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非日常物語  作者: 黒ノ時計
其の壱 〜俺と三種の鬼〜
8/13

吸血鬼事件調査一日目(その5)

 夜、ネオンライトが照らす駅周辺は日が沈んでも人々や車のかき乱す喧騒が静まることはなく、むしろ昼よりも騒がしいくらいだと思ったわけだが、ちょっと入り組んだ路地へと入ってあの犯罪特区に入り込むと、途端に人の気配がシンとなって無くなり、辺りは家から漏れる灯りや街灯の照らす光くらいしかなくて、犯罪特区という肩書がより一層板につきそうなほど恐ろしい気配を漂わせている。


 ……なんて、ちょっとキザッたいナレーションを入れてみたものの、別にそのことには何の意味もないし、俺自身、別に怖いとは思っていない。


 元々、俺は一人でこの犯罪特区に戻ってくる気だったのだ、怖がっていたら吸血鬼事件の調査も碌にできないだろう。


 それより、もっと不安なことがある。むしろ、怖さで言ったら一人で犯罪特区を歩き回るよりも恐ろしい事かもしれない。


 そう、ただ今絶賛、この辺りに出没する通り魔と肩を並べて歩いているのだ。


 数刻前、駅の中にあったカフェで出会った彼女とちょっとした手違いの手続き違いから協力して吸血鬼事件を解決しようという流れになったのである。


 夜じゃなく、場所が犯罪特区でもなく、隣の女の子が殺人鬼じゃなければデートだったかもしれないし、傍から見たらデートに見えてしまうかもしれないが、その実、物騒な吸血鬼退治に赴いたなんて誰が見ても思わないだろう。


「それで? お兄さん、吸血鬼が出る場所に当てがあるの?」


「ないよ。ただ適当にぶらついているだけ。犯人は事件現場に舞い戻るなんて言うくらいだから、一度、昼間に調べた鳳凰公園にでも行ってみようかとは思ってるけど」


「ふうん? まあ、お兄さんがそれでいいならいいんだけど。私も別に心当たりがあるわけじゃないし、むしろ吸血鬼なんだから飛んで来たりしないのかなって思ったけどねー」


 流石の通り魔も、人ではない吸血鬼に対しては心得がないらしい。一般人の俺だって、別にそこまで吸血鬼事情に明るいわけじゃないけどね。


「人士ちゃんはさ、吸血鬼の存在って信じてるのかな?」


「吸血鬼? うーん、どうだろうねー。私は信じていないかな? 所詮は空想上の生き物だと思うけれど……。でも、いないことを証明することはできないし、分からないかな。そう言うお兄さんはどうなの? 吸血鬼を信じてる?」


「信じてないよ。少なくとも、今の段階では。いないことは確かに証明できないけれど、世界に七十億もの人間がいて誰一人として実在を確認できていないなら、むしろそれはいないのと同じじゃなかって思うんだよ。例え、一人か、ないし二人が見ていたとしても、存在が公表されていないのだから、やっぱりいないのと同じ。数学と同じだよ」


「数学? 私、数学の話をされても分からないよ?」


「ああ、そっか。うーん、そうだなあ。数学の概念ではね、大きすぎる数字に対して小さすぎる数字は0にして良いっていう概念があるんだよ。例えば、1と0.0000001なら1の方が一千万倍大きいでしょう? だから、1に比べて0.0000001は小さすぎるから考えなくていいってこと」


「それは都合が良すぎじゃないかな? だって、0.0000001だって列記とした数字なわけだし、無視したら可哀想じゃない」


「可哀想と言われてもね。身長を測ったことはある?」


「まあ、それくらいならあるよ?」


「それじゃあ、あなたの身長は168cmですって言われたことはあっても、168.0007cmですとは言われたことはないだろ?」


「確かに……。でも、それは人の目じゃ測れないからじゃないの?」


「じゃあ、仮にそれを測れる機械があったどうかな? 168cmと168.0007cmなら、もう168cmでいいやってならないかな? 他人と背比べしたときはどうだろう? 自分より0.0007cmだけ大きい人って自分と並んで立ったら分かるかな?」


