無心の一手
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七郎と正雪は月下に対峙した。
二人にとって、それは最初で最後の対決だった。
黒装束姿の七郎と、裃姿の正雪。
二人は抜刀して斬り結んだ。
互いに刃を避けつつ閃く銀光。
それは闇夜に描かれた芸術であったかもしれぬ。
互いに後退り、刀を手にして向き合う。七郎も正雪も汗を浮かべ、決死の形相をしていたが、不意にどちらからともなく笑った。
「強いな七郎」
正雪は、まるで弟に接しているかのようだ。
「正雪こそ」
隻眼の七郎、ニヤリと笑った。
「さすがは江戸の名士だ」
「何を言う、七郎こそよく生きていたな」
「悪運が強いからかな」
「いや、七郎には使命があるからだ…… 七郎は倒すべき敵を倒すまで戦うのだ」
二人の会話の意味は傍からはわからない。
だが互いに生涯最大の好敵手だと魂で理解しあっていた…………
次の瞬間、正雪は踏みこみ、一刀を打ちこんだ。
七郎は刀を手放し、まっすぐに踏みこんだ。正雪の振るった刃を避けつつ、組みついて動きを封じる。
「離せ!」
正雪は七郎を振りほどこうとした。
「目を覚ませ!」
七郎は正雪に押されて後退した。
無心に体が動いた。
正雪が前へ出ようとするのと同時に、七郎の左足は後方へ半円を描く。
左膝をつきつつ、七郎は左手で正雪の右袖を握って、彼を後方へ放った。
正雪は刀を握ったまま前方へ一回転して、背中から大地に落ちた。
「い、今のは……」
正雪は大の字に倒れたまま、つぶやいた。彼の目は夜空に輝く満月を見ていた。
「……無心の技」
七郎は正雪の右袖から左手を離さず言った。しかけた彼自身が理解の及ばぬ技であった。
後世の柔道における浮落である。二十一世紀には遣い手のいない幻の秘技とされている。
それを七郎が成し遂げる事ができたのは、すでに死を覚悟していた事と、長い闘争の経験ゆえだろう。
武徳の祖神も勝利の女神も、七郎が命がけで江戸の平和を守るために戦うからこそ、加護を与えてくれるのだ。
「見事だ、七郎…… お前は私の誇りだ……」
そう言った正雪は投げられた衝撃に意識を失った。
こうして由比正雪は捕らえられたのだ。
由比正雪は捕方に取り囲まれて自刃したと江戸庶民には伝えられている。
が、それは間違いだ。事実は七郎だけが知っている。
同時に、あの無心の一手が――
最高の一瞬は、永遠の感動だと七郎は知った。




