第十回 般若面
そして二人は見た。巨大な蜘蛛の巣の表面に蠢く黒い影を。背に八本の脚を生やした蜘蛛女を。
蜘蛛女は頭上の夜空から、二人の様子を伺っている。
「師匠!」
弟子の順三郎は師である剣術指南役に振り返った。が、その時には剣術指南役は走り去っていた。
順三郎は夜の中に消えていった剣術指南役の後ろ姿をただ呆然と見送った。剣においては藩士を指導する者であったが、実戦経験はなかった。また命を懸けて戦う勇気も持ち合わせてはいなかった。
順三郎は自身の信じていたものが、根底から崩れていくのを感じた。
師事した剣術指南役は明日からも普通に生活しているのだろうか。
魔性など噴飯物の噂話程度にとらえ、順三郎も吉原に出向くのを楽しみにしていたのは事実だ。
だが、まさか魔性を前にして師が早々と逃げ出すとは思わなかった。
何のための剣、何のための士道?
自分の魂の底まで震えるような衝撃に、順三郎の顔から血の気が引いた。
それでも順三郎は刀を抜いていた。その意地は大したものだ。
「おやおや、あんた刀が震えているよ。大丈夫かい」
蜘蛛女は、蜘蛛の巣の表面を下方へ移動していた。その蜘蛛女は順三郎の刀の先端が震えている事に気づいたようだ。
「う、う、うるさい!」
順三郎は必死に言葉を紡いだ。まだ若い順三郎は受けた衝撃から立ち直ってはいなかったが、本能的に自分の命を守るために死力を尽くしているのだ。
「食ってやるよ、頭からバリバリってね」
蜘蛛女の挑発、あるいは脅迫に順三郎は足までもがブルブル震えていた。もはや逃げる事もできない。刀を正眼に構えるのが、せめてもの抵抗だ。
「――やめておけ」
順三郎の背後の闇から野太い男の声がした。順三郎の硬直は解け、彼は背後に振り返った。蜘蛛女も突然現れた者に視線を向けた。
「ぎゃ、は、般若!」
順三郎は叫んだ。背後の闇に潜んでいたのは、黒塗りの般若面をかぶった黒装束の男だった。
「……ふふ、まあそうだな」
般若面の男は面の奥で笑った。
江戸の夜に般若面あり。
そんな噂が流れるようになったのは島原の乱を経た頃からだ。
江戸では浪人による押し込み強盗が多発していた。金を奪われるだけならまだしも、女子どもまで殺害する強盗殺人もあった。
そんな凶賊と斬り結ぶ謎の黒装束集団がいた。彼らによって命を救われた者は大勢いた。
その黒装束集団の中には、般若の面をつけた者がいた。腰に大小二刀を帯びていたが、無手にて刀を振り回す浪人を制していたという。
その鮮烈な印象ゆえに、密かに人々の噂になっていたのだ。
「また会ったな」
般若面は蜘蛛女へ気さくに声をかけた。