「確かに、0.0007cmだけ大きいって言われてもピンとは来ないような……。それこそ、ミリ単位にすら届いてないくらいの差だし、隣に立たれても同じ身長って言っちゃいそうだね」


「そういう感覚になるときは、小さい数字を端数として斬り捨ててもいいんだ。今回の場合も、七十億と一人、ないし二人を比べてるわけだから、一人、二人くらいは知っていても大多数は知らないわけだ。99.99%の人間が知らないで、0.000……1くらいの人間しか事実を知らないんだから、これは認知されていないのと同じだって話。つまり、いないんだよ」


「理屈は分かったよ。お兄さんは、とても合理的というか理数系って言えば良いのかな? 論理的な思考を基盤にしている節はあると思う。けれど、それは数学っていう一括りの学問で言ったらの話でしょう? でも、これは数学じゃないよ。だって、その七十億の人間の中には十人十色の、七十億人七十億色の人格や個性があるわけじゃん? その一人ないし、二人が私たちだったらどうする? 七十億側の人間は超少数派だって斬り捨てることはできるだろうけど、目撃した側としては斬り捨てられたら溜まったものじゃないと私は思うけどなー」


「それはそうかもしれないけれど、残念ながらこの世界は大多数が正義の世の中だからね。法も秩序も道徳も、大多数の意思が何百、何千という年月を積み重ねて築かれたみたいに、極東の小さな島国の、ちょっとした都会の端っこにいるような俺たちの訴えなんて聞いてはくれないんだよ。今の時代、カメラで撮影した映像や写真ですらも加工できる時代だし、無名の人間がいくら証拠品を世の中に公表したって誰も信じてくれやしない。そうなると、自分たちの方が本当は気のせいだった、そんなの居なかったって折れるしかなくなる。だからいつまで経っても、UMAも、吸血鬼も、宇宙人も、UFOだって見つかってないのかもね」


「そういうものかなー。世界はなんて残酷で、少数派に優しくないんだろうね。ああ、だからなんだね。私の考えを認められないのは」


「何が?」


「ほら、お兄さん。さっきのカフェでの会話で私の質問に答えられないって」


「ああ……。まあ、そうなのかもしれない。俺はあくまでも大多数派の人間だから。実際に吸血鬼にも、宇宙人にも会ったことないから言えるのかもしれないけれどさ。神鬼さんは見たままのものを信じるって言っていたんだ。目の前にある真実をありのままに受け止めるって。吸血鬼も自分の目の前で確かに存在していたら信じるって言っていた。でも、俺はそこまで自分の考えには自信は持てないよ。世間で公表されて、吸血鬼は実在したって言われればまだしも、自分しか知り得ない真実を知ったら、俺はどういう風に行動するのか今の俺には分からない」


「要するに流されやすいんだね、お兄さんは。世間の風に、波に、流されるままに生きてるんだね」


「何だか馬鹿にされているように聞こえるけど、そうなんだろうと思う」


 もしかしたら、巻き込まれ体質なのも世間の災害の渦に流されているだけなのかもしれない。


 流れるように、流される。むしろ、その流れの中心の渦を作ってしまっているのかもしれなくて、自分からそういう災厄を呼び込んでいたりするのかもしれない。


「というか、そもそもの話なんだけどさ。吸血鬼と人間ってどういう風に違いをつければいいんだろうって俺は思ったけどね」


「んー? それは確かに……。見た目は普通の人間なのかな? あ、でも吸血鬼って特殊能力ってやつを持ってるでしょ?」


「特殊能力? ああ……。血を吸うとか、日光に弱いとか?」


「他にもニンニクが苦手とか、鏡に映らないとか、怪力とか、空が飛べるとか? そんなところじゃないかなって思うんだけどねー。私、吸血鬼にそこまで詳しくないし、人に無さそうな特徴で言えばやっぱり吸血能力に鏡に映らない、翼があって空が飛べるくらいじゃないの?」


