不完全な天才と、殺人鬼と、隣人と
電車に乗って三十分ほどで俺が住むアパートの最寄り駅には到着した。乗り換えを一度したとはいえ、バイクでかなり遠くまで連れて行かれたと思っていた俺にとってはかなり運が良かったことだった。最寄駅から歩いて五分程度の場所にアパートはあり、車が二台ほど停められるちょっとした広さの駐車場があるくらいでパッとはしない感じの錆びれたボロアパートだ。
部屋は一階に四つ、二階に四つ。俺の部屋は二階の一番左奥の部屋にあり、右奥にある今にも崩れるんじゃないかっていうくらいに塗装の禿げた見た目以上に丈夫な階段を登って一番歩かなければならないのだけれど、最も落ち着く部屋でもあるお気に入りの場所だ。
「ただいま。まあ、狭くて何もない家だけど寛ぎなよ」
「お邪魔しまーす! へえ、ここがヒト兄の部屋かー」
部屋の奥に行くとすぐリビングになっていて、天井に取りつけらた電灯の紐をカチャリと引っ張ってやると白熱灯がザザーッと音を立てて部屋の中を照らし出す。
自室でもあるこの一間のリビングは非常に手狭だ。
一歩歩けばギシりと音を立てるフローリング、IHなんて高度なものは搭載していない、そもそも物置と化している奥側のキッチンのコンロ台、手を付けていない流し台、後はちゃぶ台が一つに敷布団が一つ、これらは昼と夜に交互にリビングの真ん中を占拠することになる。今日はちゃぶ台を片付けて行かなかったので、まだ部屋の中央をドンと陣取っている。
「ヒト兄、物を置かな過ぎじゃない? 本当にここで生活してるの?」
「してるよ。と言っても、冷蔵庫なんてないからお茶は棚の中にそのまま入ってるし、大体はキッチンの隅にあるポットでお湯を沸かしてカップ麺か、レトルト食品か、あるいは近くのコンビニで弁当を買って来るくらいで済ましてるよ。家で食事をあまり摂らないから食器とかは最低限しかないけどね。寝具と筆記用具、それから着替えの服くらいがあれば充分じゃないかなって思うんだけどね」
「娯楽とかは? 本とか、ゲーム機とか、テレビとか。現代人は割と文明的なものを好むって聞くけれど?」
「悪いけど、そういうのは一切置いていない。読みたい本があれば図書館で読めばいいし、一回読んだ内容は大体覚えてるから読み直さない。ゲームもあんまり好きじゃないし、テレビも置いてないからニュースとかアニメとかドラマとかも見ないし。偶に、スマホでニュースを検索するか、動画サイトを漁るかするけど、あんまり壺に入るのも見つからないし。そう言えば、人士ちゃんはスマホを持ってるんだね? どうやって手に入れたの?」
「どうって言われても、普通に携帯ショップで買って、安いプランで契約済ませたよ? だって、現代でスマホないって不便だしー」
「それって、自分を襲ったっていう人から謝礼金を?」
「うん。一回、とんでもないお金持ちの人に襲われたことがあったから、三十万くらい一気に貰っちゃって。そのときにね」
「人士ちゃん、本当に通り魔なんだよね? スリとかじゃないんだよね?」
「私、冗談みたいなことはしない主義なの。私を狙った人には容赦しない、ちゃんと懲らしめて謝礼を貰ってからサクッとね。証拠は残さないし。というか、そもそも調べても私の証拠なんて出て来やしないよ」
「どうして、そう言い切れるの? 犯罪特区じゃなければ、防犯カメラもあるだろうし、人目だってあるはずなのに」
「だって、私は才能ありきで通り魔やってるんだよ? まさか、自分の姿を無防備に晒して犯罪をすると思う?」
すると、彼女は突然上着と下着を脱いで生まれたままの姿になった。
要するに真っ裸だ。白い絹のような繊細な肌で、首筋から背中、足元にかけて滑らかな曲線を描いている。上から見たらそうでもなかったけど、胸も意外とあって着痩せするタイプらしいことが分かった。
「いきなり、どうしたんだ?」
「あれ、私の裸体を見て興奮したりしないんだ?」
「年下の女の子に欲情したりはしないよ。俺のタイプはそもそも年上だし」
「年上なら欲情するの?」
「しない」
「本当かなー? じゃあ、試してみようか」
悪戯っぽく笑うと、彼女目を閉じて天を仰ぐように体を広げると……。
徐々に身長が伸び、胸ももう少し大きくなって、徐々に髪色が金髪に、目は碧眼へと変色したではないか。
え、何だ? これはどういうことだろうか……。
「えっと、待って。その姿は……。神鬼さん?」
「どうだ? 驚いたか?」
「声まで……。一体、どうなってるんだ? 人士ちゃんの体は……」
「私は他人の姿に化けられる。一度、直接この目で見た相手なら誰にでも変身できる。ただし、映像とか写真は駄目だ。ちゃんとこの目で見て、尚且つ覚えてないといけねえ。それに、変装するっていうのは意外と大変なんだぞ? 何せ、その人物をよく知ってないといけないからな。コピーできるのは容姿と声くらいで、頭の中まで全部ってわけにはいかねえからな」
「つまり、そうやって他人になり替わることで罪を逃れてきたの?」
「安心しな。別に堅気の人間に化けたりはしねえよ。連続殺人犯とか、強盗事件を引き起こしている野郎に化けて一つか二つくらい罪を上乗せしてやるくらいだ。因みに、私の元の容姿である十七歳の銀髪カワイ子ちゃんはオリジナルだからな。そこ、間違えんなよ?」
彼女はニッとシニカルな笑みを浮かべると、すぐに元の銀髪十七歳の日本人体型に戻った。
というか、神鬼さんの真似は意外と上手かったな。公園の影から見ていたって言ってたし、そのときに人間観察をしたんだろうな。
「これで分かった? どうして、私が全然捕まらないままに過ごせて来れたのか」
「ああ、とてもよく分かった」
彼女は服を着直してその場に胡坐をかいて座ったので、俺もちゃぶ台を介して胡坐で座る。
「だからって人殺しが許容されるわけじゃないけどね」
「バレなきゃ犯罪じゃないってどっかのネタでやってなかった?」
「駄目に決まってるだろ。生きるために必要だったとはいえ、もうやるな」
「じゃあ、私を雇ってくれる? 養ってくれるなら、別にやる必要はないし」
「……」
