明日へ向かって走れ
やがて、しばしの時が流れた。
蘭丸は褥から出ると身支度を整えた。
「憎たらしい男…… もう行ってしまうの?」
褥に全裸で横たわった館の女主人は、恨めしそうに言った。
「俺はもう行く。行かねばならん」
蘭丸は着流しの帯に三池典太を鞘ごと差しこんだ。彼の顔には女と肌を合わせた感慨らしきものが、何も浮かんでいない。その様子に女主人は苛立ったようだが、すぐに苦笑した。
「まあよい……」
女主人は自身の下腹部を愛しげに撫でた。満足げでもある。人喰らう者であるが、紅潮した顔は美しい。女は男と交わった後が最も美しいかもしれない。
「ええい、どこだ、蘭丸!」
その時、廊下から騒々しい声が響いてきた。ドスドスと足音荒く、廊下を渡ってきたのは、般若面を外した七郎であった。
隻眼の無頼漢といった風貌に、館の誰もが怯んでいた。ましてや館の守衛とでもいうべき七尺の大男は、七郎の無刀取りに制されて、気絶しているのだ。
「蘭丸、ここかあ!」
七郎は思い切りよく襖を開いた。そこは女主人の部屋であり、室内には目を丸くした蘭丸がいた。
「誰じゃ」
女主人も薄衣一枚羽織った姿で七郎に憎悪混じった視線を向けた。帰るといった蘭丸への苛立ちを、七郎へ八つ当たりという形で向けているように思われる。
「あ、こ、これは失礼!」
七郎、女主人の艶姿に赤面して背を向けた。すでに他界した春日局が見ていれば、ため息をついただろう。七郎はいくつになっても女に弱い。ましてや情事の邪魔をしたとあらば申し訳なさに切腹しかねない。
「七郎殿……」
「蘭丸、無事か? 帰るぞ」
「待ちや、誰じゃお主」
「お、御館様あ……」
七郎の背後には弱々しげな黒夜叉が控えていた。
「衆道の念者が、そちらの色男を取り戻しに来たんでやすう……」
「なんと」
女主人、黒夜叉の発言に驚いて蘭丸に振り返った。
「どういう事じゃ?」
女主人は蘭丸がまさか衆道だとは思わなかった。
「……どういう事です?」
蘭丸は七郎が衆道とは知らなかった。
「ど、どういう事だ!」
七郎は黒夜叉に向かって叫んだ。衆道に間違われるなど存外である。
「違うんでやすか?」
「違う、俺は念者ではない!」
「七郎殿、その娘は?」
「はわあ、やっぱり色男でやすー!」
「ええと、こやつは黒夜叉といったな?」
「待てえい、貴様ー!」
廊下には七郎に制された大男までもが現れた。
「まさか、あれで決着がついたなどと思っていないだろうな!」
大男は手に鉈を握ったままであった。
「まさかな……」
七郎の顔から感情も理性も消えていく。
江戸に出没する無数の凶賊を相手するうちに、七郎は人間をやめてしまったのだ。
鬼と会っては鬼となる――
それもまた七郎の到達した境地の一つである。
「……お主ら全員出ていけー!」
女主人の金切り声に、七郎も蘭丸も震え上がって硬直した。
夕闇の下を七郎と蘭丸は小走りに駆けた。
江戸に似た街並みも、これで見納めかもしれぬ。
七郎は自身がやってきた小道を、蘭丸と共に駆けていた。
「なるほど、奴らは人喰らう者だが、魔性とは違うのだな」
「そうです」
蘭丸は自身が知った事を、駆けながら七郎に話した。
あの女主人は人喰らう者だが、人の内に潜む化物ではなく、むしろ敵対しているという。
この異世界にも、あの化物が現れ始めたというのだ。人の内に巣食う化物は、外見では判断できぬ。
化物どもは知らず知らずの内に数を増やしているという。一体どこからやってきたかもわからぬ、得体の知れぬ化物であった。
(あるいは、奴らの仲間か?)
七郎は記憶の中の月光蝶を思い出す。背に蝶のような羽根を生やし、頭部に触覚を蠢かす美しい魔性。
あの月光蝶の目的は江戸に災禍を広げる事であった。月光蝶に関わる者全てが狂い、人間をやめて凶行に走った。
しかし、人の内に潜む化物の目的は何か。奴らは人間を食糧にしている異次元の生物であった。
そして、あの女主人は子を産むのが運命だった。この世界では一部の女だけが子を産む事ができるという。
ましてや、この世界では子が産まれなくなってきているらしい。江戸でそのような話は聞いた事がないが、あの化物が関係しているのではないか。
何にせよ、女主人は新たな血を求めて、蘭丸と交わった。やがて時が来れば一度に四、五人の子を出産するという。
それは蘭丸の子であるはずだが、当の蘭丸は不動の姿勢を崩さない。
「……お前、ねねにバレたら殺されるかもしれんぞ」
「は?」
「言うなよ、この世界で何があったか、ねねには言わん方がいいぞ」
七郎はねねを思い出して背筋が震えた。同時に女主人の金切り声をも思い出した。修羅場をくぐり抜けた七郎ですらが、震えを感じる迫力があった。
そして今は女主人の「出ていけ」という言葉を曲解、便乗し、七郎と蘭丸はどさくさに紛れて館を飛び出してきた。
「ここだ!」
七郎は小路を見つけて叫び、飛びこんだ。蘭丸も後に続く。尚も小走りに駆け抜けた二人は、やがて小路から出た。
そこは江戸の街であった。夕闇の中にカラスが飛んでいる。振り返れば、小路の先は行き止まりであった。七郎と蘭丸が訪れたあの異世界は幻だったのだろうか。
「不思議なものだ……」
七郎は全身に汗をかいていた。あの世界は何だったのか。仏法に言う六道のいずれかか、それとも悪鬼の住まう世界であったのか。
女主人を始めとした彼らに人を喰うなと諭しても、決して止める事はあるまい。人間が魚や鳥などの生き物を喰らう事をやめぬように。
「うわあ、ここは一体どこでやすか?」
明るい女の声に、七郎と蘭丸は振り返った。そこには黒夜叉の無邪気な顔があった。
褐色の肌に白い髪、はだけた着物から漂う退廃の雰囲気。
しかし、今の彼女は妙に明るかった。あの世界で過ごしていた辛苦に満ちた日常から脱出したからか?
「お、お前は、いつの間に?」
「こっそり後をついてきたでやす! これも惚れた女の一念でやす!」
黒夜叉は七郎に向かってにっこり微笑んだ。そして蘭丸へ笑顔を向ける。
蘭丸は少々驚いたといった様子である。が、黒夜叉の女心には気づかない。
また蘭丸が三池典太を抜く事がなかったのは幸いか。あの女主人は人喰らう存在だが、邪悪ではなかった。自身の宿命に従い、多くの子を産もうとする慈母であった。