「確かに、人の血を一滴残らず吸えて、鏡にも映らなくて空も飛べたらビックリ人間どころの騒ぎじゃないね。確かに、そんな常識外の存在がいたら吸血鬼に他ならない」


 吸血鬼からしてみれば、俺たち人間の方が不思議な存在なのだろうか。鏡にも映って、全身の血を一滴残らず吸えなくて、空も飛べなくて、非力で、太陽の下を堂々と歩けて。吸血鬼の気持ちなんて考えたって仕方ないだろうに。


「全く、でも良かったよ。その吸血鬼さん? が実在するかもって思うとワクワクだよね! だって、これから会いに行くわけでしょ?」


「そうだけどさ、そこまでワクワクすることかな? 発見されていなかった、実在が証明されていなかった生物が一種見つかったくらいで」


「するでしょ、ふつー。お兄さん、そういうところにも興味関心がないのってどうかと思うよ? 普通は物珍しさっていうかさ、知りたがるわけじゃない? 危ないって分かっていても事件が起こった火事の現場とか殺人事件の起こった場所に行きたがるし、警察や消防車が止まってると何事かって見ちゃうし、UFOかもって思ったら思わずカメラを構えたりさ。人は好奇心の塊だから、怖い物見たさがちょっとくらいあっても可愛いと思うけどなー?」


「怖い物は見たくないし、危ないことに自分から巻き込まれに行きたくないんだよ、俺は。経験上、首を突っ込んでも碌なことにならないけど、首を突っ込まなくても碌なことにならないし。だから、敢えて自分から物事の渦中に飛び込むのなんて、今回みたいに自分にとって実害が出そうなときくらいなもので、普段なら安全な自宅に亀みたいに閉じこもるかするよ。それも無意味だろうとは思うけれどね」


「どうして? 家に居れば安全ってわけじゃ……。あ」


 どうやら、人士ちゃんも思い出してくれたみたいだ。


「うん、一回それをやって家が無くなったことがあるからね。それに、生活をしている以上は外に出る機会も当然ある。俺は大学生だから講義には出ないといけないんだ。最近はリモートワークならぬリモート講義も大学でやってる授業ではやってるけれど、大半はちゃんと大学に行って出席しなきゃだし、家の備蓄は最低限の物しか置いてないから必要になったら買いに行く必要がある。まあ、世話焼きの隣人さんが毎朝朝食を持って来てくれるんだけどね」


「何そのリッチ生活!? 私、誰かにお料理作ってもらったことなんてないのに! というか、どうして隣人さんがお兄さんに甲斐甲斐しく朝食を作って持って来てくれるのさ?」


「あの曰く、「お兄ちゃんはちょっと目を離すと三日も飲まず食わずでいることもあるし、何かと危険なことに巻き込まれることが多いみたいだから朝食くらいはちゃんとたべさせてあげなきゃって私、思うんです」って言われたよ」


「しかもお兄ちゃん呼び!? まさか、死に分かれた双子の妹的な!?」


「それはないけどね。俺は一人っ子だから。それに、妹が居たらそっちにもヘンテコな名前を付けられてたに違いないよ」


「そう言えば私、お兄さんの名前を聞き忘れてたよ。うっかり、うっかり」


 そう言えば、で済むレベルか。いや、済むレベルなんだ。


 ここまで俺の名前が分かっていなくても会話はとんとん拍子に進んだわけだし、名前なんて案外知らなくてもいいのかもしれない。


 所詮、その人物を特定する上での記号みたいなものだからね。


「お兄さん、お名前は?」


「ヒトだよ」


「俺は人間ですってアピール?」


「それ、今日で言われたの二回目なんだけどな。違うよ、そういう名前なんだよ」


「ヒトっていう名前なの? フルネームは?」


「秘密」


「どうして?」


「どうせ言ってもすぐ忘れられるから。だから、俺は他人に対してヒトとしか名乗ったことがないんだよ。苗字にも名前にも人って漢字が入る嫌な名前でね。どうしてこんな名前を付けたんだろうって親に文句の一つでも言ってやる前に遠いところに旅立ったからね。今更になった名前を変える度胸も必要もないと思ってるから、俺はヒトって名乗ってるんだ。その方がインパクトがあると思うし」