結局、彼女が人を殺して回っていたのは生活するためであり、自分の身を守るためでもあったわけだ。無差別に人を殺さないっていうのは本当みたいだし、そもそも他人を殺すような環境に身を置いてしまっていたのがいけないわけで。
俺が傍にいれば彼女をある程度は危険から守れるし、彼女だって俺がいれば無暗な人殺しはしないだろうし。お互いにとってウィンウィンな関係を築けるのかもしれない。
「分かったよ。さっきの攻防を見て、人士ちゃんはボディーガードには適任みたいだし、人士ちゃんも真っ当な生活ができるしで良い関係が築けそうだし。雇うよ」
「やった! よろしくね、ヒト兄!」
この巻き込まれ体質のせいなのかは知らないけれど、結果的に変な主従関係を構築する流れになってしまった。
人間、生きてれば何が起こるか分からないものだ。本当に小説みたいな急展開でビックリしていますよ、神鬼さん。
「それで? 雇ったはいいけど、ここに住むつもりか?」
「そのつもりでいるけど、駄目なのかな?」
「駄目とは言わないけど、結婚前の男女が寝食を共にするのは良い事なのか? 一応、俺も男なんだけど……」
「ヒト兄は心配性だなあ、もう! 私、やましいことなんてしないし、ヒト兄もそんなことしないでしょ? あ、でもヒト兄になら生殖行為を求められても応じていいよ?」
「やっぱり追い出そうか、俺の安全のために」
「冗談、冗談だよ! だから、そんな怖い顔しないで?」
……はあ。何だか今日は一段と疲れたような気がする。いつもはもう少し気楽なはずなんだけれど、やっぱりバイクで拉致された辺りからだよな。色々とあったせいで心身ともに疲れが溜まっているようだ。
「今日はもう疲れたから寝るよ。人士ちゃん、俺が使っていた布団でよければ使って。俺はその辺で寝るから」
「ヒト兄、そんな私に気を遣わなくても。私が廊下とかで寝ればいいんじゃないのかな?」
「流石に、俺はそこまで外道じゃないし、女の子に気苦労させるような人間でありたくはないと思うんだ。だから、人士ちゃんがちゃんと布団で寝て欲しい。そのうち、新しい布団でも仕入れておくから」
俺は言いながらちゃぶ台を片して、代わりに敷布団と掛布団をセットした。寝る準備は整ったし、後は人士ちゃんがここで寝てくれれば解決するっと。
「じゃあ、俺はその辺で寝るから。おやすみ」
「ヒト兄……。やっぱり、それは駄目だよ。ちゃんと布団に入らないと」
人士ちゃんが俺の手を掴むと俺のことを強引に押し倒すと同時に掛布団をばさりと捲って俺に覆い被せた。
「いや、別にいいって。俺はその辺で……」
「強情だなあ、ヒト兄は。ともかく、ほら。しっかりと布団を被って横になる」
「は、はい……」
あまりの強引さでつい従ってしまい、やむを得ず掛布団を被り直して横になった。人士ちゃんは電気を消すと、俺の足元からにゅるりと布団の中に入りこみ、俺の隣からひょっこりと顔を出してきた。
「人士ちゃん、これはどういうつもりかな?」
「一つしか布団がないなら、二人でシェアするしかないでしょ? 何もしないから大丈夫。ちょっとだけ、ギュッとしたいけど」
人士ちゃんがぎゅっとコアラみたいに抱き着いて来た。子供みたいに、というか普通に十七歳の子どもだけど。
この年頃だと高校生くらいだし、そろそろ親離れが始まるくらいの頃だとは思うけれど……。
「人士ちゃん、本当にどうしたの? 甘えたがりな子供みたいに」
「甘えたがりなんだよ、本当に。私、五年前に集落を追い出される前から厄介者扱いだったし。両親とか、兄弟に甘えた事もなかったから」
「ふうん? 人士ちゃん、兄弟居るんだ?」
「えっと、双子の兄と弟が二人かな。兄は格闘家で、上の弟は勉強家、下の弟は音楽家なんだ。両親は二人ともお偉いさんとか貴族さんのSPをやっていて普段は家に居ないの」
「じゃあ、ずっと家族四人で暮らしてたってこと?」
「うん、そうだよ。私たち鬼神一族はね、集落の中で皆同じ苗字の親戚の集まりなの。それぞれの家系で、誰かに尽くすために色々な技術や才能を磨いて集落を巣立っていく。そうして、一族に貢献するんだよ。中でも私たちの家は皆、才能豊かだったなー。格闘家の兄は十歳で既に一族の中で一番強くて、優秀なガードマンになれるって言われてたし。上の弟は勉強ができるから家庭教師とか、あるいは政治家の補佐でもどこでもやっていけるって期待されてたし、下の弟も音楽家として万人の心を癒せるってちやほやされてたよ。でも、私は違ったよ。だって、人を傷つけることに特化した才能だから、主に仕えても殺っちゃいかねないって言われてた。そもそも、人を殺すこと自体を普通だと思ってることが異常だってさ。それに、今の世の中、相手を消しちゃうのって倫理的にアウトだし。映画の中じゃないから、そう都合よく事実を消すこともできないし。まあ、探せばもしかしたら暗殺組織みたいなのもあったかもしれないけれど、そういう伝手もあったわけじゃないし。というか、そんな伝手を当たる前に集落を追い出されてるし」
「結局、集落を追い出されたのは人士ちゃんの才能のせいなのかな?」
「そうだよ。だって、私はやっちゃいけない同族殺しをしちゃったし」
「同族殺し……」
「うん。これ、誰かに話すの初めてだなー。私、皆から凄い言われてたんだ。お前は変だ、駄目な奴だって。兄弟からもねー。私は皆の事を尊敬していたけど、皆は私のことを蔑んでいたよ。それでね、集落のある一族の人が「お前は一族のために体で貢献しろ」って襲おうとしたから殺しちゃったんだー。そうしたら、もう皆お冠になってさー。追い出されたよ。元々、忌み嫌われてたんだけど、完全に縁が切れたって感じ」
思った以上に話が重かった。通り魔で、最初はとんでもない極悪な殺人鬼だと思っていたのに、蓋を開けてみればそうならざるを得ない感じの過去があったとは。人に歴史あり、とはよく言ったものだ。
「なら、俺と雇用関係を結んだなら、もう普通に人として生活できるんじゃないのか? お金だって貰えるし、人を殺すような生活ともお別れできると思うんだけど」
