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兵法とは平和の法なり  作者: MIROKU
慶安編 魔天にかかる罠
37/40

魔天の娘

(ここに蘭丸が……)

 七郎は門前から館を眺めた。なぜここに蘭丸がいるとわかるのか、七郎はそれを疑問にも思わない。

 あるいは七郎は、ねねによって遠隔操作されているのかもしれない。謎の女ねねの事だ、人間を操り人形にする妖術を心得ていてもおかしくない。

 しかし七郎の魔を降伏しようとする意志、そして柔よく剛を制す無刀取りの技だけは真実だ。

 七郎はその心と技だけを以て、幾多の死線を辛くも乗り越えてきた。

「何してるでやす?」

「ん?」

 呼ばれて七郎がふりかえれば、そこには一人の女がいた。

「御館様の男…… じゃないなあ」

 女はジロジロと七郎を見つめた。褐色の肌に白い髪を持つ、退廃的な雰囲気をまとわりつかせた女である。

 年の頃は十七、八か。江戸では嫁に行って子を産んでいてもおかしくない年頃だ。

 肌に刻まれた奇妙な紋様が七郎の目を引いた。

「なんだ、お前は?」

「うーん、あちきの好みじゃないなあ」

「おい」

「でも御館様の事だから、たまには年食った男も」

「おいってば」

「さっきの色男は良かったなあー」

「いい加減にせんか! お前は誰だ!」

「え、あちきは黒夜叉ってんですが」

「うむう……」

 七郎は黒夜叉と名乗った女を観察した。観の目だ。心の目で相手を観察するのだ。

「お前さんは館の使用人か」

「まあ、そうでやすねえ」

 言って黒夜叉は眉をしかめた。彼女は御館様に、あまりいい感情は抱いていないようだ。

「色男というのは、こう、長い髪を後ろで縛った、女みたいな奴ではないか」

「あ、そうそう! その色男でやす!」

「俺はその色男を助けに来たのだ」

 七郎は左の隻眼を細めた。彼の必殺の気迫がにじみ出す。七郎の目的は蘭丸を救出する事だ。それは果たして彼の意志かはわかりかねる、ねねに操られているかもしれない。

 それでも七郎は女の願いを聞き、応えてきた。春日局、忠長の愛妾にして真田幸村の娘、そして天草四郎と恋仲であったウルスラ……

 だからこそ七郎は常勝無敗の道を辿れたのか。己のためでなく、腕自慢技自慢でもなく、ただ女の命懸けの思いに応える――

 そんな七郎には、勝利の女神がいつだって微笑んでくれたのだ。

「えー、おじさんひょっとして衆道の念者でやすか?」

「違うわ!」

 七郎の殺気も霧散する黒夜叉の言であった。衆道とは男色の事であり、念者とは恋人の事である。

 なるほど、女の黒夜叉から見れば、色男の蘭丸と七郎は、衆道の仲に思われても仕方ない。

「し、衆道ってお尻の穴を……」

「おいおい……」

 七郎は苦笑した。決死の気迫も完全に霧散した。どうやら黒夜叉は不思議な力があるようだ。

「でも御館様に食べられちまうでやす、それが悔しいでやす」

「何、食うだと?」

「そうでやすよ」

 黒夜叉は残念そうな顔をした。まだ話した事もない黒夜叉にここまで慕われるとは。七郎の胸には、蘭丸への嫉妬の炎がメラメラ燃え上がった。

「おい、そこで何をしている?」

 野太い声に七郎と黒夜叉は振り返った。見れば館の使用人だろうか、見上げるような大男が立っていた。

「ほお…………」

 七郎、大男を見据えた。七郎は五尺七寸前後だが、大男は七尺あまりの背丈を持つ。

 体つきも筋骨隆々としていて、思わず息を呑む威圧感に満ちていた。

「黒夜叉、お前はまた遊んでいやがるのか」

「す、すいませんでやす……」

「全く使えんなあ、これだからお前の一族は」

 大男の言葉に黒夜叉は蒼白になってうつむいた。事情を知らぬ七郎だが、大男からは嫌な気配しか感じない。

(何処へ行ってもこんなものか)