「確かに、人命にヒトなんて名前を付けるのは凄いことだしインパクトは絶大だから忘れないけど、いいじゃない教えてくれても。これからは運命共同体みたいになるかもしれないって言うのに、本名不肖でコンビ組むなんてできないって」


「誰がコンビだ、誰が。でも、確かにそうかもしれないな。けど、本当にいいの? 俺の本名を知った人間は多かれ少なかれ巻き込まれ体質になるし、本当に運命を共にすることになるどころか、死んで地獄に行っても、その果てまでお供することになると思うけど」


「死んだら地獄に行くのが確定してるなんてどんな人生送って来たんだって突っ込みたいところだけど、毒を食らわば皿までって言うじゃない? だから、いいよ。教えてくれて」


「そう。じゃあ、はい。これ、俺の身分証明書」


 俺は自分の財布から保険証を取り出して名前を見せた。彼女は興味津々そうに名前を見て、顔をしかめたと思ったら変顔をして、再び難しい顔をしてから身分証を返してくれた。


「変な名前だね。というか、これならヒトでいいやって誰でも思うよね」


「そうだろ? 本名を教えた人は軒並み俺のことをヒトと呼ぶようになり、そして一ヶ月も経たないうちに引っ越したり消息不明になったりするんだ。これも一種の曰くってやつかな」


「じゃあ、私も一ヶ月しないうちに遠くに行っちゃうのかな?」


「冗談でも辞めてくれよ、そういうの。割と洒落になってないんだからさ」


「大丈夫だよ、多分だけど。これでも悪運は強い方だし、ちゃんとお兄さんと一緒に居てあげるから。じゃあ、せっかく名前を教えてもらったから、お兄さんのことはヒトにいって呼ばせてもらうね」


「結局ヒトじゃねえか」


 俺にしてはかなり上出来かつ盛大な突っ込みだった。後になって虚しくなりそうだったが端的に事実を述べたまでだ。


「でもでも、だってさあ。ヒト兄の名前のほとんど人だしー。唯一、一文字だけは違うけど、それを使ったらお兄さんのアイデンティティ消失しちゃうじゃん?」


「別にヒトを名乗らなかったら俺のアイデンティティが消失することはないと思うけどね」


「でもほら、話の流れ的にはヒト兄は人であることを重要視してるみたいな感じがしたし、人を取ったらそれこそ人外じゃん? あ! 人士ちゃん、今上手いこと言ったでしょ!?」


「上手くねえわ、それから名前を取っただけで人外扱いは心外だわ」


「人外で心外だって! それに加えて存外元気なヒト兄はナイスガイ! なんちって!」


「……もう好きにしてくれ」


 最近の若い子って言うのはノリが分からないというか、あっちこっちに話が行き過ぎて困る。


 でも、本人はとても嬉しそうにニコニコしてるし、このままスキップでも始めそうなくらい声は弾んでいるから別にいいか。


「まあまあ、そう気分を落とさないでもいいじゃない。これから楽しい吸血鬼退治が始まるんでしょ? そろそろ公園かな?」


「そうみたいだね。ほら、もう目と鼻の先だ」


 俺たちはえっちらおっちら、十分ほど近く頑張って駅から歩いたことで夜の鳳凰公園へと無事に辿り着くことができた。


 公園の茂みや木々が邪魔だったので、わざわざ入り口にまで回って中に入ってみたわけだが、やはり昼間とは違ってシーンと静まり返っている。


 子供も、その母親もおらず、いるのは街灯に群がる蛾くらいなものだろうか。その灯りさえもなければここは、とても子供がきゃっきゃと遊んでいられるような場所ではなかっただろう。