「無理だよ、それは。だって、私は人を殺めることを何とも思ってないし、今でもなお人を殺すことを禁じるヒト兄に疑問を抱かないでもないもん。ヒト兄が雇ってくれたから人の輪の中に何となく嵌れそうなだけで、解雇でもされたらまた人を殺めて生きていくことになる。私はヒト兄が一緒だから普通の生活をしているように偽装できそうなだけで、ヒト兄の存在が私の首輪みたいになってくれそうなだけで、居なくなったらただの殺人鬼だよ。だからさ……」
彼女はぎゅっと俺の体を抱く腕に力を込めた。
「どこにも行かないで。私と一緒にいてね? ヒト兄」
甘えるような声。彼女はずっと、仲間から除け者にされて、世界からも除け者にされて生きて来たのだろう。彼女の才能が、性分が、普通に生きるという選択肢を選べないように邪魔しているのだ。
そんなとき、自分を見ても怖がらず、むしろ普通なくらい普通に接してしまった俺に懐いてしまうのは仕方ないことだったのかもしれない。
元はと言えば、俺が彼女の提案を安請け合いしてしまったこと自体が原因でもあるし、全てセットだったと思えば気も楽だろう。
「……仕方ないなあ」
「いいの?」
「いいよ、別に。人士ちゃんの面倒は俺がちゃんと見る。というか、それしか選択しないし」
「もー、幼気な乙女が自分の過去まで晒してるのに、もっと優しい言葉をかけてよー」
「出会ったのもつい数時間前で、雇用関係を結んだのは数分前。もっと長い付き合いならともかく、あったばかりの人間に必要以上に感情移入する方が難しいよ」
「そうかもしれないけどさー、出会って数時間でも吸血鬼を一緒に退いた戦友みたいなものでしょ? ほら、そういうのって時間に関係なく距離が縮むものじゃん!」
「どこのドラマか、はたまた小説を読んだかは知らないけれど、現実は小説ほど上手く話が進んでいくとも限らないんだよ。これも雇用の内だと思って面倒見てあげる」
「ちぇー、ビジネスライクな関係なんだー、ふーん。まあ、いいけど。私はヒト兄と一緒に居られて幸せだし、ヒト兄は私に守ってもらえて幸せだしね」
あれ、おかしいなあ。最初は確か、吸血鬼事件の犯人を一緒に協力して捕まえてほしいっていう見返りでボディーガードを申し出たはずなのに、紆余曲折あった結果、人士ちゃんの報酬が吸血鬼事件解決から人士ちゃんと一緒にいることにすり替わっているような……。
まあ、いいか。彼女にとってボディーガード自体が俺と一緒にいる事と同義みたいだし、彼女だって通り魔として捜索されている身ではある。幾ら姿形を自在に変えられると言っても、殺人鬼として生きていたらいつかは捕まるかもしれないし、指名手配されてる通り魔に変わりはないわけだ。
……いや、でも待てよ。通り魔であるはずの彼女は指名手配以前に正体がバレる心配はないわけだから、むしろ主従関係を結ぶ方こそが本命だったんじゃ……。
「ねえ、人士ちゃん。もしかしてだけど、吸血鬼事件解決っていうのはこの関係性を築く上での口実だったんじゃ……」
「何のことか、人士ちゃん分からないなー。そもそも、ちゃんと思い出してみてよー、私との会話を。私はね、協力関係になろうって言ったんだよ?」
「だから、それは吸血鬼事件を解決する間の協力関係ってことで……」
「誰かそんなこと言ったかにゃー? それに、協力関係を切ったらお兄さんは私の秘密を知ったんだから、サクッとしちゃうよ? 分かったら、大人しく末永く一緒にいようねー」
「……」
話の流れから当然、そうだろうと思い込んでいたけれど、肝心な会話の場面では確かに協力関係になろうとしか言われていない。
つまり、この取り引きの最大のトラップは、俺が彼女の取り引きに応じた時点で交換条件ではなくなっていたことだった。
俺に対して絶対に危害を加えないという言質は貰っているのが唯一の救いなのかもしれないけれどね。
今の会話だって、こうして俺の家に来ることで誰かに盗み聞かれる心配性を排除した上で秘密を明かし、後戻りできないように誘い込む罠だったというわけで……。
彼女の方が一枚、いや二枚は上手だったというわけだ。
俺の出会った殺人鬼は確かに鬼のような心を持っていたが、その実、誰よりも人恋しく悪知恵の働く、ちょっと悪戯っ子なただの乙女だったみたいだ。
ただ、彼女に宿った殺人鬼としての気質が取り除かれたわけではなく、とりわけ、俺の中では鬼のような人の心を持った殺人鬼という位置づけになったのだった。
次に起きた時、日の当たらないこの部屋では太陽を浴びて気持ち良く目覚めることは叶わず、体に感じる息苦しさと暑苦しさで目を覚ますことになった。
あれら吸血鬼事件も、美少女殺人鬼に出会ったことも全部が全部、夢だったんじゃないかと少しだけ期待わけだが、隣で寝ている人士ちゃんを見て全て現実であることを自覚した。
「……起きますか」
そのまま寝てしまったので、服装も何もかも全部昨日のままだった。
ポケットからスマホを取り出して時刻を確認したら、いつも通りちゃんと七時に起床することができていた。
良かった、非日常に巻き込まれても、ちゃんと日常のルーティンを崩さない自分にちょっと感動した。
まだすやすやと安らかな寝息を立てて寝ている彼女は、通り魔事件の犯人さんだ。こうして見れば、ただ普通に寝ているだけの美少女だっていうのにね。
そう言えば、彼女が起こした通り魔事件については何も聞いていなかったか。本人に聞いたら素直に教えてくれそうなものではあるけれど、こっちでも少しだけ調べてみるか。
スマホを操作して、犯罪特区に関わる事件をネットで検索してみた。
通り魔事件でヒットしたのは三件。
一件目はとある集合住宅における事件。そこでは刃物のようなもので遺体がズタズタにされた痕跡があったという。被害者は無職の四十代男性のもので、普段からあまり外に出ることはなかったと近隣住民は話しているが、その日は近くのコンビニに買い物へと出かけていたらしく、毎週決まった時間に決まった分の食料だけ買っていたという。
発見されたのは五月二十一日のことでかなり直近の話だった。
二件目の事件はあの鳳凰公園近くの通りでの殺害事件で、これもまた刃物による裂傷が見られたことから死因は出血多量とされている。これは最初の吸血鬼事件発覚から一日後の事件であり、死亡したのは近くに住む二十代の女性のもの。
