第十八回 虚無からの誘惑
それは夢か現か。
七郎は夜空に浮かぶ繭を見上げて、後ろ腰に差していた小太刀の刀柄へ手を伸ばす。
非現実的な、あるいは幻想的な光景を前にして、七郎は悟った事がある。新たな魔性が江戸に誕生したのだと。
繭が割れた。瓢箪に似た白い繭に穴が開き、中から現れたのは、背に羽を持つ女であった。
白い肌に白い髪、夜目にも鮮やかな七色の蝶のような羽、頭部に蠢く触角……
これは人と蝶の融合した魔性であるか。魔性は背の羽をはためかせて、七郎の前方に音もなく舞い降りた。
「……御免」
七郎は半眼になるや否や駆け出した。
疾風のような踏みこみだ。死を覚悟した七郎は無の境地に到っている。
左手で逆手に握った小太刀を横に薙ぐ。
振るわれた刃は魔性の首をはねたように見受けられたが、
「――ぬ?」
七郎は刃が空振りした事に僅かに動揺した。踏みこんだ勢いを殺さずに、半円を描いて後方に振り返る。
今、大地にあった魔性の姿は、いつの間にか宙に浮かび上がっている。
それにしても、
(美しい……)
それだけは七郎には確かであった。魔性の美しさは儚くも幻想的であった。背に羽もなく、頭部に触角もなければ、七郎とて色欲に敗北していたろう。
七郎を悪の誘惑から救ったのは、彼の信念であった。
即ち、兵法とは平和の法なり――
「マカロシャダ!」
七郎は叫んで小太刀を魔性へ投げつけた。口にしたのは、魔を降伏する不動明王の真言の一部だ。
小太刀は武家屋敷の塀に当たって、キリキリと宙へ舞い上がってから、落ちて大地に突き刺さった。
辺りには無限の闇と静寂が満ちている。その闇に佇む七郎に怯えの色はない。
あとは死ぬだけなのだ。全身全霊を振るうだけだ。それが七郎には満足となる。