 今見えているブランコや滑り台といったアスレチックも、こうして吸血鬼退治へと赴いた俺たちにとっては逃げるときの障害物でしかないし、木々や茂みだって数秒くらい脱出するのに時間が掛かってしまうだろう。


 逃げるとすれば、今立っている公園の中央から入り口に向って真っすぐ突っ走るくらいなものだろうが、吸血鬼さんだって飛んでこようが入口から来ようが、俺たちの逃道を塞ぐようにして現れるだろうし、俺たちは袋の鼠に自らなったと言わざるを得ない。


「雰囲気あるよねー、夜の公園。ちょっと楽しくなってきたかも」


「怖くないの? 仮にも人士ちゃんは女の子なのにさ」


「んー? べっつにー? 夜、一人で歩くのが怖くて生きていられるほど生活に余裕なんてなかったしー。それに、私にはちゃんと武器もあるし。ヒト兄こそ、怖くないの?」


「怖くて探偵じみたことをやってられるかよって話だよ。俺もそれなりに修羅場をくぐって来たつもりだし、吸血鬼の一体や二体で動けなくなるほどやわじゃないよ」


「それもそっか。それなら、その吸血鬼さんがお出ましするまで公園で遊ぶ? 私、こういうのってあんまりやったことないから割と気分が高揚してるんだよねー」


「そうも言ってられないみたいだよ、人士ちゃん。ほら、あれ見てよ」


「んー? おー、あれは……」


 そのとき、人士ちゃんの気配が変わった気がした。


 お茶らけた雰囲気は明後日の方向に行ってしまって、今は名の知れた殺し屋のような暗くどす黒い殺気を漂わせて入口の方を見つめている。


 彼女は俺の前に立ち、右の袖からマジシャンのようにシャキンとナイフを一本取り出した。


 それは折り畳み式のようで、街灯の光が刃を照らすことで銀色の月光のような輝きを美しく放っていた。


 現れたのは、全身黒ずくめで、身長が俺より一回りくらい小さいフード人間。


 コートなのかな、あれは。上から下まで上着ですっぽり覆われていて、靴も黒いし、顔面には黒い烏のようなマスクをつけてる。


 あれは確か、ペストマスクと言って、ペスト、別名で黒死病と呼ばれる病気の感染防護を目的としたペスト医師用のマスクだったと思う。昔、ペストはその瘴気を吸うことで感染する瘴気論というのに基づいて、くちばし型のマスクが用いられたのが発祥だったような……。その辺は曖昧だけど。


 そのペストマスク人の背中には、実に大きそうな機械が付けられているのが見える。箱みたいな、まるで何かを採取するための機械。この場合だと……。血、かな。


「ヒト兄、下がって。あれは、一般人が関わっちゃいけないものだよ。とても、危険だ」


「俺の前に立ってくれるってことは、守ってくれるんだ?」


「元々、それを見たくて私を連れて来たんでしょ? 私はそう簡単にはやられないから大丈夫だよ。だから、しっかり見ていて」


 人士ちゃんが彼を警戒しながら刃を構えて牽制しているのに対し、ペストマスクの彼は注射器のようなものをどこからか取り出した。まさか、あれは……。


「人士ちゃん、気を付けて。第一と第三の事件はともかく、第二の事件では毒物を用いて被害者を殺害している。あれはきっと、それに使ったのと同じ毒物だよ」


「そういうこと……。でも、関係ないよ。いくら毒があったって、当たらなければ何の問題もないわけだからね」


 犯人がこちらに向かって駆けだしてきたので、俺も慌てず騒がず後ろに下がる。


 一方で、人士ちゃんは前線へと出て行って犯人に凶器となるナイフを突き立てた。


 人士ちゃんは相手を軽く怪我させて捕らえることが目的なわけで、彼女は急所に当たるか当たらないか、ギリギリのラインで首筋辺りを狙っているけれど、それを器用な身のこなしで躱して注射器を人士ちゃんのどこかに刺せないかとぶんぶん振り回している。