独身で、交友関係はそこまで広くなく、やはり家で活動することが多かったという。どうやら無名ではあったものの、現役の小説家だったらしく、あまり外に出る機会がなかたったためと思われる。
そして、どちらの方にも共通していたのが遺体の右首筋にあった二つの注射器で刺したような痕があったということだ。
何故、警察が通り魔事件と関連付けたのか疑問だったが、どうやら同じような傷跡が残されていたことが根拠になったようだ。
最初の事件はただの通り魔事件で、次は全身の血が抜かれた吸血鬼事件、二件目の吸血鬼事件が起きた後に二件目の通り魔事件が起き、最後に第三の吸血鬼事件が起きたようだ。
元々、この二つの事件は別のものだと考えられていたようだが、血を抜かれたかどうかも、殺し方が違うのも然程問題ではなく、ただ共通項が一つ存在していただけで全てを連続通り魔事件と警察は推測しているわけだ。
けれど、神鬼さんは一度たりともそんなことは言わなかった。
いや、あの人のことだからこの二つの事件が別の犯人であることを既に見抜いていたのかもしれない。
この二つは似ているが明らかに手口が異なっているし、神鬼さんが追っているのはあくまでも吸血鬼事件の方だ。
全身の血が抜かれた謎を解決できなくて、証拠が出なくて、だから彼女は派遣されたのであって、通り魔事件の方は人士ちゃんが犯人なのだから俺が告発しない限りは真相は闇の中か。
通り魔というワードを打って出てきたのは三つ、残りの一つはと言えば、ちょっとした最近の出来事に関する記事だった。
ここ数年、東京都内に現れ始めた通り魔の数々。彼か、あるいは彼女はビルや建物内、公園、大通り、裏路地と至る所に出現しては時期も場所も不確定なままに多くの人間を殺害しているようだ。
全員、ナイフによって喉元を一撃で描き切られて死亡しているわけだが、犯人は男、女、老人、果ては子供まで多種多様だ。様々な人が捕まっているわけだが、いずれも証言として「自分はやってない」と報道されているそうで、実に不可解な事件として警察も手を焼いているらしい。
犯人の共通点は、現在進行形で殺人や強盗、窃盗といった犯罪行為に及んでいる人たちなのだが、何故か最後は必ず証拠を残す形で通り魔殺人をして逮捕されている。
今回、犯罪特区で起きた通り魔の事件に関して、果ては吸血鬼の事件に至ってもここ数年で起きている事件との関連性がないか調査されているようだ。
ここ数年の通り魔事件は間違いなく人士ちゃんの仕業だろう。
姿を変え、声を変え、何者かに成り代わって犯行を行っている。恐らく、犯罪者を成り代わる対象に選んでいるのは周囲から通り魔を装った事件だと怪しまれないようにするためだ。
矛先がちゃんと成り代わった対象に向くように印象操作をしている。現行で犯罪を犯している人間なら、人殺しだってやりかねないという心理を利用してのものだろう。
だけど、この犯罪特区で起きた事件はどれも裂傷や血抜き、毒物と全て彼女の犯行形態から外れたものだ。
彼女は殺しに対して一種の流儀やプライドを持っている人間だ、そう簡単に犯行の手口を変えるとは思えないし、そもそも、変える必要性なんてどこにもない。
つまり、人士ちゃんはこの事件には無関係……?
「……分からないな」
本人に聞いてみるのが一番早いか、起きたらちゃんと問いただしてみよう。
そう言えば、昨日は注射器とナイフを回収したんだっけ。人士ちゃん、ナイフはどこにしまったのかな?
「……ん? おはよう、ヒト兄」
「おはよう、人士ちゃん。昨日、ナイフを回収したでしょ? ちょっと調べたいんだけど、出してくれないかな?」
「いいよー、はい」
彼女は刃先が振れないように持ち手の部分にスペースを開けて摘まむように持つと、それを俺に渡してくれた。
昨日に持ち帰った二つの証拠品。注射器は何の変哲もないもので、中には透明な薬品が入っている。
俺は薬品鑑定ができるような道具もなければ、専門知識が豊富なわけでもない。これは神鬼さんに渡すのがいいだろう。もう一つ、ナイフの方だが……。
「これは……」
「何か見つけたの? ヒト兄」
「ああ、ここを見てみろ」
ナイフの柄の側面にT.Hという印字が彫ってあった。どうやら所有者の名前を表わすものか、あるいは会社のロゴを表わすものか。それは分からないけどね。
「それでさ、この証拠品はどうするの? 『超越者』の人に渡しちゃう?」
「そうしたいのは山々だけれどね。もしもこれを見せたら、昨日の夜に公園に行ったことが神鬼さんにバレる」
「そうすると、どうなるの?」
「俺が地面の染みになる」
「全然笑えないことだった! そう言えば、命がどうとか話してたような気もするね。ヒト兄が死んじゃうのは困るし、じゃあ暫くは隠しておく感じかな?」
「それが良いと思う。命大事にっていうのが神鬼さんの方針だし、別に方針に違反してるわけじゃないよね」
「それは頓智っていうか、こじつけみたいな気がするんだよ」
「それを人士ちゃんが言うか」
「あははー、だよねー」
人士ちゃんは「あはは」と何も知らない風に笑っている。
変に頭が回る方が厄介だな。こう、頭が良い人ほど思考を読みやすいけど、馬鹿と言うか阿呆は考えが読みにくい上、阿呆を演じている頭の回る人間はこっちは思考が読めないのに向こうは読み放題で相手にするのは非常にきつい。
「ともかく、今日にでも第三の事件を調査すれば真相も分かるだろう。俺は大学の講義があるから一度、大学まで行かなかやいけないけどね。人士ちゃんはどうする?」
「無論、私も大学に行く!」
「駄目に決まってるでしょ」
「どうして!? 私たち、ずっと一緒って言ったじゃんかー!」
「そうは言っても、大学の中に部外者を入れるわけには行かないでしょ。それとも、一緒に講義を受けてみる? 難しくて頭の中が爆発するかもしれないけれど」
「爆発なんて大袈裟な! そんなことないって、絶対! 大人しくしてる! だから一人にしないで、お願いだよー!」
