紫電残光
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夜の中に白刃の打ち合う音が響いた。
闇夜に火花が散る。それは魂の激突かもしれない。
慶安の変を経ても江戸の治安は改善されなかった。江戸には人が集まるが、同時に盗賊の類も多く集まった。
武装した強盗団を制圧するのは江戸城御庭番だ。伊賀甲賀の忍びの末裔である彼らの血脈は幕末まで存続し、かのペリーの黒船に侵入して時計などを盗み出したという。
何にせよ、著名な火盗改が誕生するまで未だ数十年を要さねばならない。だが江戸の平和を守るために戦う者は確かに存在したのだ。
「ぐわ」
呻きを発して盗賊の一人が倒れた。その盗賊を蹴り倒したのは、黒装束の般若面の男だった。
般若面は無手にて盗賊へ踏みこむ。
流れる水であるかのように刃を避けて般若面が組みつけば、次の瞬間には盗賊が大地に叩きつけられている。
まるで妖術を見るかのようだった。十数人いた盗賊団も半分は般若面に制圧されていた。
他の黒装束達の奮戦もあり、盗賊団はただ一人を残して地に倒れ伏していた。
「ぬう、般若面!」
覆面の盗賊が叫んで刀を正眼に構えた。切っ先は般若面に突きつけられている。
盗賊の覆面からのぞく目は強い光を放っていた。最期を覚悟した盗賊は、般若面との対決を望んでいた。
ここ十数年、江戸の巷にあふれた噂。夜の闇に現れる般若面の妙技は、無手にて刀を持った対手を制すると。
その般若面の最も新しい噂は、槍の達人丸橋忠弥を無手にて制したというものだった。
「その意気や良し」
般若面は面の奥で笑ったようだった。彼もまた死を覚悟して盗賊と向き合う。
般若面も盗賊も無言で対峙した。死を覚悟した二人は善も悪も超越した境地にいた。
善か悪かよりも、死を覚悟して事に臨む事こそ肝要なり――
それが般若面の体感した真実である。命を懸けるからこそ、武徳の祖神たる経津主大神が導くのだ。
般若面は刀の死角である盗賊の右手側へ回りこもうとする。
それに合わせて盗賊も刀の切っ先を般若面に突きつけたまま動く。
両者は対峙したまま、互いに孤を描き、半円を描き、円を描き、遂に止まった。
「――キィエーイ!」
盗賊が踏みこんだ。僅かに速く般若面が踏みこんでいた。
盗賊が刀を打ちこむより速く、般若面はその両腕に抱きついた。
そして体を回す。盗賊の体が浮き上がる。
次の瞬間には盗賊は背中と後頭部を大地に叩きつけられていた。
後世の柔道における一本背負投だった。柔道の祖は柔術であり、柔術とは戦国の世に生まれた組討術の事である。
「会心の一手、忘れぬぞ」
般若面は盗賊を見下ろした。盗賊は泡を吹いて気絶していた。
般若面は今夜の戦いも生き延びた。江戸城御庭番の者達も一息ついている。
「まだまだだな……」
般若面は面を外して夜空を見上げた。現れたのは隻眼の七郎、柳生十兵衛三厳だ。
彼は公には死んでいるが、死して尚、江戸の治安を守っていたのだ。