 見たところ、武術に心得のようなものは彼の方にはないようだ。


 しかし、人士ちゃんの方は独学と言っていた割には縦、横、斜めと正確に相手を追い詰める型を樹立させているらしかった。これが彼女の言うところの殺しの才能であり、殺すことに特化した型なのだろう。


 彼は注射器を辞めて左手で人士ちゃんを押さえようとするけど、人士ちゃんはひょいと体を鎮めて足を真横に開脚しながら左手を地面につき、カポエラーにでもなったみたいにぶんぶん足を回転させて相手の脛を狙って回転蹴りを繰り出し、器用にも逆さになって独楽のように回転しだしたではないか。


 流石の犯人もこれには驚いて大きく後ろへと後退し、人士ちゃんは再び態勢を立て直す。


 一進一退の攻防、人士ちゃんがナイフで切ると見せかけて左フックで相手の腹を打つ。そして、引き際にナイフで相手の右手に持っていた注射器をナイフで弾き飛ばした。


 犯人はそれを拾いに行こうとするが、人士ちゃんはナイフで止めを刺そうと走っていくが、俺は彼が左手でコートの中をまさぐっているのを見逃さなかった。


「危ない、人士ちゃん!」


「っ!」


 彼はナイフを一本取り出すと、それを人士ちゃんに向って投げた。しかし、人士ちゃんは自分の体を後ろに倒して倒立後転を三回繰り返すことで回避した。


 彼は注射器を拾いに行こうとしたが、俺はそこで走って彼の下に向かう。このまま拾われるよりも、捕らえてしまった方がいいと考えたからだ。


 しかし、そこで彼はコートをバサッと広げると白い煙がコートの中から大量噴射された。


 目が……。これは、催涙ガス!?


「ヒト兄! 下がって!」


 人士ちゃんに後ろから引っ張られて大きく後退することに。


 視界が白い煙に覆われて身動きが取れなくなり、相手の姿も見失ってしまう。


 それから暫く、この機に乗じて襲って来るのではないかと警戒していたがいつまで経っても烏の面が姿を現すことはなく、白い霧が晴れた頃には誰もいなくなっていた。


「いってえ……。ちょっと目に入った……」


「私もだけど……。たぶん、暫くすれば大丈夫だよ……。犯人は?」


「いなくなった。俺たちを襲うことより逃げることを優先したみたいだ。取り逃がしたよ」


「くっそー……。注射器はブラフで本命は別にあるとは思ってたけど、まさか催涙ガスまで仕込んでるなんて、とんだビックリ人間だよ。からくり仕掛けだよ」


「そうは言っても、やられちゃったのは仕方ないよ。これで警戒して、犯人も現れないだろうし、残念ながら振り出しに戻ったよね」


「でも、犯人の姿を見れたのは良かったじゃない。あれだけ派手な格好をしていて捕まらなかったのがおかしいくらいだけどね」


「警察の話では証拠も見つからなかったって話だよ。どこに隠してたんだ、あんな大掛かりな仕掛けの衣装」


「取り敢えず、ナイフと注射器はあるかな?」


「探してみるよ」


 二人で手分けして探してみると、案外、すぐに見つけることができた。謎の薬品が入れられた注射器一本とナイフが一本。注射器は滑り台の傍に、ナイフは木の幹に刺さっていたようだ。


「このナイフ、毒が塗られてるみたい。即効性かは分からないけど、下手に刃の部分には触れない方が良さそうだね」


「そうすると、こっちのも毒ってことかな。けど、まさか吸血鬼がこんな毒使いの暗殺者だったなんてね。思いもよらなかったよ」


「そうだねー。うーん、でもなあ。何か変な気もするんだよねー」


「どうしたの? 何が変なのかな?」


「吸血鬼だから血を吸うのは分かるんだ。報道もされてたけど、見つかった遺体は干乾びていて血も抜かれてたんだよね? それはまだいいけど……。どうして、毒を使う必要があるのかなって」


