第三回 破邪一刀
「それはこういう顔をしたやつですかい」
店主は立ち上がり、七郎に近づいてきた。七郎はすでに床几から立ち上がって、この肉面の不気味な店主から二、三歩距離を空けている。頭の中は真っ白だ。
「化物だなんて、ひどいじゃないですかい」
肉面の店主と七郎の間合いは迫った。七郎の心臓が激しく高鳴っているが、自分でそれには気づかない。
七郎は蛇ににらまれた蛙の如しだ。同時に父の又右衛門の言葉が思い返された。戦場に正々堂々はない、不意を衝かれて殺されても文句は言えぬ。
今の七郎が正にそれだ。唐突に肉面の店主を目の当たりにして意気を削がれた。頭は真っ白で何をしていいのかわからない。
しかし七郎は兵法を学び続けてきた。
隻眼ゆえに剣は上達しなかったが組討の術は練磨した。
魂に刻まれた組討の術、それが七郎を動かした。
「おお」
声は肉面の店主が発していた。彼は七郎に組みつかれた次の瞬間、体を反転させて背中から大地に落ちていた。
七郎が店主にしかけたのは後世の柔道における体落という技だ。七郎は一瞬の間に肉面の店主を大地に投げつけていた。
何が起きたかわからぬ店主が、うめきながら起き上がろうとする。七郎は間合いを離して、後腰に帯に差していた小太刀を抜いた。
この時代、幕府は町民に小太刀の所持を許可していた。これは自衛せよ、という意味だった。僅かな同心らに数十万人の江戸市民を守る事など不可能だからだ。
「ぬん」
七郎は両手で小太刀を拝み打ちにした。打ちこんだ刃が肉面の店主の顔を、真一文字に斬り裂いたかに見えた。
だが七郎はそこで我に返った。
「……これは?」
七郎は黄昏の光の中に、ただ一人立ち尽くしていた。うどんの屋台もないし、七郎は小太刀を抜いてもいなかった。
七郎の全身が冷や汗に濡れた。肉面の店主は夢か現か。七郎が見た幻であったのか。
得体の知れぬ恐怖に駆られて、七郎は足早に武家屋敷の並ぶ通りから去った。
魔性の恐ろしさを思い知らされたのだ。