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兵法とは平和の法なり  作者: MIROKU
慶安編 魔天にかかる罠
36/40

異国の匂い

(父上と老師のおかげだ)

 七郎は二人からの指導を思い出す。今、生あるのは二人から受け継いだ技と魂があるからだ。

 幼い七郎と木剣を手にしての稽古の最中、宗矩は鋭く突いて七郎の右目を潰した。

 ――あの時、わしはお前の中に神を見た。

 と、宗矩は死の間際に七郎に告げた。神とは何なのか、七郎にはわからない。父の又右衛門の技も入神の域であるが、その事なのだろうか。

 何にせよ右目を失い意気消沈した七郎を、再び兵法の道へ導いたのは、小野次郎右衛門忠明であった。

 ――我が流派は一刀に始まり、一刀に終わる。

 忠明によれば、刀を用いようと槍を用いようと、一刀にて敵を仕留めるがゆえに、一刀流だという。

 視力に不安のある七郎は精妙なる剣技を身につける事はできない。

 が、隻眼であろうと、敵を倒すための一手を身につける事はできるはずだ。

 決意した七郎は再び父の宗矩に兵法指南を求めた。宗矩は剣ではなく、先師の上泉信綱より伝わる組討術である「無刀取り」の妙技を伝授した。

 後世ではいわゆる柔術と称される技術である。視力に不安のある七郎でも、対手と組みつけば、その不安は消える。

 父の宗矩、師事した忠明との兵法修行が七郎を成長させた。

 捨身必滅、一打必倒。

 その気概が七郎に常勝無敗を授けてきた。だから今、七郎は生きているのだ…………

「む」

 七郎は粘液が途切れているのに気づいた。同時に彼は小路から出た。

 そして目を見張った。小路から出た先は彼の知る江戸の町ではなかった。

「なんだこれは……」

 江戸とよく似た街並みだが、そこは異国の匂いに満ちていた。

 道行く人々は江戸の住民に似ているが衣服が違う。雰囲気が違う。

(ここは俺がいた江戸ではない……)

