャッフルされたのだと思われます」
「じゃあ、元の世界にはまた別の世界線の私が割り振られたってこと?」
「そういうことになりますね。ちょっと見てみます?」
ヤドカリがそう言うと、潮溜りの水面に映像が映し出された。
「これ何?」
「あなたがいた世界線の昨晩の様子です」
「うちの近所みたいね」
暗い中、近所の歩道をよろよろと歩く人物が見える。ボサボサの髪にヨレヨレの服、左右で別の靴下を履き、虚ろな目の……
「これ、私じゃない!!」
パァーッとクラクションが鳴った。赤信号に気付かず、あちらの世界の私が交差点を渡ろうとしたらしい。
そこで映像が途切れた。
「家事育児と仕事でキャパオーバーになって、ストレスのあまり深夜に徘徊してるようですね。その交差点、髪振り乱した生活感あふれる主婦の霊が出るって噂でもちきりですよ。何を聞いても『ひとりの時間が……ほしいんだな……』しか言わないんです」
「メチャクチャじゃない! どうしたら元に戻れるのよ?!」
「わかりません……今、仲間の管理者たちが必死に原因を究明中ですが、時間がかかるかもしれませんね。何しろあなたを見つけ出すのすら五日もかかっちゃったんですから」
「早くしないとミクにまで悪い影響が出ちゃう!」
「判明しているのは、転移ゲートが開くきっかけがあなただったってことだけです。あなたが元の世界にたどり着いた瞬間、全ての世界は秩序を取り戻すはずです!」
「帰りたい……元の世界に帰りたい……」
私は泣きそうになって頭を抱えた。どんなにわがままでもいい、三年間ずっと一緒だったミクに会いたい!
「こちらとしても早く帰してあげたいんですが、原因が判明しないことには……。でもただ一つだけ、別世界線へ行く方法がないこともないんです」
「え……?」
「この方法では転移先を指定できないので、無数にあるパラレルワールドをしらみつぶしに何度も何度も転移し続ける必要がありますが、それでもいいですか? ……長く厳しい旅になるかもしれませんよ?」
「当たり前じゃない! 元のミクに会うためならどんなことだってするわ!」
「言いましたね……? まず両腕を高く上げます」
「こう?」
私は両腕を高く上げた。
「そして両手の指でハートマークを作ります」
私は両手の指でハートマークを作った。
「それを八の字に振ってください」
私はハートマークを八の字に振った。
「寄り目した状態で『チェンジーーーッ!』と絶叫します」
ダサッ! と思ったが、背は腹に変えられない! 私は目に力を込めた。
「チェン……!」
「待ってください! ナビゲーター役としてついていきますから、ボクを肩に乗せてください! 可愛らしいマスコットキャラのように!」
いろいろと言いたいことはあるけど、とにかく急がなきゃ!
ヤドカリを肩に乗せ、なりふり構わず私は叫んだ。
「チェンジーーーッ!!!」