水たまりの向こうは
「どういうこと……?」
気付けば私は水たまりのそばに立っていた。体は濡れていないし、しかも自転車が見当たらない。
意味がわからない。さっき確かに水たまりに沈んだはず……! が、のんびり考えている暇はなかった。
「ミクを早く迎えに行かなきゃ!」
私は全速力で保育園へと向かった。
「ハァハァ、遅くなってすみません……!」
息を切らしながら駆け込んだ私を、ちょうどドアのそばにいたミクの担任の先生は、なぜか怪訝そうな目で見ている。
「あの……どちら様でしょうか?」
「え……」
絶句。今の私、毎日会っている先生にすら気づかれないくらいの汚れっぷりなの?!
「田所ミクの母です、ミクを迎えに来ました!」
「田所ミクちゃん、ですか……? えーと、何組でしょう?」
「すみれ組ですが……」
「あの、すみれ組の担任は私なんですが、ミクちゃんという名前のお子さんはお預かりしてないんですけど……」
「え、そんなはずは……」
担任の先生は、短期間で園全体の保護者の名前と顔を覚えてしまうほどの大ベテラン。自分のクラスの園児を忘れるわけがない。
「別の園と間違われたんじゃないですか?」
完全に不審者を見る目。
何かがおかしい。私はいったん外へ出て、気持ちを落ち着けることにした。
そこで初めて気づく。来ている服が違う。妊娠前に着ていた、ロング丈のスカートに綺麗めのブラウス。部屋着のようなヨレヨレのTシャツに綿パンはどこいった?!
混乱した頭のまま、とりあえず家へ帰ることにした。
「あら、アキさん! 早かったわね!」
自宅近くの角を曲がったところで姑と出くわした。その手には、ミクの小さな手がしっかりと繋がれている。
「ミク! 会いたかった!」
「おかーしゃん!」
私は娘を抱きしめた。
「保育園はどうしたんですか?!」
「なに言ってるのよアキさん。保育園は送り迎えが大変だから、当分うちで預かることにしたんじゃないの」
そうだっけ?!
とりあえず私は「ありがとうございます」と頭を下げた。
「ミク、良い子にしてた?」
「おかしゃん! ミク、おやしゃい(お野菜)もぜんぶたべたよ! ね、おばーちゃん!」
「そうよねミクちゃん、今日もお利口さんだったわよね。小松菜もチンゲンサイもピーマンも春菊もカイワレ大根もエンダイブもオカヒジキもぜーんぶ食べたんだから!」
「そ、そんなに?!」
一体なんの料理だったんだろうか。
「おかしゃん、これあげる!」
ミクがポケットから取り出したのは折りたたまれた一枚の紙。広げると、ミミズののたくったような文字で「おかあちんだいすき」と書いてある。思わずジーンとなった。
「トゥウィンコウ・トゥウィンコウ・リィトゥルスタァーー♪」
ミクは英語の歌を歌い出した。
「今日はひらがなと英語のお勉強をしたの」
さらりと言ってのける姑。
預かってくれる上に早期教育まで?!
姑は腕に下げたビニールをこちらに差し出した。
「アキさん、これ。タッパーごとあげるわ。干し芋、好きだったでしょ?」
「え、いいんですか?!」
干し芋、私の大好物!
「良かったらミクちゃん、夕食もうちで食べてっていいのよ。もちろんあなたも」
「あ、いえ、そんな、迷惑でしょうし……」
「そうよね。あんまり私がしゃしゃり出てもアレだし。じゃあカズヒコによろしくね」
「ありがとうございます……」
このお方は姑の鑑なのか?!
私は姑と別れ、ミクの手を引き帰宅した。
ドアを開けた途端、鼻をくすぐるのは芳しい香りだった。台所に立っているのは、なんとエプロン姿のカズヒコ!
何だコレ……私は頬をつねった。痛い。
夢じゃない……。
鳩尾に強めのパンチを入れてみた。超痛い。
やっぱり夢じゃない……。
でもどうせ具の少ないチャーハンかなんかでしょ?
「おかえり。今夜はチキンのパエリアと牡蠣と海老のブイヤベース風煮込みと柔らか梅じそポークソテーを作ってみたよ」
なに本格クッキングに挑戦してんの?!
「ど、どうしたの? なんか後ろめたいことでもあるの?!」
「何言ってんだよ。家事も育児も協力してやっていこうって約束したじゃないか」
ムッとして言いながらも、本場のコックさんみたいにフライパンを片手でジャッジャッ! と揺する夫。
この手慣れた感じ……一日二日では身につくわけない。
「風呂沸いてるから入ってきていいぞ。ミクは俺が入れるから一人でゆっくり浸かってこいよ」
このお方は夫の鑑なのか?!
「ありがとう……。じゃ、先に入ってくるね」
何年ぶりかで私は一人のお風呂を楽しんだ。
その後も夫は家事育児において、八面六臂の大活躍をみせた。
ミクと一緒に入った風呂上がりに浴室の掃除(排水口含む)をし、洗濯機を回し、ミクに絵本を読んでやり、歯を磨かせ、軽くトイレ掃除まで!
あんなに夢中だったネットゲームは一秒だってやらなかった。
前はゴミ出し(ゴミ捨て場にゴミ袋をただ平行移動するだけ)くらいしかしてくれなかったのに! まるで別人二十八号!!
娘も素直に言うことを聞いて、夕食を残さずに食べ、絵本の後に一人で二百ピースの知育パズルを黙々とやって、時間通りにベッドに入った。
私がしたことと言えば、食器洗いと洗濯物干しと寝かしつけくらい。
おかげで疲れはだいぶ癒えた。が、もちろん強烈な違和感は拭えるわけがなかった。