光と闇
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七郎は湯屋にいた。二階の娯楽室で蘭丸と将棋を指している。
「お前が娘の手でも握ってやれば、それだけで良かったんだ」
「は……」
七郎の言に蘭丸は畏まって言葉も出ない。が、将棋は蘭丸が優勢である。蘭丸は手加減というものを心得ていない。
「王手」
「うむむむ……」
「……待ちますか」
「いや、いい。俺の負けだ。それよりも今後は気をつけろよ」
七郎は数日前の夜を思い出す。忘れられない鮮烈な夜だ。
地獄の獄卒である牛頭鬼と馬頭鬼との対決。
幽霊の娘の儚くも夢幻の美しさ。
――蘭丸様に会えて良かった……
幽霊の娘の美しさは恋する女性の美しさだった。七郎は心を打たれた。
そして幽霊の娘は蘭丸に手を握ってもらえた事で満足し、自ら冥府へと戻る事にしたのだった。死者を探しにやってきた牛頭鬼馬頭鬼は、とんだ骨折り損だった。
――死んだら今日の借りを返してやるぞ。首を洗って待っていろ。
牛頭鬼の言葉に七郎は戦慄した。死んだ後も七郎はやるべき事があるのだ。現世での対決以上の激しい闘争が、冥府でも待つだろう。
――ところで、その札は何だ。なんで人間がそんなものを持っている。
馬頭鬼の言葉に、七郎はねねから与えられた札を懐中に持つ事に思い出した。
――や、やだ、近づかないで!
幽霊の娘が発狂したような金切り声を上げたので、七郎は傷ついた。
どうやら、ねねが七郎に授けた札は、冥府の住人には恐ろしく、忌々しいものであるらしい。
その後、七郎と蘭丸は幽霊の娘が牛頭鬼と馬頭鬼に連れられて冥府へ戻っていくのを見送った。
三人は見えない階段を昇るようにして、夜空に消えていった……
「お前といると退屈しないようだ」
七郎は蘭丸を見つめてニヤリとした。
まるで美女のような蘭丸が、魔を斬る三池典太を手にして、どうやって江戸の夜を生き抜いていくのか?
七郎はそれが楽しみだ。
「ふう、おまたせしたわねー」
娯楽室にねねが姿を見せたので、七郎と蘭丸のみならず、他の客もざわついた。
湯上がりのねねは正真正銘の美女だった。
まるで仏教画に描かれた天女のようだと七郎は感じた。
娯楽室にいる男達は、談笑も碁を指すのも忘れて、ねねに見入っている。
「あら、どうしたの? 娯楽室に女が来ちゃいけないのかしら」
「あ、あまり女は来ないぞ、来るのは商売女ばかりだからな」
七郎は咳払いした。当時の湯屋には遊女の類も常駐していた。男達の中には、女を買う目的で湯屋に来ている者もいたのだ。
江戸は各地から労働者が集まり、男が七割、女が三割と言われていた。寂しい男は七郎も含めて大勢いたのだ。
七郎の寂しさは、公の彼はすでに死んでいるために妻子に会えぬからだ。
「まあ、あとは二人でやれ」
七郎、慌てて立ち上がって湯屋を去った。ねねは苦手だが、彼女は七郎がときめくほどに美しかった。
だから、それが問題だ。
七郎は夕闇の中を散策する。江戸の町も黄昏時を迎えていた。
見知った通りが別世界のように見える。黄昏時は逢魔が時であり、この中で出会う者全てが人間とは限らない。
七郎は武家屋敷の並ぶ通りを歩いた。出歩く者は誰もいなかった。
ふと、七郎はねねから与えられた札を思い出した。あの夜以降、札は消えてしまった。
何処かに落としたと思っていたが、実際には、札は七郎の心身に溶けこんでいたのだ。
幽霊や地獄の獄卒すら怯ませる札を、心身に吸収してしまった七郎は、人ならざる者を知覚する力が増した――
「む……」
七郎が屋敷と屋敷の間にある小道へ目を向ければ、そこは薄暗く、背を向けて屈みこんだ人影が見えた。同時に七郎は血の臭いを嗅いだ。
人影は女のようであり、地に倒れたものを食らっていた。
地に倒れているのは月代を剃り上げた武士のようであった。女は武士の体を引き裂いて、その血肉をすすっていたのだ。
「……なるほど」
七郎は不敵に笑った。彼は由比正雪の刺客に襲われた際、全身十数箇所を斬られて尚、生き延びた。
どうして自分が生きているのか、それは武徳の祖神の加護だと信じていた。
そして確信した。七郎には、まだまだ倒すべき敵がいるのだ。
「男は卑小、女は魔性……」
七郎は腰の小太刀の柄へ、逆手に右手を伸ばした。
振り返った女の眼は大きく見開かれていた。人間的な感情など微塵も感じられない。
これは女の姿をした餓えた化物だ。
「御免」
七郎は踏みこみながら小太刀を逆手に抜いた。
人ならざる魔性は日常の中に潜んでいるのだ。




