魔天の娘
(ここに蘭丸が……)
七郎は門前から館を眺めた。なぜここに蘭丸がいるとわかるのか、七郎はそれを疑問にも思わない。
あるいは七郎は、ねねによって遠隔操作されているのかもしれない。謎の女ねねの事だ、人間を操り人形にする妖術を心得ていてもおかしくない。
しかし七郎の魔を降伏しようとする意志、そして柔よく剛を制す無刀取りの技だけは真実だ。
七郎はその心と技だけを以て、幾多の死線を辛くも乗り越えてきた。
「何してるでやす?」
「ん?」
呼ばれて七郎がふりかえれば、そこには一人の女がいた。
「御館様の男…… じゃないなあ」
女はジロジロと七郎を見つめた。褐色の肌に白い髪を持つ、退廃的な雰囲気をまとわりつかせた女である。
年の頃は十七、八か。江戸では嫁に行って子を産んでいてもおかしくない年頃だ。
肌に刻まれた奇妙な紋様が七郎の目を引いた。
「なんだ、お前は?」
「うーん、あちきの好みじゃないなあ」
「おい」
「でも御館様の事だから、たまには年食った男も」
「おいってば」
「さっきの色男は良かったなあー」
「いい加減にせんか! お前は誰だ!」
「え、あちきは黒夜叉ってんですが」
「うむう……」
七郎は黒夜叉と名乗った女を観察した。観の目だ。心の目で相手を観察するのだ。
「お前さんは館の使用人か」
「まあ、そうでやすねえ」
言って黒夜叉は眉をしかめた。彼女は御館様に、あまりいい感情は抱いていないようだ。
「色男というのは、こう、長い髪を後ろで縛った、女みたいな奴ではないか」
「あ、そうそう! その色男でやす!」
「俺はその色男を助けに来たのだ」
七郎は左の隻眼を細めた。彼の必殺の気迫がにじみ出す。七郎の目的は蘭丸を救出する事だ。それは果たして彼の意志かはわかりかねる、ねねに操られているかもしれない。
それでも七郎は女の願いを聞き、応えてきた。春日局、忠長の愛妾にして真田幸村の娘、そして天草四郎と恋仲であったウルスラ……
だからこそ七郎は常勝無敗の道を辿れたのか。己のためでなく、腕自慢技自慢でもなく、ただ女の命懸けの思いに応える――
そんな七郎には、勝利の女神がいつだって微笑んでくれたのだ。
「えー、おじさんひょっとして衆道の念者でやすか?」
「違うわ!」
七郎の殺気も霧散する黒夜叉の言であった。衆道とは男色の事であり、念者とは恋人の事である。
なるほど、女の黒夜叉から見れば、色男の蘭丸と七郎は、衆道の仲に思われても仕方ない。
「し、衆道ってお尻の穴を……」
「おいおい……」
七郎は苦笑した。決死の気迫も完全に霧散した。どうやら黒夜叉は不思議な力があるようだ。
「でも御館様に食べられちまうでやす、それが悔しいでやす」
「何、食うだと?」
「そうでやすよ」
黒夜叉は残念そうな顔をした。まだ話した事もない黒夜叉にここまで慕われるとは。七郎の胸には、蘭丸への嫉妬の炎がメラメラ燃え上がった。
「おい、そこで何をしている?」
野太い声に七郎と黒夜叉は振り返った。見れば館の使用人だろうか、見上げるような大男が立っていた。
「ほお…………」
七郎、大男を見据えた。七郎は五尺七寸前後だが、大男は七尺あまりの背丈を持つ。
体つきも筋骨隆々としていて、思わず息を呑む威圧感に満ちていた。
「黒夜叉、お前はまた遊んでいやがるのか」
「す、すいませんでやす……」
「全く使えんなあ、これだからお前の一族は」
大男の言葉に黒夜叉は蒼白になってうつむいた。事情を知らぬ七郎だが、大男からは嫌な気配しか感じない。
(何処へ行ってもこんなものか)
江戸とは別の世界へ来ても、やはりそこには同じものがあるのだと七郎は気づいた。彼らの一族も幕閣では白眼視されていた。
戦国の世に、柳生の庄でひっそりと生きてきた臆病者。
それが如何なる理由か、御神君家康公に寵愛され、将軍家剣術指南役に就くとは。
ましてや全国の大名を観察する大目付の役職を任されるとは。
父祖の代から戦場を駆け、命懸けの槍働きで旗本の禄高を授かってきた者としては、七郎ら柳生の者は妬みややっかみの対象であった。
七郎の父などは城中で斬りつけられた事もある。その時は幼い七郎も宗矩の側にいた。
あまり覚えてはいない。ただ城の廊下で宗矩は幕閣の者に呼び止められ、一方的に侮蔑された。
それに対し、宗矩は静かに言葉を返すのみであった。畏まって聞いていたが、その態度が幕閣の者の怒りに油を注いだらしかった。
――死ね、柳生の魔剣!