 江戸とは別の世界へ来ても、やはりそこには同じものがあるのだと七郎は気づいた。彼らの一族も幕閣では白眼視されていた。

 戦国の世に、柳生の庄でひっそりと生きてきた臆病者。

 それが如何なる理由か、御神君家康公に寵愛され、将軍家剣術指南役に就くとは。

 ましてや全国の大名を観察する大目付の役職を任されるとは。

 父祖の代から戦場を駆け、命懸けの槍働きで旗本の禄高を授かってきた者としては、七郎ら柳生の者は妬みややっかみの対象であった。

 七郎の父などは城中で斬りつけられた事もある。その時は幼い七郎も宗矩の側にいた。

 あまり覚えてはいない。ただ城の廊下で宗矩は幕閣の者に呼び止められ、一方的に侮蔑された。

 それに対し、宗矩は静かに言葉を返すのみであった。畏まって聞いていたが、その態度が幕閣の者の怒りに油を注いだらしかった。

 ――死ね、柳生の魔剣!

 抜刀して斬りかかった幕閣の者へ、宗矩は素早く組みつき、横へ放り投げたように見えた。

 これは宗矩が左手一本でしかけた体落であった。

 後世の柔道の技、それを宗矩は刹那の間に、刃を避けつつ左手一本でしかけたのだ。

 後で知ったが、この時の宗矩は息子を守るために、頭が真っ白になっていたという。白紙の境地、いわゆる無の境地に到っていたのだろう。

「人間か、年食ってるが煮たら美味いかな」

「年など食っておらんわ!」

 七郎、思わず叫んでしまった。一体、彼らと自分と何が違うのか。大男は七郎を品定めするかのように、ジロジロと眺めていた。

「元気がいいな、今夜の飯にちょうどいい」

 大男は一歩、前に出た。七郎をニヤニヤ見つめている。どうやら七郎は獲物と認識されたようだ。黒夜叉はまだうつむいている。江戸とは違う異世界に来たが、どうやら此処は人食らう人の住まう世界だったようだ。

「悪いが、色男を連れて帰らねばならんのだ」

 七郎の目つきは変わった。雰囲気も違う。黒夜叉と楽しげに会話していた時とは、まるで別人だ。

「ほう、こりゃ煮込み甲斐がありそうだ」

 大男は腰に差していた鉈のような大包丁を抜いた。






 館の中では蘭丸が女主人から歓待されていた。

 が、蘭丸は座したまま用意された料理には一切手を出さなかった。

 渇きに耐えられなかったか、甘い匂いを発する茶だけは一口、口にした。

「これ」

 上座の女主人が手を叩けば、給仕を務めていた下女達が膳を手にして部屋を出ていく。残されたのは蘭丸と女主人だけであった。

「惜しいのう」

 女主人は扇で口元を隠しながら、やや横目になって蘭丸を見つめた。魅惑の流し目だが、蘭丸に動じた様子はない。

「気に入らぬのが気に入った」

 女主人はつぶやいた。今、蘭丸の前に出した料理には人肉料理も混じっていた。だが蘭丸は察知したのかしないのか、全く手を出さなかった。

 女主人の妖艶な色香にも、側に控えた下女らにも視線を送らなかった。女主人の知る限り、このような男は初めてであった。蘭丸は女の色気にも、自身の色欲にも動じぬ鋼の精神を有しているのだ。

 これが七郎ならば、腹が減れば料理を食らい、女主人の誘惑に負けていただろう。もっとも、女主人ら異世界の住人が人間を食らう事には嫌悪している。

 蘭丸は女主人らが人間を食らう事を否定も肯定もしていない。だが決して相容れる事はない。

 七郎と蘭丸、二人は水と油のように性質が違うが、だからこそ強い縁を持っているのかもしれない。

「わらわはな……」

 女主人は上座から立ち上がり、蘭丸の方へと歩み寄った。

 この間、蘭丸は微動だにしない。右脇に三池典太を鞘ごと置いて、正座したままである。

「お主の子が欲しいぞ……」

 言って女主人は服を脱ぎ始めた。衣擦れの音が部屋に響く。女主人は自身の言葉に恥じらっているのか、僅かに頬を朱に染めていた。妖艶な女主人の意外な仕草であった。

 蘭丸は何を考えているのか、尚も座したままだ。

 だが蘭丸の目は、獲物を狙う鷹の目だ。必殺の機を狙っているのだ。

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