第二十三回 無明を断つ
般若面は素早く飛び退き、三池典太を正眼に構えた。切っ先を鬼に突きつけ、静かに見据える。
鬼も動きを止めた。般若面から発される鋭い剣気に射竦められたのだ。
夜の静寂の中に、般若面の剣気が満ちていく。人知を超えた魔性ですらが、般若面の放つ剣気に怯んでいた。
(何のために戦う?)
般若面は研ぎ澄まされた意識の中で自問した。身に走る恐怖を制するためでもあった。
死の恐怖を心身に感じた般若面の意識は、極限まで研ぎ澄まされていく。様々な記憶が般若面の脳裏を駆け抜けた。
俗に言う人生の最期の走馬灯とは、生きるための手段を探し出しているともいう。
今、般若面は己の魂の中から、戦う動機を探し求めていたのだ。
それが死の恐怖を吹き飛ばし、ましてや人ならざる魔性との戦いに勇気を与えてくれるはずだからだ。
父又右衛門と師事した次郎右衛門から受けた兵法修行。
島原の乱で死を看取った少女。
茶屋のおまつとおりん。
そして、江戸の町で見かける子連れの婦人達……
般若面の意識は現実に引き戻される。彼の思索は一瞬だ。
眼前から鬼が背中の脚を振り上げながら、般若面へと襲いくる。
般若面は鬼の左手側へと僅かに回りこみながら、三池典太を横に薙ぐ。鬼の背から生えた昆虫のような脚が、まとめて数本切断された。
「御免」
般若面は静かに一刀を打ちこんだ。三池典太の鋭い切っ先は、鬼の額から股下まで一直線に斬り裂いた。
鬼の動きが止まった。両目を真紅に輝かせた非人間的な表情を浮かべていた浪人が、僅かに微笑んだようだった。
それは人生の辛苦から解放された笑みだったのだろうか。般若面にはわからない。
次の瞬間には、鬼の体が内から裂けて、まばゆい光が四方八方へ放たれた。
「な、何だ!」
般若面は三池典太を手にして素早く飛び退いた。その間も浪人だった鬼の内からあふれる光が、無数の光線となって夜の闇を斬り裂いていく。
光が治まった時には、路上に浪人だった鬼の姿はなかった。粗末な衣服だけが地に残っていた。
武家屋敷の屋根にいた月光蝶の姿もない。あの魔性は人間の弱き心につけこんで、人ならざる者へと転じさせる。
その魔天の業を以て、この江戸に混乱と恐怖を撒き散らすのだろうか。
般若面は愛刀の三池典太を鞘に納めた。彼方から陽が昇る。その鮮やかな陽光を半眼に見つめながら、般若面の心は静かである。
今日は勝った。明日はわからない。
般若面の魂が満たされるのは、江戸を守って死んだ時だけだ。




