女の喧嘩は江戸の華
七郎が三池典太を――
魔を斬るとされ、後世では国宝に数えられる名刀を授けた者の名は蘭丸といった。
(まあ、あいつならば)
七郎、歩きながらニヤリとする。
彼が関心を持つ者など僅かしかいない。いや人間は元々、他人に関心など持たぬ。持つとすれば、それは己より強い者への闘争心や、説明不能にして永遠不滅の恋心というものであろう。
七郎が蘭丸に抱く感情といえば嫉妬ばかりである。男の嫉妬はみっともないと世の女性は思うだろうが、それも仕方ない。
女と見紛う美男でありながら、鋼の心と鉄の肉体。
人生に絶望し、自身は人斬りの用心棒として苦界に身を沈めながら、生き延びてきた。
やがては苦界からも追い出され、人間の世界に居場所を持てなかった蘭丸。
彼に魔を斬る剣である三池典太を譲ったのは、七郎には使命に思われた。
(命を守る、未来へつなぐ…… 奴ならば、あるいは)
七郎はそんな気がするのである。三池典太は春日局から家光の辻斬りを止めた報酬として授かったが、七郎が死んだ後では他者に譲れぬ。
生あるうちに後継者が見つかって、良かったといったところだろうか。
「てやんで、べらぼうめーい!」
その時だ、女の金切り声が七郎の耳に入ってきたのは。
江戸城にほど近い通りに人相の悪い男達が数人集まっているが、彼らに向かって啖呵を切るのは、見目麗しい美女である。
年の頃は十七、八といったところか。地味な着物だが彼女の美しさを損なう事はない。
黙っていれば相当な美女だが、肩に角材を担いで男達を見据える姿が奇妙だ。
「やっちまえー!」
男達は一斉に女に向かっていった。七郎、思わず出ようとした。
だが心配は無用だった。
「ふんぬう!」
女は角材を小枝のように振り回して男達を蹴散らした。その様子は、まるで戦国の豪傑だ。
男達は最近になって江戸にやってきた浪人だ。同情すべき点もあるが、働かずに他者に金をたかって生活しようという性根はいただけない。
美女はそれが許せなかったのだ――
「だあ!」
美女が横に薙いだ手刀が、一人の男の胸を打つ。それを受けて呻く男の背後へ、美女は素早く周りこんだ。
「天誅よー!」
美女は男の背後から腰に抱きつき、そして背を反らせながら持ち上げた。
男は美女の反り投げで後頭部から大地に叩きつけられていた。
「むう、あれは……!」
七郎は戦慄した。美女が男を投げた技は、七郎が父から学んだ無刀取りの妙技の中に、型としてはある。
だが、七郎は自分には合わぬとして、技の存在自体すっかり忘れていた。
「働け、働けー! 美味しいご飯を食べるために、額に汗して一生懸命働くのよー!」
美女は江戸の空に吠えた。
まるで女神が人々に天啓を伝えているように思ったのは、七郎の気のせいか。
周囲で見守る野次馬からは拍手喝采、やってきた奉行所の者が男達をしょっ引いていく。
七郎は美女とは顔見知りだ。だが、いつの間に彼女が江戸の町に溶けこみ、ましてや人々の信頼を得ていた事には気づかなかった。
「あらやだ、七郎さんじゃないの。ねえところで聞いてよ、蘭丸様が働かないんだけどお〜」
美女が七郎の側にやってきて愚痴という猛毒を際限なく吐き出していく。
美女の名は、ねね。
ねねは蘭丸の押しかけ女房気取りの女だった。




