第八回
翌日、七郎は馴染みの茶屋を訪れた。
江戸城にほど近い茶屋へ以前は頻繁に通っていた。だが武家屋敷の見廻りの任に就いた今の七郎には遠い。
「あら、いらっしゃい」
茶屋の看板娘おりんは仏頂面で七郎を出迎えた。普段は愛想よく可愛らしい娘が、七郎の前でだけは一人の女でいられるらしい。
「いつもの」
七郎は床几に腰かけた。
「はいはい」
おりんは面倒だと言わんばかりに店の奥へ引っこんだ。今は茶屋に他の客はいなかった。
「あらあらお久しぶりねえ」
茶屋の主人のおまつも姿を見せた。
「婆さん、元気だったかね」
「まあね。あんたは生きていたんだねえ」
「ああ、まだ生きている」
七郎は青空を見上げた。おまつは七郎の正体を知らぬはずだが、なんとなく察しているのではないか。女は男の知らぬ神通力を持っている。
(俺はどうすればいいのか)
七郎は青空を見上げ、更にその先を見つめんと左の隻眼を凝らした。
果たして七郎の立ち位置は正しいのか。
将軍家剣術指南役の嫡男。
三代将軍の御書院番。
江戸城御庭番衆。
果たして何処が七郎の立ち位置なのか。今ここに来て七郎は迷う。いや、迷っているのではなく怯んでいるのかもしれない。
(勝てるのか奴らに)
七郎の脳裏に浮かぶ奇怪なる者。目も鼻も口もない肉面の者、夜空に浮かぶ巨大な蜘蛛の巣の表面に蠢く蜘蛛女。
彼らは果たして現実だったろうか。七郎の頭は幻だったのかと疑うが、彼の肉体と魂は恐怖を覚えている。
それゆえに七郎は恐れ迷うのだ。はっきりとしないモヤモヤした感覚が七郎を苛立たせる。妖怪変化とは人の心に混乱を引き起こすものかもしれない。
「もうちょっと待ってなさい」
おまつの声に七郎は我に返る。おりんは店の奥で団子を焼いていた。焼き立て、出来立ての団子を七郎に食べさせようとする女心の現れだ。
「人間はね、できる事しかできないの」
おまつの言葉がまるで天の声であるかのように、七郎の魂に染みこんだ。
「そりゃそうだ」
七郎は苦笑した。当たり前の事を彼は見落としていた。男には子どもが産めぬ。産めるのは女である。当たり前だが、当たり前を見失っていたところに七郎の迷いがあったのだ。
(俺は俺だ)
七郎はただの七郎でありたいと常々思っていた。剣術指南役の嫡男でなければ御書院番でもない。ましてや江戸城御庭番衆の忍びでもない。七郎は七郎であり、彼にできる事あるならばそれは、
(江戸の未来の捨て石となろう)
七郎は死ぬ覚悟であった。江戸の未来を守る、そのために死ぬのが七郎の仕事であった。誰に強制されるのでもない、何かに無理強いされるのでもない。
七郎の魂が望むのは、江戸の未来を守る事――
いや、更に掘り進めるならば小さな子どもの未来を守るためであろうか。そのために死ぬのは七郎には恐くないのだ。
「おまちどうさま!」
おりんが盆に団子を並べた皿と湯飲み茶碗を乗せて運んできた。額に汗が光っている。
「ごめんね、遅くなっちゃって」
「いや何、かまわんさ」
「そりゃそうさ、おりんの団子ならねえ」
おまつは楽しげに笑った。七郎は畏まって団子を頬張り、おりんは傍らでその様子を見つめている。
「うむ、美味い! 江戸一番だ!」
「な、何言ってるのバカ」
「ふふふ、今日もお江戸は日本晴れだね」
おまつは微笑して江戸の空を見上げた。どこまでも青い空に白い雲がたなびいている。