異国の匂い
(父上と老師のおかげだ)
七郎は二人からの指導を思い出す。今、生あるのは二人から受け継いだ技と魂があるからだ。
幼い七郎と木剣を手にしての稽古の最中、宗矩は鋭く突いて七郎の右目を潰した。
――あの時、わしはお前の中に神を見た。
と、宗矩は死の間際に七郎に告げた。神とは何なのか、七郎にはわからない。父の又右衛門の技も入神の域であるが、その事なのだろうか。
何にせよ右目を失い意気消沈した七郎を、再び兵法の道へ導いたのは、小野次郎右衛門忠明であった。
――我が流派は一刀に始まり、一刀に終わる。
忠明によれば、刀を用いようと槍を用いようと、一刀にて敵を仕留めるがゆえに、一刀流だという。
視力に不安のある七郎は精妙なる剣技を身につける事はできない。
が、隻眼であろうと、敵を倒すための一手を身につける事はできるはずだ。
決意した七郎は再び父の宗矩に兵法指南を求めた。宗矩は剣ではなく、先師の上泉信綱より伝わる組討術である「無刀取り」の妙技を伝授した。
後世ではいわゆる柔術と称される技術である。視力に不安のある七郎でも、対手と組みつけば、その不安は消える。
父の宗矩、師事した忠明との兵法修行が七郎を成長させた。
捨身必滅、一打必倒。
その気概が七郎に常勝無敗を授けてきた。だから今、七郎は生きているのだ…………
「む」
七郎は粘液が途切れているのに気づいた。同時に彼は小路から出た。
そして目を見張った。小路から出た先は彼の知る江戸の町ではなかった。
「なんだこれは……」
江戸とよく似た街並みだが、そこは異国の匂いに満ちていた。
道行く人々は江戸の住民に似ているが衣服が違う。雰囲気が違う。
(ここは俺がいた江戸ではない……)
戦慄が七郎の全身を駆け抜けて、途端に全身から汗が吹き出した。
七郎は小路を抜けて、別の世界へ来ていたのだ。
蘭丸はとある屋敷にいた。
高貴な身分の者が住む豪奢な館であった。
彼は広間に敷かれた絨毯に正座し、館の女主人と対面していた。
七郎から彼に授けられた名刀、三池典太は右側へ置かれていた。これは刀を抜く気はないという礼儀である。
「俺は江戸に帰りたい」
蘭丸はまっすぐに女主人を見つめて言った。
長い黒髪を無造作に後ろで束ねた着流し姿の美男子だ。
美女のような顔立ちをした優男だが、実際には人を斬った事もある。
その精神は常に明鏡止水で、人間的ではないが、だからこそ七郎は三池典太を授けた。
蘭丸ならば七郎の後を継ぎ、江戸の夜に潜む魔物を斬れるのではないか。それに美男だから、三池典太の元の持ち主である春日局も案外、喜ぶかも――
そんな淡い期待と共に、蘭丸は七郎から三池典太を授けられていた。
「そのような寂しい事を言うな」
上座の女主人は妖艶に微笑んだ。
異国の姫のような装いも麗しい、長い黒髪の女主人。
その女主人は蘭丸を熱く見つめている。ねっとりとまとわりつくような、人によっては生理的嫌悪感をもよおすであろう熱い視線であった。
「もう少しここにおっていいのだぞ」
「いや、俺は江戸に帰る」
蘭丸の視線が女主人に突き刺さる。彼の殺気を秘めた視線を浴びても、女主人はそれも一興程度にしか感じておらぬ。
「なんとも強情な―― だがそれがいい」
女主人は言った。その目は燃える情念を宿している。蘭丸と閨を共にする執念の炎だ。
蘭丸はそれに気づいているのか、いないのか。
座したまま女主人を見つめる蘭丸は静かである。
必殺の機を狙っているのだ。
だが、今はその機ではない。
女主人から賓客扱いされているが、他の住人からは、そのように見られていない。
部屋の外には殺気を隠さずに控えている女衆がいる。数名の女衆は残らず得物を手にしていた。
ましてや女主人はどうだ。一見すれば隙だらけ、はだけた胸元は蘭丸を誘っているようでもある。
だが、蘭丸が刀を抜いて斬りつければ、死ぬのは自分ではないか。そのような予感がする。
妖艶な美女だが、その実、得体の知れぬ魔性であった。蘭丸は人を斬った事もあるが、その彼ですらがためらいを感じている……
