バタバタの毎日
我が家の朝は、騒がしい。
「ポッピーちゃんのがいい! ポッピーちゃん! ポッピーちゃん!!」
3歳になったばかりの娘、ミクが床に寝転がり叫んでいる。やっとのことで朝食を食べさせ、早く靴下をはくよう言った途端、これ。
渡した靴下を「ちがう!」と投げ捨て、ポッピーちゃんのプリントされた靴下でないと嫌だと暴れているのだ。
ちなみにポッピーちゃんとは、アニメに出てくるピンク色のペンギンである。
「ポッピーちゃんのはまだ乾いてないの!」
「ポッピーちゃん! ポッピーちゃんがいいのッ!」
「たからポッピーは乾いてないんだって! ほら、こっちの黄土色の水牛さんのもかわいいよ!」
「ポッピーちゃんじゃなきゃ、ほいくえんイヤッ!」
「わかった! わかったから!!」
根負けした私は部屋干ししてある靴下をもぎ取り、ドライヤーの風量を全開にして乾かした。
「ほら! ポッピーいっちょあがりだ〜〜い!! これで満足ですかぁ?!」
ヤケになって叫びながらポッピー靴下を放る。
「ヤッタ! ポッピーちゃん!!」
娘はケロリと泣き止んだ。
「うるさいな……隣から苦情くるぞ」
背後から、優雅に朝食を食べていたらしい夫、カズヒコの声。あ、いたんだ、カズヒコ……。
「じゃあ行ってくる」
「ちょっと! 食器下げてよ!」
カズヒコの背中に声をかけるが、彼は無視して食器をテーブルに置いたまま出勤してしまった。
せめて流しに運んで欲しいのだけれど、何度言ってもやってくれない。もう諦めたはずなのに、猛然と腹が立ってくる。
そもそもさっきの娘のかんしゃくは、夫に原因があるのだ。
ポッピーちゃんの靴下は彼が先日仕事帰りに『一足だけ』買って来た。毎日そればかりを履きたがるから、かえって迷惑なのがどうしてわからないんだろうか?
さらに言わせていただきますと、店に寄る暇があるのなら早く帰宅して、家事の間ミクをみていてほしいのに。
全く良いとこ取りしやがって!
バタバタと身支度をすませていると時間ギリギリになってしまった。私は食器を洗う間もなく娘の手を引き家を出た。
✳︎
夕方。
職場を出た私は台風の目……じゃなかった、ミクを保育園に迎えに行き、ヘトヘトで帰宅。
真っ先に私の目に飛び込んで来たのは、無造作に流しに置かれた大量の食器……。これを片付けないことには夕食の準備ができない。深いため息がでる。
「おかーしゃん、ためいきつくと、ちあわせが、にげるんだって!」
滑舌はまだまだだが、娘はこのところ生意気な口を聞くようになった。
「ねぇねぇ、おかーしゃん。きょうねぇ、ハーちゃんがねぇ、うんたらかんたら」
洗い物の最中も娘はしきりに話しかけてくる。正直面倒だ。でもこの時期のコミュニケーションは大事だと聞く。私は手を動かしながらも耳を傾けた。
「うんうん、うんうん、アーちゃんとやらがどうしたって?」
「おかしゃん、きーてない!!」
娘はキレた。
「ごめんごめん、おともだちと何したの?」
「あのね、ハーちゃんがね、おえかきしてたらね、ヤッくんがね、こう、ガッてしてね、そしたらハーちゃんがね、こうね、アーってなったから、ヤッくん、しぇんしぇーと、プルプルプルプルって!」
「うんうん、うんうん、それは災難でしたねぇ〜!」
さっぱりわからないまま相槌をうっていると、
『ピンポーン』
チャイムが鳴った。嫌な予感が……インターホンのモニターを見た瞬間、全身に鳥肌が立つ。
出た!!
姑の必殺!
突! 撃! 訪! 問!