人士ちゃんが俺の体に泣きながら縋りついてきたので、流石に引き剥がそうとして彼女の肩に手をやって押しのけようとするが、腕の力の方が強くて全然離れようとしない。このままだと歩けないし、女の子には泣かれると凄い厄介なのはもう知ってるからね。
「分かった、分かったから離れてくれ。連れて行く」
「本当!?」
「ただし、大人しくしていること。絶対に騒ぎを起こさないこと。怪しまれないように、大学の見学希望者ってことで連れて行くからな」
「わーい! ありがとう、ヒト兄!」
この娘、泣いて笑えば何でもまかり通るなんて思ってないだろうか。このまま甘やかしても良いことなんてないだろう。主に、俺にとってだけどね。それに関しては、また後になって考えればいいかな。
そのときだ。ピンポーンという甲高いチャイムの音が鳴り響いた。
この時間になると来るチャイムと言えば、もう一人しか犯人はいない。推理するまでもなく、一人暮らしの大学生の部屋を訪れるのは彼女だけだ。
「誰?」
「隣人だよ。はーい、今開けるよ」
玄関へと赴いてドアをゆっくりと開けると、そこには身長150cmくらいの黒髪で短髪の白いワンピースの少女が一人立っていた。手には大きな鍋を携えて、今日も懲りずに朝食を持って来てくれたらしい。
「おはようございます、お兄ちゃん。今朝はもう朝食はお食べになられましたか?」
「いいや、まだだよ。というか、別に食べるつもりもなくってさ。適当にゴロゴロしてから大学に行こうかなって思ってたくらいだ」
「もう、お兄ちゃんは眼を離すとすぐこうなります。駄目でしょう? ちゃんと朝は食べないとってあれほど言ってるじゃないですか!」
「そんなことを言われても、俺は朝はあまり食べたくないっていつも言ってないかな?」
「朝ほど、しっかり食べなきゃいけないんです! 栄養がちゃんと摂れるのも朝ですし、お兄ちゃんはきっと夜になってもコンビニ弁当かカップ麺で済ませるでしょう?」
「それはそうかもしれないけどさ。それと君とは関係ないはずだよね、狂花ちゃん」
不知火狂花、十四歳。彼女は既に父親を亡くしているが、母親の方は近くのマンションに健在で、もう一人、彼女の姉に当たる人がそこに住んでいる。
彼女が別居している理由は詳しくは知らないが、知る必要もないはずだ。
あくまで俺は狂花ちゃんの隣人であり、それ以上でも、それ以下でもないはずだからだ。
彼女が俺に世話を焼くようになったのはつい一月ほど前、こちらに越してきてから三ヶ月ほどが経った頃だったろうか。彼女の失くし物を一緒に探してあげたお礼に食事を御馳走してくれるって言うから家にあげたら、カップ麺とコンビニ弁当がたくさん詰まったゴミ袋を目にしていつも何を食べているのか問い詰められてからというもの、せめて朝食だけでもと言われてほぼ毎日のように持って来てくれるわけである。
「関係あります! 私の隣人ともあろう人が栄養失調で倒れたとか、病気でぽっくり逝かれたら困るんですよ! この間なんて三日も飲まず食わずして死にかけてたこともありましたよね!?」
「うっかり食事を摂るのをわすれちゃってただけで、大したことは……」
「大したことなくないですよ! 私の発見がもう少し遅かったら、本当に死んじゃってたかもしれないんですよ!? もっと自分の命にっていうのを大事にしてください!」
「……」
物凄く耳が痛い事を言われているようだ。最近、ごく最近に同じようなことを人類を超越した誰かさんに、もっと言うと絶賛助手をやらされていて昨日の夜の出来事がバレたら即座に殺しに来るだろう誰かさんに言われたような気がする。
「分かったよ。最近は命大事にをモットーに生きているんだ。ありがたく、朝食は頂戴するとするよ」
「やけに素直ですね、お兄ちゃんにしては。まあ、いいですけど。じゃあ、ちょっとお邪魔しますね」
「ああ、どうぞあがって……」
あ、いや待てよ。今、中には人士ちゃんがいるんだった。彼女と一緒にいるのを見られたら女を連れ込んだとか思われかねないのでは……。
「ちょ、ちょっと待って狂花ちゃん。今は……」
遅かった。玄関へと踏み込んだ彼女の視線は完全に人士ちゃんの姿を捉えていた。彼女は腕をプルプルと震わせながら鍋蓋と容器をガタガタと言わせていた。
「お兄ちゃん、ちょっとこれ運んでおいてください」
「あ、うん……」
彼女はふらついた足取りで玄関から消えて、隣の部屋のドアの開閉音がした。自分の部屋へとどうやら引き返したらしい。
鍋を持ってリビングに行くと、既に布団は片されていて代わりにちゃぶ台が部屋の真ん中を占拠する形で置かれていた。
「人士ちゃん、片してくれたんだ。ありがとう」
「いやいや、居候の身だからね。出来ることくらいはしないとだよね。さっきの子、可愛かったね。誰?」
「あの子が昨日に話していた世話焼きさんだよ。朝食を作って持って来てくれる」
「ああ、あの子がね。これからお世話になるかもだし、ちゃんと挨拶くらいはしておいた方がいいかなって思ったんだけどさー……。あの子、どこ行っちゃったの?」
「自分の部屋に戻ったみたいだよ。うちは食器がないし、たぶん取りに行ってくれたんじゃないかな? あ、噂をすれば戻って来た……」
狂花ちゃんは戻ってきた。両手に俺と、自分と、人士ちゃんの三人分。そして、腰には少女には少し大き過ぎるんじゃないかっていうくらいの大きな刀が携えられていた。
「ねえ、あれは何?」
「さ、さあ……。俺の方が聞きたいくらいなんだけど……」
「お兄ちゃん」
「は、はい」
彼女は律義に玄関先で靴を揃えてから小さな体で食器を抱えてこちらまでやってくると、ちゃぶ台の上にどすんと置いて、そのまま視線を人士ちゃんへと移した。
「この人、誰? 私、こんな可愛らしい彼女さんがいるなんて聞いてないですよ?」
「いや、彼女ってわけじゃなくて……。その子はね、俺のボディーガードをしてくれることになった人だよ。何かと危険な世の中だし、一人くらいは欲しいなって思ってたところに申し出てくれたんだよ」
「ボディーガード……?」
通り魔であるはずの人士ちゃんが三歳下の女の子に怯んでいる?