抜刀して斬りかかった幕閣の者へ、宗矩は素早く組みつき、横へ放り投げたように見えた。
これは宗矩が左手一本でしかけた体落であった。
後世の柔道の技、それを宗矩は刹那の間に、刃を避けつつ左手一本でしかけたのだ。
後で知ったが、この時の宗矩は息子を守るために、頭が真っ白になっていたという。白紙の境地、いわゆる無の境地に到っていたのだろう。
「人間か、年食ってるが煮たら美味いかな」
「年など食っておらんわ!」
七郎、思わず叫んでしまった。一体、彼らと自分と何が違うのか。大男は七郎を品定めするかのように、ジロジロと眺めていた。
「元気がいいな、今夜の飯にちょうどいい」
大男は一歩、前に出た。七郎をニヤニヤ見つめている。どうやら七郎は獲物と認識されたようだ。黒夜叉はまだうつむいている。江戸とは違う異世界に来たが、どうやら此処は人食らう人の住まう世界だったようだ。
「悪いが、色男を連れて帰らねばならんのだ」
七郎の目つきは変わった。雰囲気も違う。黒夜叉と楽しげに会話していた時とは、まるで別人だ。
「ほう、こりゃ煮込み甲斐がありそうだ」
大男は腰に差していた鉈のような大包丁を抜いた。
館の中では蘭丸が女主人から歓待されていた。
が、蘭丸は座したまま用意された料理には一切手を出さなかった。
渇きに耐えられなかったか、甘い匂いを発する茶だけは一口、口にした。
「これ」
上座の女主人が手を叩けば、給仕を務めていた下女達が膳を手にして部屋を出ていく。残されたのは蘭丸と女主人だけであった。
「惜しいのう」
女主人は扇で口元を隠しながら、やや横目になって蘭丸を見つめた。魅惑の流し目だが、蘭丸に動じた様子はない。
「気に入らぬのが気に入った」
女主人はつぶやいた。今、蘭丸の前に出した料理には人肉料理も混じっていた。だが蘭丸は察知したのかしないのか、全く手を出さなかった。
女主人の妖艶な色香にも、側に控えた下女らにも視線を送らなかった。女主人の知る限り、このような男は初めてであった。蘭丸は女の色気にも、自身の色欲にも動じぬ鋼の精神を有しているのだ。
これが七郎ならば、腹が減れば料理を食らい、女主人の誘惑に負けていただろう。もっとも、女主人ら異世界の住人が人間を食らう事には嫌悪している。
蘭丸は女主人らが人間を食らう事を否定も肯定もしていない。だが決して相容れる事はない。
七郎と蘭丸、二人は水と油のように性質が違うが、だからこそ強い縁を持っているのかもしれない。
「わらわはな……」
女主人は上座から立ち上がり、蘭丸の方へと歩み寄った。
この間、蘭丸は微動だにしない。右脇に三池典太を鞘ごと置いて、正座したままである。
「お主の子が欲しいぞ……」
言って女主人は服を脱ぎ始めた。衣擦れの音が部屋に響く。女主人は自身の言葉に恥じらっているのか、僅かに頬を朱に染めていた。妖艶な女主人の意外な仕草であった。
蘭丸は何を考えているのか、尚も座したままだ。
だが蘭丸の目は、獲物を狙う鷹の目だ。必殺の機を狙っているのだ。




