第十九回 体感した無の境地
*
江戸では新たな日常が始まっていた。それを顕著に感じているのは町民だ。
全国各地の大名が参勤交代で江戸に住めば、武士が日常にあふれている。
大名屋敷に住む武士達は行動が制限されていた。江戸の町を自由に出歩く事はできなかった。
これは武士同士の対立や浪人との無用な闘争を防ぐためであったろう。江戸に集った全国津々浦々の武士の中には腕に覚えあるという者も少なくない。
更には刀で人を斬りたいと考えている武士もいる。平和な世の中で刀を振るう機会のない者が、暇と体力と鬱憤を持て余しているのだ。
江戸では武士と町民の比率がほぼ半々になった。武士階級と町民、更に浪人まで含めて、対立と抗争が日々起きている。
――学ぶべき事を多く残しているのは我が身の方だ。
七郎は馴染みの茶屋の店先で、床几に腰かけ青空を眺めていた。
学ぶべき事は山ほどある。
一に兵法、二に平和。
三に己を置いて、七郎は心の牢獄から脱したような気がする。
忙しい忙しいではない、時間は自分で作るのだ。まず自分を救わなければならない。自分を救えない者は必ず道を踏み外す。
「ごめんね、団子焼いてくるからさあ、お待たせしちゃうよ」
「いや、かまわんさ」
おりんの詫びへ、七郎は軽く手を振った。彼としては馴染みの茶屋に少しでも長く滞在したいのだ。
「焼き立てを食べさせたいんだよ、最近はなかなか来ないから」
おまつが七郎の側に来て耳元に囁いた。それを聞いて七郎は咳払いを一つした。まだまだ未熟と悟る。
確かに七郎は学ぶべき事を多く残していた。兵法の真髄、世の流れ、そして女心だ。
だが女は魔物でもある。心の片隅では夜の中で出会った魔性が気になっている……
「……む」
「あれあれ、喧嘩かねえ」
七郎とおまつは、通りで口論を始めた男達を見た。
それは数人の武士と一人の浪人だった。武士達は多勢に無勢で浪人を嘲笑ったのだ。
それに耐えかねた浪人が口を荒げるのを、武士らは笑って見ている。
怒り心頭に達した浪人は抜刀して武士に斬りかかった。
「ば、馬鹿!」
七郎は思わず叫んだ。浪人の鋭い一刀は空振りした。武士は必死で刃を避けたのだ。
「おのれ、おのれえっ!」
浪人の血を吐くような叫びに怯えて、武士らは一人残らず逃げ出した。
たった一人の浪人に怯えて、腰の刀に手をかける事もなく逃げ出したのだ。
柳生の剣を学んでいる三代将軍が見ていたら、武士らに士道不覚悟と切腹を命じていただろう。
それほどに呆気にとられるような武士達の逃走ぶりであった。普段は町民相手に偉そうにしていながら、いざとなれば逃げ出すとは。
だが逃走した彼らのおかげで、町民も武士に対して抵抗する気概を持つ事ができる。
「いかん」
七郎は床几から腰を浮かせた。刀を抜いた浪人は興奮して通りで叫んでいる。行き交う通行人も逃げ出したり、悲鳴を上げる女性もいる。
ましてや幼子の手を引く婦人もいた。
「ぬう、待てい!」
七郎は床几から立ち上がり、小走りに駆けて浪人へ近づいた。
動きは疾風の如しだが彼の心には迷いがあった。浪人をどうするのか、その答えを刹那の間に見出せなかった。七郎は気を抜き過ぎていた。おりんとおまつへの思いが深すぎたか。
「黙れえ!」
振り返った浪人が刀を横に薙いだ。七郎は咄嗟に足を止めていたが、胸元を刃がかすめた。
七郎の着流しは胸元を横に斬り裂かれている。あと一歩、いや半歩踏みこんでいれば致命傷だったろう。
冷や汗を浮かべて七郎は素早く飛び退いた。振り返った浪人は七郎へと狙いを定めたようだった。
(危うし危うし)
七郎は本当に命拾いした思いだった。兵法の世界、いや勝負の世界とは一瞬で勝負が決まる。その感覚を七郎は忘れていた。
(未熟!)
と自分を罵る七郎。浪人との対決は始まっていた。
七郎が刃の外へ、浪人の右手側に回りこもうとすれば、相手もそれに合わせて動く。
江戸城にほど近い通りに七郎と浪人の殺気が満ちた。
通行人も足を止めて両者の対決に目を奪われていた。
死を覚悟した七郎の魂は無の境地に到り、それにつられて浪人の剣魂も研ぎ澄まされていく。
七郎は父又右衛門の言った言葉を思い出した。世には名人達人が掃いて捨てるほどいるのだと。
通りに満ちた不思議な静寂の中で、七郎と浪人だけが命ある存在であるかのように、互いに有利な立ち位置を探り合う。
そして、先に動いたのは七郎だった。
「は!」
気合と共に踏みこめば、七郎は右足で回し蹴りを放っていた。一瞬の隙を衝かれた浪人は、左腕に七郎の蹴りを受けてうめく。
そこへ七郎は右肩から浪人の胸元へぶち当たった。よろめきながら後退する浪人だが、刀は手放なさい。
浪人は叫んで刀を振り上げ踏みこんだ。
次の瞬間には浪人の体が宙を舞って、背中から大地に落ちていた。
七郎は浪人が刀を打ちこんだ瞬間、右膝をつき、左手で対手の右袖をつかんで引いたのだ。
左手と同時に左足も後方へ弧を描いていた。七郎は浪人の動きに合わせ、素早い体さばきで対手を後方へ引き落としたという事になる。
これは後世の柔道における浮落という技だ。二十一世紀では使い手のいない幻の秘技とされている。
この時代、少なくとも七郎が父から学んだ無刀取りの技の型にはない。
七郎が無心に放った技こそ、長い追求の道の始まりであった。
即ち無の境地、兵法とは平和の法なり。
その追求である。
「何が起きた……?」
七郎は呆然と浪人を見下ろしていた。背中から大地に落ちた浪人は泡を吹いて失神している。周囲の通行人も目を丸くして七郎を見ていた。
「ど、どうしたのよ、何があったの!」
茶屋の奥から出てきたおりんは、胸元を鮮血で赤く染めた七郎を見て、悲鳴を上げんばかりに驚いた。