 戦慄が七郎の全身を駆け抜けて、途端に全身から汗が吹き出した。

 七郎は小路を抜けて、別の世界へ来ていたのだ。



 蘭丸はとある屋敷にいた。

 高貴な身分の者が住む豪奢な館であった。

 彼は広間に敷かれた絨毯に正座し、館の女主人と対面していた。

 七郎から彼に授けられた名刀、三池典太は右側へ置かれていた。これは刀を抜く気はないという礼儀である。

「俺は江戸に帰りたい」

 蘭丸はまっすぐに女主人を見つめて言った。

 長い黒髪を無造作に後ろで束ねた着流し姿の美男子だ。

 美女のような顔立ちをした優男だが、実際には人を斬った事もある。

 その精神は常に明鏡止水で、人間的ではないが、だからこそ七郎は三池典太を授けた。

 蘭丸ならば七郎の後を継ぎ、江戸の夜に潜む魔物を斬れるのではないか。それに美男だから、三池典太の元の持ち主である春日局も案外、喜ぶかも――

 そんな淡い期待と共に、蘭丸は七郎から三池典太を授けられていた。

「そのような寂しい事を言うな」

 上座の女主人は妖艶に微笑んだ。

 異国の姫のような装いも麗しい、長い黒髪の女主人。

 その女主人は蘭丸を熱く見つめている。ねっとりとまとわりつくような、人によっては生理的嫌悪感をもよおすであろう熱い視線であった。

「もう少しここにおっていいのだぞ」

「いや、俺は江戸に帰る」

 蘭丸の視線が女主人に突き刺さる。彼の殺気を秘めた視線を浴びても、女主人はそれも一興程度にしか感じておらぬ。

「なんとも強情な―― だがそれがいい」

 女主人は言った。その目は燃える情念を宿している。蘭丸と閨を共にする執念の炎だ。

 蘭丸はそれに気づいているのか、いないのか。

 座したまま女主人を見つめる蘭丸は静かである。

 必殺の機を狙っているのだ。

 だが、今はその機ではない。

 女主人から賓客扱いされているが、他の住人からは、そのように見られていない。

 部屋の外には殺気を隠さずに控えている女衆がいる。数名の女衆は残らず得物を手にしていた。

 ましてや女主人はどうだ。一見すれば隙だらけ、はだけた胸元は蘭丸を誘っているようでもある。

 だが、蘭丸が刀を抜いて斬りつければ、死ぬのは自分ではないか。そのような予感がする。

 妖艶な美女だが、その実、得体の知れぬ魔性であった。蘭丸は人を斬った事もあるが、その彼ですらがためらいを感じている……

「ほれ、馳走を用意せい」

 女主人が手を叩けば、女衆が料理を運びこんできた。山海の珍味かと思われるような大皿小皿の数々だが、蘭丸は手を出さなかった。

「茶だけはいただこう」

 そう言って蘭丸は、傍らに座った給仕の女に言った。女は蘭丸の横顔へ熱い視線を注ぎながら、甘い香りがほのかに漂う茶碗を差し出した。

「ふふふ……」

 女主人は口元を隠して含み笑いした。下品な笑いを見られたくないという意図があった。



 七郎は見知らぬ町の通りを進む。

 闇雲に歩くようでいて、彼は何かに導かれるように、力強い足取りだ。

 内なる何かに導かれるように七郎は進む。内なる何かとは、ねねの加護であったが七郎が知る由はない。

 ねねも女だ、愛する蘭丸に手を出す女は、嫉妬のあまり八つ裂きにしたくなるかもしれない。

 また、蘭丸を守るために七郎に無理難題を押しつけて、自分は祭に参加しているねねだ。

 女心は天より高く、海より深い――

(腹が減ったな……)

 七郎は通りで足を止め、店先の陳列棚を眺めた。

 見た事のない魚の姿煮が大皿に載せられている。獣肉と思しき焼肉もまた皿に盛られていた。

 七郎は獣肉を口にする事は稀だ。江戸では獣肉を滅多に口にしない。魚がほとんどであり、たまに鳥肉を口にするくらいだ。

 獣肉は薬屋に売られている。滋養強壮の薬として扱われているのだ。密かな愛好家もおり、七郎も決して嫌悪するわけではないが、この世界の食べ物に手を出すのはためらわれた。

「……おいおい、人間の匂いがしないか」

 店の主人が――これは六尺を優に越える大男だった――鼻を鳴らした。

「ああ、本当だ。人間の匂いだ」

「ふんふん、美味そうな人間の匂いだな」

「人間なんかしばらく食べてないなあ」

 と、店先に集まった者達も鼻を鳴らし始めた。それは肉食獣が獲物の匂いを嗅ぎ取ったような光景であり、七郎は顔から血の気が引いてきた。

「おや、お前さん人間臭いな」

「き、気のせいだろ」

 七郎は笑ってごまかした。

「ねえねえ、あんたさあ人間じゃない? なんで人間がこんなところにいるの?」

 色気を発散する年増女が七郎の体の匂いを嗅ぐ。周囲の者達の目も、七郎の方へ向いた。

「最近は人間がまぎれこむ事があるらしい」

「まあ、それじゃこの男も?」

「かなり年食ってるけど、煮たら美味そうだな」

「俺は年食ってない! 少しだ、少し!」

 叫んで七郎は手にした杖で、側に来た男の頭を打った。男は意識を失って地に倒れた。

「なんだい、年食って肉固そうなのに」

「いやいや、年食った人間を美味く食べるコツもあるんだ」

「お前ら何様だ! かかってこいやー!」

 七郎は群衆に向かって叫んだ。

 異世界に来た恐怖と不安、更に年食った人間と評価された事が、七郎の理性を失わせた。

「あら、それじゃ今日は人間狩りだね」

「任せろ、仕留めてやる」

 年増女に代わって、店主が大包丁を手にして店先に出てきた。

「は!」

 七郎の烈火の気迫が空気を震わせ、周囲の群衆すら怯ませた。

 虚を突かれて息を呑んだ店主へ、七郎は矢のように突き進んだ。

 店主の右足を、七郎は右足で払った。体勢を崩した店主は後方に倒れて後頭部を強打してうめく。

 刹那の間に閃いたのは、七郎の小内刈だ。

「なんだい、美味しくいただいてやろうってのに」

「うるさい、だまれ! 美味しく食べられてたまるか!」

「こんの人間があー!」

 群衆が七郎に向かって雪崩れこんできた。中には手斧を握った凶悪な者もいる。

「おととい来やがれ!」

 七郎、襲いくる群衆に背を向けて逃げ出した。数の暴力は如何ともしがたい。幕府隠密として日本全国を駆け回った七郎の健脚は、たちまち群衆を引き離した。

(ねねめ、あの女狐!)

 七郎は心中に毒づきながら、町中を駆け抜け、いつしか館の前にたどり着いた。

 なんという偶然だろう、この館は蘭丸が女主人に囚われている館ではないか。

 息を整えながら、七郎は館の門前に立つ。目指すべき敵は近い。

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