第十六回 守るべきもの
「ふむふむ美女による高所渡りか」
七郎が聞いた話によれば、高所に張った綱の上を美女が長い竿を持って渡るという。
美女は着流し一枚の艶めかしい姿で、観客は下からその様子を眺めるらしい。
「ふむ…………」
七郎は腕組みして目を閉じた。軽い瞑想だ。七郎の意識は現世から離れた。
戦国の世ではいたるところに人の死体が転がっていたという。食べ物もなく、世にあふれていたのは暴力と死だと父の又右衛門は言っていた。師事した次郎右衛門もだ。
それが今は食べ物もあり、旅芸人一座の美女に胸を高鳴らせる事ができる…… 正に天下泰平の世だ。世は平和なのだ。
同時に七郎は島原の乱を思い出した。彼は幕府の隠密として島原にいた。島原の人々が信仰していたのは、聖母マリアと観音菩薩が融合した慈母観音であった。
慈母観音は命を守り、未来へつなぐ事を尊い教えとしていた。
「……そうだよな、そうでなければな」
七郎は瞑想から覚めた。彼が命がけで江戸を守るのは、島原で出会った少女のためでもある。
命を守る、未来へつなぐ。
それを命がけで実践する事で少女の魂は、いや島原の乱で死んだ人々は、少しずつ成仏していけるだろうと七郎は信じている……
「……何を考えてるの?」
おりんが茶と団子を運んできた。ここは七郎馴染みの茶屋の店先だ。
「難しい顔してさ」
「あ、いや、いろいろあってな」
「あんたって口を開かなければ二枚目なのにね」
「え、何だって」
「何でもなーい」
おりんは床几の上に、七郎の隣に茶と団子を乗せた盆を置いて戻っていった。
「うまいな……」
七郎は団子を食い、茶を飲み、左の隻眼で空を見上げた。青い空に白い雲。今日もお江戸は日本晴れだ。
「また来るんだよ」
茶屋の店主、老婆のおまつが七郎に声をかけた。
「ああ、生きて帰るさ」
七郎はおまつにそう言って床几から立ち上がった。茶代も床几に残している。
「あ、そうだ。旅芸人一座の講演を観に行かないかと、おりんに伝えてくれないか」
「そういう大事な事は自分で言うんだよ」
「むむむ」
これは一本取られた、と七郎は苦笑した。
「何の話?」
と、そこにおりんが戻ってきた。他の客に茶を運びつつ、七郎とおまつの話を盗み聞きしていたらしい。
「あ、いや、旅芸人一座のだな」
「……また変な蝋人形の見世物じゃないでしょうね」
おりんは頭一つ高い七郎の顔を、下からねめつけるように見上げた。彼女は以前、七郎と旅芸人一座の芸を観に出かけたが、講演は予定を早めて終了していた。
そして代わりに蝋人形展が開催されていたが、それが実に悪趣味であった。
江戸の郊外に現れる遊魔、血河童豚。
それは家畜を襲って血を吸うという、河童のように緑色の体色を持ち、外見は豚に似るという。
家畜の血を吸う河童のような、豚のような生物。という事で血河童豚と呼ばれているが、その蝋人形が忘れられぬくらい不気味であった。
「あたし今でも夢に見るからね!」
「す、すまん!」
「今度は本当に旅芸人なんでしょうね?」
おりんが腰に両手を当てて、じっと七郎を見据えた。その迫力に七郎は心胆が冷える心地がした。
端から見ているおまつが、袖元で口を隠してクスクス笑う。隻眼の厳つい七郎が、おりんのような小娘に、たじたじとなるとは。
男と女は永遠の形かもしれぬ。男と女の間に命と未来が、つまり人間が産まれるのだから。
七郎の使命はそれを守る事だ。そのために死すのだ。




