魔性
人ある限り魔性は不滅。
なぜなら魔性は人の心から生じるのだから。
七郎は馴染みの茶屋にいた。
店先の床几に腰かけ、青空を見上げている。
「あんたもよく来るねえ」
茶屋の店主のおまつが茶と団子を運んできた。七郎はもう十年以上も茶屋に通っていた。
「生きてる間は来るさ」
そう言って七郎は茶を飲んだ。
「あたしだって長くないさ」
「何言ってる、もっと長生きしてくれ」
おまつと七郎は顔を見合わせ笑った。由比正雪による慶安の変を経た江戸では浪人の救済が始まっていた。
だが真に救われる浪人は僅かだ。幕府による大名の改易は未だに続いていた。
「また来るぞ」
七郎はお代を床几に置いて立ち上がった。隻眼の七郎は十年以上も戦いから生き延びていた。
江戸の夜だ。幕府は夜の外出を控えるように江戸市中に伝えていた。
強盗殺人も珍しくない江戸の治安は悪かった。
それでも人々は夜の中に惹かれる。夜は昼とは違う世界だ。人ならざる魔性が現れるのも夜の中だからだ。
――オオオ……
夜の闇を進む一団は浪人のようである。だが彼らの両目は闇の中で真紅に輝いていた。
人ならざる魔性――
この浪人達は自身の抱く悪意を増幅させ、遂には人ならざる魔性に転じたのだ。
その魔性達の前に、現れたのは黒装束の男であった。
「死ぬには良い日だ」
黒装束の男はつぶやいた。顔には黒塗りの般若面がある。
般若面は魔性の一団を前に、怯む事なく駆け出した。
駆けながら般若面は右手で抜刀した。
光の刃が数条、闇夜を斬り裂いたと見えた瞬間には、たちまち数人の魔性が斬られている。
斬られていない魔性が七郎に組みついてきた。
般若面は瞬時に左手で魔性の右手首を握った。独楽のように身が回転したかと思えば、魔性は投げられ、背から地に叩きつけられている。
これは後世の柔道における体落を、般若面が左手一本でしかけたものだった。
そして般若面は僅かな時間で魔性の一団を制圧した。
強いというより手慣れているという印象だった。
ここまで技を洗練するのに、一体どれほどの死線をくぐり抜けたのか。
般若面が愛刀の峰を叩いて血を落とすと、新たな気配が夜の中に現れた。
それは一糸まとわぬ白い裸体に、背には明な羽を生やし、更には頭部には蠢く触覚を生やしていた。
正に魔性であった。般若面はこの美しい魔性を月光蝶と呼んでいた。
「今日こそ地獄につきあってもらおう」
般若面は恐ろしい口説き文句を口にした。
そして月光蝶は般若面を見つめて妖艶な笑みを浮かべた。




