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兵法とは平和の法なり  作者: MIROKU
慶安編 幽玄の恋
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牛頭と馬頭



 夜となり、江戸の町は静まり返った。

 長屋の自室で長らく瞑想していた七郎は、小太刀一本を腰の帯に差して外に出た。

 満点の星空に、淡い月光。

 微かな月明かりのみの、夜の世界。

 ここは人の世界ではなかった。この世界で七郎が動けるのは、幾多の修羅場を経てきたからかもしれない。

(全く、女の頼みを聞くと、ろくな事がない)

 過去に頼み事をした女性陣を恨んだり憎んだりしているわけではない。

 ただ七郎は、女性の頼み事が困難だという事を知っている。

 知っていて尚も頼まれて断らぬのは、彼がお人好しだからだろう。

 思い出しても苦痛なだけだ。七郎は苦笑して夜の中を駆けた。蘭丸と女の幽霊は、近くの川で会っているらしい。

 蘭丸の持つ三池典太ならば女の幽霊を斬れるかもしれぬ。いや、斬れるはずだ。それは七郎が実証済みだ。

 人ならぬ魔性の者と対峙し、それを斬ってきたからこそ七郎は生きているのだ。

 蘭丸は元は人を斬った事もある用心棒、斬るのにためらいはないはずだ。

 それが斬らぬというのなら、理由があるはずだ。

「……なるほどな」

 現場に到着した七郎は納得した。

 橋のたもとの腰かけに、蘭丸と一人の娘が並んで腰を下ろしていた。

 長い黒髪を無造作に後ろで束ねた眉目秀麗の蘭丸。

 その隣には小柄な娘が座して、蘭丸に積極的に話しかけている。

 娘は十二、三といったところか。月光に照らされた顔はひどく幼く、儚げだ。

 七郎はねねを思い出して意地悪く笑った。ねねが嫉妬するには対象が幼い。また幼い娘の幽霊が相手では、蘭丸も斬るのをためらっているのだろう。着流し姿の蘭丸は、腰に何も差していない。

(いや、しかし、どうする?)

 七郎は蘭丸と幽霊の娘を、木の影から見守っていたが、逆にどうすれば良いか判断に困った。

 ねねから授けられた札を使えば、娘は消滅するのだろうか。いや、冥府へ帰るのだろうか。

 なにぶん、ねねの事だ。幽霊の娘が美の好敵手にはなり得ずとも、恋敵としては認識しているだろう。

 そして娘の魂を冥府魔道へ叩き落とすくらいはやるかもしれない。七郎が見た事もない美女ねね。だがその心意気は未だに測れない。

「――あんなところにいやがったぞう」

 不意に、側で声がして七郎の心胆は震え上がった。蘭丸と幽霊娘の逢瀬を見ていたとはいえ、周囲への警戒を怠っていたわけではない。

「小娘め、いつまで現世にいるつもりだ」

 また別の声がした。七郎は声がした方へ、左手側へ視線を移す。

 するとそこには信じがたいものがいた。

 牛頭の男と馬頭の男。二人は半裸である。身の丈は六尺五寸あまりの鍛え上げた肉体には、七郎ですらが息を呑む迫力だ。

 地獄の獄卒は牛頭馬頭の鬼だという。ならば、彼らは――

「あの美男はどうする、あいつのせいだ」

「かまわん、あいつも一緒に連れていこう」

 などと、牛頭鬼と馬頭鬼は物騒な事を話している。

 七郎は生きた心地もせぬ。橋のたもとには仲睦まじい蘭丸と幽霊の娘、少し離れたところには牛頭鬼と馬頭鬼。

 月明かりに照らされた彼らは果たして現実の光景なのか、はたまた七郎が見ている夢なのか。

 月下の夢幻の光景に、正しく魂消た七郎だが、牛頭鬼と馬頭鬼が蘭丸らへと歩を進めようとした瞬間、彼は声を出した。

「待ってくれ」

 七郎は牛頭鬼と馬頭鬼に呼びかけた。二体の鬼は少々驚いたようだ。

「あの二人を力ずくで引きはがすのは、止してくれ」

 七郎は二体の鬼を見つめて、静かに告げた。隻眼の異相には何の感情も浮かんでいない。

 が、闘うという意志だけは全身に満ち満ちていた。

「こいつ我らが見えるのか」

「妙だぞ、こいつ」

 牛頭鬼と馬頭鬼の多少の動揺――

 七郎も内心で動揺している。心臓が早鳴りを繰り返している。これほどの激しい緊張はいつ以来か。

 脳内には父の又右衛門宗矩や師事した小野次郎右衛門忠明、更には由比正雪や丸橋忠弥が思い出された。

 ――七郎、貴様は地獄の獄卒が相手だからといって怯えておるのか? はっはっはっ、こいつはお笑いだ!

 七郎の脳内には丸橋忠弥の声が思い出された。彼とは仲が悪かった。だからこそ好敵手だったのかもしれぬ。

 丸橋忠弥の挑発(これは七郎の妄想だ)が、七郎に怒りを生み、そして今、勇気を与えていた。

「お前も連れていってもいいのだぞ」

 牛頭鬼が七郎を脅すように歩み寄ってきた。息を呑む巨体だ。五尺七寸前後の七郎より頭二つ背が高い。

「それは断る」

 七郎、静かにつぶやいた。

 次の瞬間には矢のように飛び出していた。

 七郎は牛頭鬼の眼前に踏みこむや、右足の爪先で牛頭鬼の右踵を払った。

 体勢を崩された牛頭鬼が背中から大地へ倒れた。倒れた際に後頭部を強打したか、うめいて起き上がれない。

 体格の差を活かした七郎の奇襲であった。

 しかけた技は後世の柔道における小内刈だ。父の言によれば、戦場で鍔迫り合いに及んだ時には両手が使えなくなる。

 その体勢から敵を倒すために編み出されたのが「無刀取り」における各種の足技だという。

 まともに真っ正面からぶつかっては、七郎の勝機は薄かったろう。

「待ってやってくれ」

 七郎は尚も言うが、今この場合においては、彼の方が力ずくで事を成そうとする暴虐者かもしれない。

「貴様、何者だ!」

 叫んで馬頭鬼は七郎へ襲いかかった。

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