こっちからじゃあ、狂花ちゃんがどんな顔してるか分からないけど、明らかに普通じゃない状態なのは間違いない。
動揺を隠しきれていない人士ちゃんは、顔を引きつらせながらも笑顔を作った。
「は、初めまして……。私は鬼神人士。えっと、ヒト兄のボディーガードになりました。よろしくね」
「鬼神? ああ、あの人に寄生して生きている異端の一族ですか。こんなところで巡り合えるなんて、思ってもみませんでしたよ」
「君、鬼神一族を知っているの?」
「ええ、とてもよく。私の父がよくお世話になったと母から聞いています。私の父を闇に葬った一族と、ね」
怖気、嫌な予感が自分の背中を走った。気付いた時にはもう一歩を踏み出していたが、俺が声を上げるよりも狂花ちゃんが刀を抜く方が速く、それよりも人士ちゃんがナイフを構える方が速かった。
大太刀を一本の折り畳み式ナイフが受け止めた。てっきり、ナイフの方が折れて人士ちゃんの首が飛ぶ方が先かと思ったのだが、ナイフに最も負担が少なく、かつ安定して刀を止められる位置で見事な拮抗状態を作り出すことに成功していた。
「狂花ちゃん、辞めるんだ。その人は俺の命の恩人でもあり、今は雇用関係にある。勝手に殺して貰っちゃ困るし、狂花ちゃんに人殺しになってほしくないよ」
「……戯れが過ぎましたか。すみません、鬼神人士さん。私の父を殺したのは確かに鬼神一族の者ですが、その行いとあなたの存在は無関係のものですよね。つい、頭に血が昇ってしまいました。腹を斬って詫びよというのなら、そのように致します」
「別にいいよ。ここを血で汚すわけにはいかないし、ヒト兄からは人殺しはNGって命令だからね。もちろん、君が腹を斬る必要性もない。水に流すよ」
「……ですか」
狂花ちゃんはゆっくりと鞘に納める金属音を静かに立てながら刀を収めてくれた。本当、その抜刀術は一体全体、どこの組織で磨き抜かれた技術なんでしょうね……。
狂花ちゃんが刀を仕舞ったのを確認すると、人士ちゃんも自分のナイフを袖口に隠した。
一触即発というか、もう一発やってしまってはいるけれど、緊張感自体は解けたようだ。
「ふう……。危なかったー、今のは流石に死ぬかと冷や冷やしたよ」
「私も仕留めるつもりで振るったのですが、修行が足りませんでしたね。私は不知火狂花と申します。よろしくお願い致します。鬼神人士さん」
「不知火、ね。多分だけどさ、君たちって暗殺一族で知られる不知火じゃないの?」
「よくご存じですね。私達のような国の日陰者たちのことを知って頂けているとは思いもしなかったですよ」
俺もそんなこと微塵も知らなかったですよ。お隣さんの事情に介入しなさ過ぎたせいかな、狂花ちゃんのことは隣人さんで朝食を作ってくれるくらいにしか思ってなかった。
「こっちの業界じゃあ割と有名な方だとは思うけどねー。それから、不知火のお嬢ちゃん。私は鬼神っていう苗字は嫌いなんだ。だから、呼ぶときは下の名前でよろしくね」
「そうですか、人士さん。それでしたら、私のことも狂花とお呼びください。私は別に不知火の名をどうこう思ってはいませんが、お互いに下の名前で呼び合った方が対等でしょう?」
「いいよー、狂花ちゃん。これからよろしくねー」
取り敢えず二人は悪手をして、互いに友好的な関係を築くことにしてくれたらしい。
「まずは、ご飯を食べようか。せっかく狂花ちゃんが作ってきてくれたし」
「そうですね。よろしければ、人士さんもどうですか? 美味しいクリームシチューですよ」
「ありがたくいただくよ!」
人士ちゃんと狂花ちゃんが笑顔になったところで、三人で食卓を囲うことにした。物騒ではあるけれど、わざわざ戻るのも面倒だろうと思って刀は壁際に立てかけてある。
「さあ、皆さんどうぞ。召し上がってください」
「わあ、美味しそうだね~」
「そうだね、人士ちゃん」
狂花ちゃんが鍋からよそってくれたのは真っ白で具沢山のクリームシチューだ。中にはじゃがいもに人参、レタス、ウィンナーが入っていて、栄養バランスをちゃんと考えているようだ。ホカホカと湯気を出して香ばしいシチューの匂いを部屋の中にまき散らされると、流石に俺のお腹も堪え性もなく腹の虫を図々しく鳴らした。
「あはは、ヒト兄ったら食いしん坊さんだな~」
「いや、そんなつもりじゃ……」
「やっぱり、お腹空いてるじゃないですか。気付かないフリをするのは得意なんですから、無理をしていないのは本当なのでしょうけどね。体は正直者ですよ。ほら、食べてください」
「いただきます」
「じゃあ、私も! いただきまーす!」
銀色のスプーンを手に、俺はその乳白色の湖から雫を拾い上げて口の中に運んだ。甘さと適度にかけられた塩、胡椒の味が良いアクセントになっていて、かつ体の芯まで温まる。舌触りはとても円やかで、一緒に含んだ野菜や肉は噛むだけでほろほろと崩れてクリームと一緒に溶けてなくなってしまうみたいだ。
「美味しいよ、狂花ちゃん。いつもありがとうね」
「いいんですよ、私が好きでやっていることですから」
まるで高山に咲く一輪の花のような可憐さを振りまく笑顔で喜んでくれる。こんな言葉で喜んでくれるなら、褒め殺しにしてあげたいくらいだよ。やらないけどね。
「本当、羨ましい限りだよ! こんなにも美味しいご飯を毎朝、しかもタダで食べさせてもらえるなんてさ! お嫁さんにほしいくらいだよ!」
「そう言っていただけるのは嬉しいのですが、私は女の人を愛する趣味は持ち合わせておりません。人士さんのお嫁さんになるようなことはありませんので、ご安心ください」
何だろう、同じ笑顔なのに目にハイライトが無いだけでこんなにも印象が変わるものなのか。
今はただ冷ややかな表情にしか見えず、微かだけど殺気すら含んでるようにすら感じる。
「もー、狂花ちゃんも真に受けすぎだよ。ちょっとした冗談だってー、はは」
人士ちゃんは別に気にしていないようで笑って受け流している。
狂花ちゃんは子供で、人士ちゃんもまた子供だけど年齢的にはお姉さんだからね。年下の戯言くらいなら聞き流すくらいの器や分別はついているのだろう。
「あの、それでお兄ちゃん。その、さっきの暗殺一族っていうところなんですけど……。幻滅しましたか? 私たちの家系がその、人殺しの系列で……」
「いや、全然そんなことないよ」
不安そうに聞いているところ申し訳ないけれど、既にこっちは殺人鬼を身内として雇い入れてしまっている手前、幻滅する資格はないというか。
「そもそも、狂花ちゃんは別に人を殺したわけじゃないでしょう?」
「まあ、そうですけど。私は人を殺した経験はないです。ついさっき、一人を殺めてしまいそうにはなりましたが。そうなっていたら、お兄ちゃんはどうしていましたか?」
