白紙の境地
「お前は知っているか」
蘭丸は座したまま女主人の艶めかしい肢体を見上げた。
「人の内に潜む化物を」
蘭丸の目には強い輝きがあった。女主人の裸体にも動じぬ強い意志、それは自身の使命を全うせんとする決意だ。
「奴らを知っておるのか?」
女主人は眉をしかめた。蘭丸は人の内から現れた化物(それは七郎も目撃している)を追って、この世界に来た。
女主人は化物の仲間かと思ったが、どうやら違うようだ。女主人の感情の中に、蘭丸は真実を感じ取った。
「敵の敵は味方……」
蘭丸はつぶやいた。美女のような顔立ちをした蘭丸を見つめて、女主人は熱い吐息を漏らした。
館の門前には殺気が満ちていた。
館の門番である大男と、この世界に紛れこんだ七郎が対峙しているのだ。
傍から二人を眺めている黒夜叉は蒼白になっている。
江戸と異なる世界の空に、鈍い陽光が輝いていた。
「煮込んで食ってやろう」
大男は鉈を手にして七郎に斬りつけた。七郎は刃を避けて素早く距離を取った。
そして背を見せ、振り返った時、七郎の顔には黒塗りの般若面があった。
「ひい」
黒夜叉は悲鳴を上げそうになった。七郎が化物に変身したと思ったのだ。
それは大男も同じであった。この世界には般若の面はない。異なる文化を持つ者にしてみれば、般若とは悪鬼の顔に見えるだろう。
対する七郎は――
般若面の奥で、七郎の顔は無表情であった。
彼は兵法の鬼となったのだ。
感情も理性もない白紙の境地に七郎は到っていた。
七郎の脳裏には数々の死闘が思い返される。
家光の辻斬りを止め、忠長の狂気を制し、丸橋忠弥の槍を防ぎ、由比正雪へ無手で挑む。
命のやり取りを経て到達した七郎の白紙の境地は、常人には理解しがたいものであろう。
あるいは七郎が到達したのは、仏法の者が目指す菩提の境地かもしれない。
「……隙だらけだな」
般若面の七郎は、ゆっくりと大男の前に踏みこんだ。虚を衝かれた大男が、慌てたように鉈を振り上げ、打ちこんできた。
「ふっ」
七郎は後退しながら大男の鉈を避けた。大男が二度、三度と鉈を振り回すのも避けた。
そして七郎は疾風のように大男に組みついた。同時に左足が後方へ孤を描く。
次の瞬間、七郎は大男を後方へ投げ飛ばしていた。
宙を舞った大男は背中から大地に落ち、一声うめいて気絶した。傍から見ていた黒夜叉には、七郎が手だけで大男を投げ飛ばしたように見えた。
これは浮落だった。後世の柔道の技で、二十一世紀においては遣い手のいない幻の秘技とされている。
(正雪……)
浮落を放った七郎は、しばし呆然とした。
白紙の境地から無心に放った浮落は、かつて七郎が由比正雪との対決の際に、咄嗟に繰り出した技でもあった。
七郎の学んだ無刀取りの中にはない。ゆえに技名もない。七郎すら忘れていた無心の一手が、今この対決の際に繰り出されるとは。
(学ぶべき事を多く残しているのは、我が身であった)
七郎は鈍い輝きを放つ異世界の空を見上げた。
父の又右衛門宗矩、師事した小野次郎右衛門忠明、三代将軍家光、大納言忠長、槍の遣い手の丸橋忠弥、由比張孔堂正雪……
幾多の戦いの中から、七郎は何かを見出そうとしていた。
それは武の深奥か、それとも心の旅の終着点か。
「もういっぽん!」
般若面の七郎は大男に向かって再度対決を求めたが、対手は地に倒れて気絶していた。
「す、凄いでやす!」
黒夜叉は浮落の妙技に拍手していたが、真剣な七郎を置き去りにした、どこか間の抜けた展開であった。