「だって、相手に抵抗されたら困るだろ? だから毒を使うんじゃないのか?」


「でも、さっき言ってたけど毒殺だったんだよね、第二の事件。第一の事件の死因は?」


「脳内出血らしいけど、血を吸われたのが先かもしれないし、そこの辺りは分からないって」


「じゃあ、第三の事件は?」


「どうだったかな……。まだ警察から情報を貰ってないって話だったと思うよ」


「それじゃあ、やっぱり変だよね。第一の事件が仮に脳内出血か、あるいは失血多量で死んだとして、どうして二回目で毒物を使う必要があったんだろうね? 一回目の事件がもしも失血多量によるものなら、そもそも毒なんて使う必要ないじゃない? そんな証拠をミスミス残してしまうリスクを冒してまで毒を使ったのはどうしてかな?」


「言われてみると、確かにそうだけど……。でも、余さず全身の血は抜かれてたわけだろ? それに、さっきの奴の背中に付いてた大きな機械。あれは血を貯蔵するためのタンクだったんじゃないかな」


「そうだとしてよ。何のために吸血鬼事件なんてものに仕立て上げたんだろうね。毒物を使った時点で偽装は失敗、血を抜くなんて真似をしたら証拠が残るはずなのに見つからない。絶対に何かおかしいって。きっと理由があるはずだよ。血を抜いた理由も、毒を使った理由もね。それにさ、死因にナイフみたいな刺し傷がなかったなら、さっきの黒ずくめがナイフを使ったのも変な話だし。やっぱり、これは第三の事件を調べる必要がある気がするよ」


「そうは言っても、もう夜も遅いし明日だよ。明日、午後から第三の事件があったっていう栖鳳せいほう学院にお邪魔することになってる。人士ちゃんも来るかい?」


「行くよ! 当ったり前でしょ! ここまで来たら、もう乗り掛かった舟ってやつだよ!」


「人士ちゃん、野生児として生きていた割には難しい言葉を沢山知ってるんだね」


「図書館でよく国語辞典を読んだりしてたからな? そこそこ、言葉には明るい方だと私思っていますよ? えへん!」


「偉い偉い、人士ちゃんは勉強熱心だ。ともかく、この二つの証拠品は持って帰ろう。手がかりになるかもしれないし、犯人を糾弾する上では最良のカードになりそうだ」


「オッケー! じゃあ、ナイフは私が預かるから注射器よろしくね」


「はいはい、分かりましたよ。じゃあ、俺はそろそろ帰るから、人士ちゃんも気を付けてね」


「何言ってるの? 私も付いて行くに決まってるじゃん」


「え?」


「え?」


 あれ、どうして俺に付いて来るなんて流れになっているのだろうか。俺は彼女を家に招待した覚えもなければ、本当に兄になった覚えもないわけなんだけれど。


「いや、帰る場所くらいあるでしょ?」


「ないよ。私、根無し草だし。このままだと、今日は一晩お外で凍えながら生活することになるよ。そんなの嫌だよ、お願いだから家にお泊りプリーズ!」


「ええ……」


 正直、滅茶苦茶嫌だった。女の子を家に上げるだけでもだいぶアウトな世の中なのに、その上、相手は一級の殺人鬼なわけで、俺の安寧たるアパートの一室に自ら非日常を招き入れるようなことをしなければならないなんて……。


 でも、他に選択肢も無さそうだし、もうこの際、これでいいかなって思っている自分が居た。


「分かった、分かったよ。ちゃんと家まで連れて行くから」


「わーい! やった! 久しぶりの屋根のある家だ!」


「その代わり、むやみやたらに騒いだりしないように。アパートで他にも住人さんがいるわけだから、大人しく静かにしているんだぞ」


「はーい。じゃあ、帰ろう! あ、電車で行くなら運賃も出してね!」


「……」


 もう図々しいとかそういうレベルはとうに越していたけど、これが人士ちゃんのマイペースなんだと思えば気も幾らかは楽になりそうだった。


 取り敢えず今日のところは吸血鬼事件調査は終了し、俺たちは二人仲良く? 帰路についたのだった。

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