「警察に通報。これ一択しかない」
「お兄ちゃん、容赦ないね」
「容赦ないよ、俺は。もちろん、人士ちゃんもね」
「え、私も?」
「当たり前だ。ボディーガードと言っても、やり過ぎるのはNGだ」
「あはは、ですよねー……」
そもそも、こっちは自分の命を人質に契約をしている状態だから多めに見ているだけで、契約違反をするような人材は容赦なく警察に引き渡すに決まってる。
悪いけど、そこまで良心の皮が厚いわけじゃないからね。
「うん、でもお兄ちゃんはそれでいいと思います。私に容赦のないお兄ちゃん、悪くないかもです」
「それだと別の意味に聞こえるけどね。ともかく、どんな理由があろうと人を殺すのは駄目だ。俺は絶対に認めないから」
「どんな理由があってもですか?」
「どんな理由があっても」
「例え正当防衛だったとしても?」
「……駄目だよ。正当防衛だったとしても、人殺しは駄目だよ」
「一瞬迷ったね、ヒト兄」
「……」
この話題は人士ちゃんにも投げられたものだった。人は何故に人を殺してはならないのか。
殺人鬼に襲われても、学校で虐められたとしても、どれだけ憎いと思っている相手が目の前に居たとしても、俺は絶対に人殺しを許容することはないし、人士ちゃんのことも人殺しとして許容することはできない。
だがしかし、こうして殺人鬼を家に上げてもてなし、あまつさえ自分のボディーガードにしてしまっているのは許されることだろうか。
いや、本来なら許されないことなのだろう。
もちろん、彼女が犯罪を犯したという明確な証拠はないし、万が一の可能性で彼女がただの戯言を垂らしただけの一般人かもしれないが、俺は彼女の変身能力も、殺しの技術も目の当たりにしている手前、彼女はきっと過去に相当数の犯罪を行ってきているものだと今のところは思っている。
「ヒト兄が考えていること、何となく分かるよ。私のことを考えているでしょ。私という存在を許容しているから、迷ったのかな。それとも、狂花ちゃんに思い入れがあるのかな」
「……」
「でも、私を糾弾しても無駄だって、警察に突き出しても無駄だってもう気付いてるんでしょ? だから、丁度良い言い訳を探しているんだ。違うかな?」
証拠がない、訴えても意味がない、だから彼女を警察に引き渡さない。
いや、違う。本当は違うんだ。
証拠がない彼女を警察に引き渡せば人士ちゃんの信頼を一気に失い、彼女は俺を殺すだろう。
俺はそうやって殺されるのが嫌だから、彼女を人殺しだと糾弾したりはしないのだ。
その通りかもしれない。人士ちゃんの言う通り、俺は彼女という存在を許容している風に見せてしまっているこの状況を許せるような言い訳を探しているのかも。あるいは、見ないように蓋をしているのかもしれない。
「さっきから人士さんが何の話をしているのかは分かりかねますけど、人殺しを駄目だと言うのは別に変な事じゃないですよ。それに、止むを得ずに人を殺してしまうという状況は想定されますし、仕方ないと言う人もいれば、絶対に許さないと言う人が居てもおかしくないです。万が一、殺しを働いてしまった場合に正当性のある理由を探すのも、あるいは親しい人が人殺しをしてしまった場合に相手を擁護するために都合の良い理由を探すのもまた当然のこと。お兄ちゃんは別に責められるようなことはないと思いますよ?」
「別に責めたつもりはないんだけど……。ヒト兄は考え込む癖があるから痛い所を突くと面白いんだよ、反応が」
こいつ、この野郎とか思ってないよ本当に。
「そうですね……。お兄ちゃんが迷う意志があるということは、少なくとも自分の命を意識しているってことです。相手の命を意識しているということです。それは悪い事じゃないですし、命大事にっていうポリシーがあるっていうのも納得ですね」
「……」
どうだろうね、狂花ちゃん。人士ちゃんにも喋ったかもしれないけど、俺は命大事にって口にするほど自分の命をそこまで思っていないと自分は思ってる。
だから自分の命を賭けること自体は何とも思っていないし、きっと死ぬときは死ぬと高を括っている。
しかし、同時に巻き込まれ体質な手前、自分から余計な危険を呼び込みたくないと思っているし、死ぬと分かっている場所にわざわざ自分から飛び込むようなことはしない。
赤信号の横断歩道の目の前でビュンビュンと車が行き交っている中で渡らないように、ホームで電車がやって来る手前で自ら線路の中に飛び込まないように、殺人鬼が武器を持って待ち構えている場所に行かないように。
自分の命に関心がないのと、死ぬのが嫌なことは矛盾しているようでしていないのだ。
自分の命に関心がないから必然的な死を素直に受け入れる。死ぬのが嫌だから自ら危険に飛び込むような真似はしない。それだけなのだ。
「それじゃあ、逆に聞くけどさ。狂花ちゃんはどうなのかなー。ヒト兄は絶対に人殺しを許さないマンだけど、狂花ちゃんはどう思っているのかな?」
「私ですか?」
「そうだよ。人を殺すことはいけないと分かっているくせに、さっきは私を殺そうとした。それに、人殺しを擁護するようなことを言っておきながら、自分が当事者になったら擁護するのは当たり前みたいなことを言っていたじゃない。なら、狂花ちゃん自身はどうなのかなって。もしも身近な人間が殺人鬼になったら、自分が殺人鬼になったらどう思うのかなって」
「別に人殺しは何でもかんでも擁護するわけじゃないですよ。確かに、人殺しはこの国の法においては禁じられていることです。ですが、とある国の紛争地帯ではこの一秒一瞬で何人もの命が散っていることでしょう。つまり、畑が違えばルールも理も倫理も道理も異なってくるということです。この国でも変わりませんよ。表面では法で禁じていることですが、ちょっと視点を変えればそこは地獄です。表面上の世界で平穏と安寧の法と秩序というゆりかごに守られている皆さんは綺麗ごとを言いますが、憎ければ殺しますし、邪魔になれば消しますよ。肉体的に殺そうと、社会的に殺そうと、それらは等しく人様の人生を踏みにじる行為です。皆さんが表で見る殺人鬼や人殺しさんは、そういう裏の世界から染み出して表面化してしまっただけですよ。誰もが認知したら、裁かなければいけない。排除しなければならない。何故なら、それが法と秩序のゆりかごの役割であり、同時に存在意義なんですから。それが守られなければ、法も秩序も意味を成さない。結局、バレなきゃ犯罪じゃないってことですよ。知らないこと、見聞きしていないことは起こっていないのと同じことですから」
狂花ちゃんは自分のシチューを飲み干してほっと一息吐いた。
