第十七回
夕刻、七郎と政は源のうどん屋にいた。一日の労働を終えた後は、たった一杯の酒が格別に美味いのだ。
「看板娘さんは?」
政は店内を見回した。すでに夕刻、薄暗い店内は行灯の明かりに照らされていた。
「もう帰ったよ。店じまいなんだぜ、当たり前だ」
「なんだ、ちくしょう。目の保養を求めに来たってのに」
源と政のやり取りを横目で眺めて七郎は苦笑する。確かに夕刻ともなれば店じまいだろう。便利な明かりもない時代だ、人々は暗くなればすぐに寝る。それが当たり前の生活であり時代であった。
だが夜の闇に蠢くものも確かにいる。
「最近は強盗も減ったな」
七郎は源が出した酒を飲みながら惣菜の皿に箸を伸ばした。売れ残った竹輪や野菜の天ぷらなどだが、それが極上に美味い。あくまで七郎の個人的意見だ。
「浪人自体が減りましたからね」
政も七郎の隣で飲み食いしていた。
「おかげで俺も武家屋敷で庭師ですよ。まあ庭師の仕事も嫌いじゃありやせんがね」
「最近の浪人は腹が空いてるのか気力がありやせんな」
「町民にも自衛を認めてるんだ、手強いと知れば簡単に押し入りもできん」
七郎は言った。幕府は町民に刃渡り二尺未満の小太刀の所持を認めていた。
小太刀も使い方次第では人間の手足を両断できる。そんなものを誰も彼もが所持していれば、押し入る側も簡単に事は運ばない。
以前は生活に困窮した浪人による押し入り強盗が目立った。失敗も多々あった。
だが今の押し入り強盗は知恵もあるし、力もある。
結束し、計画し、下見をし、覚悟を決めて押し入り強盗に働く彼らは手強い。ましてや女子どもまで斬殺するような者達もいる。
鬼畜に等しい者を相手に命を懸けるのが七郎や江戸城御庭番達だ。
更に國松もいる。染め物屋である風磨は風魔忍者の末裔達である。國松は大事あらば彼らを率いて動くのだ。
風磨は実戦部隊である。御庭番も命を懸けるが、彼らは最初から死ぬつもりで行動する。
幕府のために死ねという命令もある。國松ならばその命を下せる。國松は江戸の捨て石にならんとしている男だからだ。
「……野菜の天ぷらは店で揚げたのか」
七郎は天ぷらをかじりつつ源に尋ねた。
「いや、これは農家の婆ちゃんが売りにきたやつですよ」
「へえ、そうなのか。地味だが天ぷらが一番うめえかも」
源も政も酔ってきている。七郎も酔ってきている。野菜は大地の恵みだ。育てた農婦はきっと慈母観音に等しい魂だろう。
七郎は酒を飲みつつ考える。自分の立ち位置は何処なのかと。立ち位置とは生きる場所に他ならない。
源も政も、そして國松も幕府の側に立っている。七郎の父又右衛門、そして弟の又十郎と左門も幕府側だ。
おまつとおりんは江戸の町民の側に立っている。では七郎は何処に立っているのか?
幕府側か、町民側か。
また、江戸に集まった全国の大名、明日をも知れぬ浪人、江戸に元々住んでいる武士、寺院の者……と立場は山ほどある。
七郎は何処に立っているのか。彼は果たして何者か。七郎とは幼名であり仮の名だ。
真実の七郎は自身の立ち位置を何処と心得、何をするべきなのか。
七郎が酒を飲みつつ物思いに沈む間、源と政は店の残り物で大いに飲み食いした。
いつしか夜は更けた。
深夜、七郎は目を覚ました。源の店のお座敷に寝転がっていびきをかいていたらしい。
いつもの事だ、と七郎は苦笑する。源も政も多大な精神的苦痛の中で生きている。たまに酒を飲んで泥酔するのも仕方ない事だ。
七郎は店の外に出た。武家屋敷は、いや江戸全体が静まり返っているようだった。夜空を見上げれば美しい月……
ふと七郎は既視感を覚えた。以前もこのような事がなかったか。
夜の闇で出会うのは人ならざる魔性ではなかったか。
果たして七郎は新たな出会いを経た。夜闇の中、空中に浮かんでいるのは巨大な繭だった。