「ほれ、馳走を用意せい」
女主人が手を叩けば、女衆が料理を運びこんできた。山海の珍味かと思われるような大皿小皿の数々だが、蘭丸は手を出さなかった。
「茶だけはいただこう」
そう言って蘭丸は、傍らに座った給仕の女に言った。女は蘭丸の横顔へ熱い視線を注ぎながら、甘い香りがほのかに漂う茶碗を差し出した。
「ふふふ……」
女主人は口元を隠して含み笑いした。下品な笑いを見られたくないという意図があった。
七郎は見知らぬ町の通りを進む。
闇雲に歩くようでいて、彼は何かに導かれるように、力強い足取りだ。
内なる何かに導かれるように七郎は進む。内なる何かとは、ねねの加護であったが七郎が知る由はない。
ねねも女だ、愛する蘭丸に手を出す女は、嫉妬のあまり八つ裂きにしたくなるかもしれない。
また、蘭丸を守るために七郎に無理難題を押しつけて、自分は祭に参加しているねねだ。
女心は天より高く、海より深い――
(腹が減ったな……)
七郎は通りで足を止め、店先の陳列棚を眺めた。
見た事のない魚の姿煮が大皿に載せられている。獣肉と思しき焼肉もまた皿に盛られていた。
七郎は獣肉を口にする事は稀だ。江戸では獣肉を滅多に口にしない。魚がほとんどであり、たまに鳥肉を口にするくらいだ。
獣肉は薬屋に売られている。滋養強壮の薬として扱われているのだ。密かな愛好家もおり、七郎も決して嫌悪するわけではないが、この世界の食べ物に手を出すのはためらわれた。
「……おいおい、人間の匂いがしないか」
店の主人が――これは六尺を優に越える大男だった――鼻を鳴らした。
「ああ、本当だ。人間の匂いだ」
「ふんふん、美味そうな人間の匂いだな」
「人間なんかしばらく食べてないなあ」
と、店先に集まった者達も鼻を鳴らし始めた。それは肉食獣が獲物の匂いを嗅ぎ取ったような光景であり、七郎は顔から血の気が引いてきた。
「おや、お前さん人間臭いな」
「き、気のせいだろ」
七郎は笑ってごまかした。
「ねえねえ、あんたさあ人間じゃない? なんで人間がこんなところにいるの?」
色気を発散する年増女が七郎の体の匂いを嗅ぐ。周囲の者達の目も、七郎の方へ向いた。
「最近は人間がまぎれこむ事があるらしい」
「まあ、それじゃこの男も?」
「かなり年食ってるけど、煮たら美味そうだな」
「俺は年食ってない! 少しだ、少し!」
叫んで七郎は手にした杖で、側に来た男の頭を打った。男は意識を失って地に倒れた。
「なんだい、年食って肉固そうなのに」
「いやいや、年食った人間を美味く食べるコツもあるんだ」
「お前ら何様だ! かかってこいやー!」
七郎は群衆に向かって叫んだ。
異世界に来た恐怖と不安、更に年食った人間と評価された事が、七郎の理性を失わせた。
「あら、それじゃ今日は人間狩りだね」
「任せろ、仕留めてやる」
年増女に代わって、店主が大包丁を手にして店先に出てきた。
「は!」
七郎の烈火の気迫が空気を震わせ、周囲の群衆すら怯ませた。
虚を突かれて息を呑んだ店主へ、七郎は矢のように突き進んだ。
店主の右足を、七郎は右足で払った。体勢を崩した店主は後方に倒れて後頭部を強打してうめく。
刹那の間に閃いたのは、七郎の小内刈だ。
「なんだい、美味しくいただいてやろうってのに」
「うるさい、だまれ! 美味しく食べられてたまるか!」
「こんの人間があー!」
群衆が七郎に向かって雪崩れこんできた。中には手斧を握った凶悪な者もいる。
「おととい来やがれ!」
七郎、襲いくる群衆に背を向けて逃げ出した。数の暴力は如何ともしがたい。幕府隠密として日本全国を駆け回った七郎の健脚は、たちまち群衆を引き離した。
(ねねめ、あの女狐!)
七郎は心中に毒づきながら、町中を駆け抜け、いつしか館の前にたどり着いた。
なんという偶然だろう、この館は蘭丸が女主人に囚われている館ではないか。
息を整えながら、七郎は館の門前に立つ。目指すべき敵は近い。