「ですが、そうは言っても私は人殺しを進んでやりたいとは思っていません。それは大多数の人がそうだと思います。というかそもそも、理由もなく人を殺せる人間はいないと思っています。憎かったから、邪魔だったから、人を殺してみたかったから、あるいは人を殺すのが楽しいから、大切な人を守りたいから。理由は千差万別でしょう。お兄ちゃんの言う通り、どんな理由があろうとも人を殺すことは許されず、同じ人殺しなら同じだけの罰が与えられるべきなのでしょう。ですが、人間はそこまで精巧な生き物じゃないです。全てをご合理で割り切ることなんてできません。何故なら、人には心があるからです」
「……」
心。心か、神鬼さんも言っていたな。心があるから人は人を殺すのだと。
「人を殺したかったから殺した人と、愛する人を守るために人を殺した人なら後者の方が好印象で同情されやすいです。何故なら、大多数の人が自分が同じ立場だったら自分もするだろうと考えるからです。だから情状酌量だってされますし、場合によっては無罪放免になることだってあるでしょう。私は合理だけで割り切れるほど冷徹にはなりきれない。だから、私は理由次第では犯罪者を、殺人鬼であっても許してしまうかもしれません。それは恐らく、私もまた誰かにそうしてほしいという願望があるからかもしれませんが……。ともかく、です。だからこそ、私は思うんですよ」
「何を。何を思うんだ?」
「私が本当に怖いと思うのは、人を殺す理由がない人ですよ。理由がないのに殺す、息をするように殺す。まるでそれが当たり前で、合理的で、道理で、倫理だと思い込んでいる。そういう人のことを、私は殺人鬼と呼ぶのではないかと。心が鬼なのではなく、心が鬼のようでもなく、人の道理を外れた道理を持つ人を、殺人鬼と呼ぶんじゃないかなって思っていますよ」
彼女の目はとても据わっていて、その身が一振りの刀のような気がしてならなかった。
普段は理性や心を鞘として自分の殺意をコントロールしているが、いざとなったら理性や心を取り払って人を殺す覚悟ができていると、今回の場合は表現するべきなのかもしれない。
一方、俺が殺人鬼と思っていた通り魔事件の犯人さん。
彼女は人を殺めることを不思議に感じていないし、それが当たり前だとも言っている。
しかしながら、彼女には理性があり、心があり、昨夜だって俺が約束させた人を殺さないという命令を遂行してみせた。
あの状況なら、彼女は確実に犯人を殺せていただろうが、自分の一番得意な手を封じて戦ってくれた。彼女にもまた殺意の裏には鞘が存在していて、普段、右腕の袖口に隠しているナイフのように自分を律することができる。
彼女の場合は覚悟をするまでもなく人を殺せるのだろうが、別に理由なく人を殺して回っているわけでもなく、狂花ちゃんの論理を当てはめると彼女は殺人鬼ではなくただの一般人であり、バレないように犯罪を完遂している通り魔を名乗る一般人だ。
今の狂花ちゃんの話を頭の中ではちゃんと理解はできる。
しかし、それでも俺は人を殺すことを許容してはならないと思っている。
だって、同情も、大多数の意見も、結局は人の裁量で決めているのであって神様がいるわけじゃない。神様のような人間ではない第三者が介入して調停してくれるのなら話は別だけど、法を決めたのが人である以上、人は平等に裁定を下すべきなのだ。
犯した罪の重さだけ、どのような理由があろうとも。同じだけの罰がその人間たちに与えられるべきだと俺は思っている。
この質問をもしも、あの『超越者』に投げたなら、彼女は何と返答を返すのだろうか。
「狂花ちゃんは、その歳でかなり達観した考え方を持っているんだねー、凄いや。私はほんの少しだけ狂花ちゃんと考えが違うけど、大方は同じだよ」
ほんの少しだけ、か。殺人を当たり前と思っているか、否かの点を言っているのなら、その一点に関してだけは非常に大きな違いだと思うけど。
「でもさあ、結局のところはバレなきゃ犯罪じゃないって言い切ったね。バレなきゃ何してもいい、そう言いたいのかな?」
「誤解を与えてしまったのなら申し訳ありません。例えバレていないとしても、それは等しく同じ罪であることに変わりはありませんよ。ですから、バレなければ、発覚しなければ、周知されなければ何でもしていいということにはなりません。ただ、こうも思うんです。発覚していないこと、知られていないこと、分からないことをどう裁けばいいのでしょうか。空の彼方、大宇宙の向こう側に神様のような存在がいて、全世界の人間たちを二十四時間三百六十五日余さず残さず隅から隅まで監視することができるのなら話は別ですけど、実際はそんな都合の良い存在なんて居ません。それに、人間だって法の執行者ではあっても神様ではないですから、身の回りの人間だけならともかく全ての人間の行動を完璧に把握することはできません。そうであるなら、一体全体、誰が知らない人間の行動に対して適切な裁定を下せるのでしょうか。例えば目の前に殺人鬼が居て、その正体を自分だけが知っていたとして。殺したという証拠もなしに糾弾することが果たして出来ますか? いえ、出来ません。もしも証拠もなしに相手を糾弾し破滅させることができるのなら、それはもう法や秩序の範疇を超えてしまいますから。罪なき人に罪を被せ、罪のある人が言い逃れできる社会ができてしまいますから。ですから、私たちのような人たちがいるんですよ」
彼女は「ご馳走様でした」と小さく呟くと後ろの壁に立てかけてあった刀を手にした。
「法で裁けない、悪人なのに裁かれない、そういう人たちが存在するから。だから、私たちがいるんですよ。秩序を、法を守るため、人間社会が薄汚く醜い人たちによってジェンガの如く崩されてしまわないように、私たちが真っ当なルールで遊べるプレイヤーを選定する。それが、私たち不知火の裏稼業です。ですから、お二人とも気を付けてください」
狂花ちゃんは十四歳とは思えないほど怖い顔をしながら殺気を放ち、刀の鞘から銀色の部分を少しばかり覗かせる。
「もしも悪いことをしたら、私が斬ります。人士さんからは微かに血の匂いがしますが、今回はお兄ちゃんに免じて見逃します。ですから、悪い事はしないでくださいね」
この世界に神はいない。世界最高峰の頭脳が集結した『I7』ですらもたどり着けなかった領域なのだから、もはや自明なのだ。
しかし、神はいなくとも代理人はちゃんとおり、世界のどこかでは誰かが見ているのだ。
だから、無暗やたらにとは言わないでも、悪い事は出来る限りしないに越したことはないのだと隣人の、幼き少女の姿をした執行人に学ぶことになったのだった。