……見なかったことにしよう。
「おかしゃん、だれかきた!」
「いいのいいの、幻聴よ、全ては夢まぼろしなの。白昼夢なの。全部、忘れなさいね」
しかし、これしきで諦める姑ではなかった。
『ピンポンピンポンピンポンピンポン!』
恐ろしいまでのチャイム連打……。
『ピンポンピンポンピンポンピンポンピポピポピポピポピポピンポワァァ〜〜〜〜ン!』
「あああ頭がおかしくなりそう……!」
負けましたよ負けました! 私の完敗です! ハイハイすぐにお開けしますよ……。
覚悟を決め、大きく息を吐きつつドアを開けると、満面の笑みの姑が立っていた。
「お義母さんすみません、ちょっと取り込んでて……」
「いいのいいの、忙しいんでしょ! ほら、これ」
姑は私の手に白い塊の入ったビニール袋を押し付けた。
「これトンカツ。あとは揚げるだけだから、ぜひ使って!」
「あ、ありがとうございます……」
気持ちはありがたいけど……何故完成形を持ってこない!? しかも揚げ物!? もうレシピは決まってて、幼児が足元をチョロチョロしている中で揚げ物をやれと?!
困惑している私を尻目に、彼女はさっさと家に上がり込んだ。
「ミクちゅわぁ〜ん! バァバだよぉ〜〜」
「おばーちゃん!」
「ミクちゃんにはこれをあげようねぇ」
「わあい!!」
姑はミクに餌付け……もといお菓子を渡した。蒟蒻ゼリーとドーナツだった。
え、夕食前に?! しかも蒟蒻ゼリーとか……喉につまったらどうすんの?!
しかしこの状況でそれらを取り上げたら娘は大号泣必至。さらなる地獄を見ることとなるだろう。
「ほらミク、おばあちゃんにありがとうは?」
顔をひきつらせ、蒟蒻ゼリーを少しずつ無事食べ終えるのを見守る。
「ちょっとアキさん、部屋がグチャグチャじゃない!」
姑は居間の真ん中で叫んだ。
「ハイ〜、あとから片付けます……」
本当は「そうですねそうですね、あなたの御愚息がありとあらゆる分野において甲斐性がないのが全ての原因ですネ!」と喉まで出かかったけれど、なんとか飲み込んだ。
姑は嵐のように去って行った。
未完成トンカツ入りビニールを手にため息をついていると、入れ違いに夫が帰ってくる。
「ただいま。何突っ立ってんの? そこでお袋に会ったけど何かあった?」
「ねぇ、お義母さんにいきなり来ないように言ってよ!」
「でも短時間なんだろ? それくらい我慢しろよ」
「急に『トンカツ揚げろ』とか言われてもさぁ、無理なのよ!」
「お! 今日はトンカツかぁ! 腹減った、飯まだ?」
今のは失言だった。トンカツは早めに冷凍庫に隠蔽しておくべきだった。
「わかったわかった、急いで揚げるからミクみててよ!」
「俺忙しいんだって。ゲームの第三弾が今日出てさぁ」
夫は寝転がり、パソコンを立ち上げている。『ウシ娘』とかいう、牛の体と少女の顔面を持つ生物を育成する珍妙なネットゲームに夢中なのだ。
第三弾が何かは知らないけど、お前は今着実に離婚への階段を登りつつあるのだぞ、という言葉をなんとか飲み込む。
言い争いしている時間も惜しい。私は意地になり、西日がモロに当たって蒸し暑い台所で、のべつまくなしにくっちゃべるミクの相手をしながら、トンカツというトンカツを揚げて揚げて揚げまくった。
*
「急げ急げーー!」
仕事帰り。今日も今日とて保育園までチャリンコでひた走る!
「ハァハァ……なんとか間に合いそう……」
信号待ちでとまった時、そばのスーパーの窓に映る自分を見て、私は泣きたくなった。
スーパーサ◯ヤ人みたいに逆立った髪、どうせ制服に着替えるからと部屋着みたいなヨレヨレの服、今朝もバタバタしたせいで左右別のを履いてしまった靴下……
出産前に描いていた理想とは程遠い姿。
どうしてこうなった。昔の夫は優しかった。夫婦で協力して家事と育児をやっていこうねと話していたのに。
それが今では部屋にこもってゲームばかりやるようになってしまった。
気付けば信号が青になっている。急いで渡りきったところに、昼間降った雨の名残の大きな水たまりが!
「キャアッ!」
避けきれず、水たまりに突っ込む。飛沫がはね、部屋着に毛の生えたような服装がさらにみすぼらしく……と、その時!
「ギャアアア!! 沈む! 沈む!」
なぜか自転車の前輪は浅いはずの水たまりに深くめり込み、そのまま私は水中に没した。