吸血鬼事件調査一日目(その3)
次にやって来たのは、先に神鬼さんが話していた三つの事件現場の内の一つである鳳凰公園と呼ばれる場所である。
入口には『鳳凰公園』という立体的な台形の石碑が足元に設置してあって、中にはブランコや滑り台、水道、シーソーと子どもたちが遊べるような遊具がある。
昼のこの時間は良い子か、あるいは悪い子かもしれないけれど、子連れの親子が何組か公園へと足を運んでは子供たちが駆け回る姿を見守っていた。
全員が母親と子どものセット、父親は恐らく会社にでも行って働いているに違いない。
「いやあ、懐かしいな。私もあと十年くらい若いときは公園で遊んでいたこともあったな」
「神鬼さん、今一体幾つなんですか? そんなに歳を取っているようには見えないんですが」
「嬉しい事を言ってくれるじゃないか、ヒトちゃん。私はこれでも二十八だ」
二十八ってことは、十年前は十八歳ってことだからもう十分に大人じゃねえか。
大きな子どもが遊戯ではしゃいでいる姿を思い浮かべたら、周りの子どもたちや母親から奇異な視線を向けられているのが容易に想像することができた。
幾ら何でも痛すぎるだろ。プログラムに参加していたら普通の子どもと同じような遊びをさせてもらえないことくらいは分かるけど、それにしたって発達段階が遅すぎる気がした。
俺だって、こんな歳になってブランコを漕いで太陽に向かって吠えたり、嬉々として騒ぎながら公園内を駆けまわったりはしないのだ。
「楽しかったんですか? 公園で遊ぶの」
「そうだな。人並みに、人並みのことができるのがな。けどなヒトちゃん、一つだけ訂正させてもらうぜ。楽しかったんじゃない。だって、今でも公園で遊ぶのは楽しいからな!」
彼女はばぁーっと走って公園内へと突き進んでいくと、タンと地面を蹴って三メートル以上の高さを跳躍して滑り台の一番上まで乗ってしまった。
マジか、あの細身の体で出せる身体能力じゃない。彼女は本当に、『I7』の研究が作り出した産物だっていうのか。彼女自身、『超越者』って呼ばれているって言っていたし、自他ともに認める人類を超越した新人類が彼女の正体ということか。
それだけの身体能力があって、世界だって軽々飛び越えて色々な事件を解決して回っているにも関わらず、中身はまるで子供のようでどうしようもなく大人だ。その力があれば世界だってどうにかできてしまうかもしれないのに、今はただ一人の人間として人間の道楽に興じているただの大人だ。
「楽しいな! めっちゃ楽しい!」
彼女は滑り台の上から跳躍すると、今度はブランコを支える支柱の上に立ち、そこから綱渡りをして見せた。何という体幹とバランス感覚だ、重心が全くブレていない。
人の足の中心が通ればいいくらい細い足場だというのに、まるで広い橋の真ん中を歩いているかのような安心感がそこにはあった。そして、渡り切った支柱の上で踵を返すと、今度はその上で体操選手顔負けのムーンサルトを披露し、最後は俺の目の前に彼に着地して見せた。
「どうだ? 楽しいだろ、公園」
彼女は清々しいまでの笑顔で言った。声が弾んでいる、本気で楽しんでいる様子だ。
「いや、出来たら楽しそうですけど、遊具の用途を何一つ果たしてないじゃないですか。これを遊んだと言えるんですか? というかそもそも、これが遊戯になるんでしょうか?」
「なるに決まってるだろ。型に囚われないからこそ、遊びって人は呼ぶんだ。使う方法が他にもあるのなら、別にどう遊んだって文句はないはずだろう。餓鬼じゃないんだ、別に遊具を壊そうとかそういうわけじゃない。それなら、ルールの範疇だろ?」
「お姉ちゃん!」
「お姉さん、お姉さん! 今のどうやってやったの!?」
公園で遊んでいた子供たちのうちの二人がやってきて、神鬼さんに興味を抱いたようだ。彼女は二人の目線の高さまでしゃがむと、二人の頭の上にその手を置いて撫でてやる。
「どうやってやったかは自分で考えるもんだ。大きくなれば分かるだろうさ。私はそのための努力をしてきただけの話だ」
「どういうこと?」
「よく分かんないー」
「人生、よく分かんないことだらけなんだよ。だから、今は分かることをすんだよ。例えば、遊具を使って遊ぶとかな」
「遊んでたらお姉さんみたいになれるってことなの?」
「どうなの?」
「分からないならやってみればいい。できなかったら、別の方法を探すんだよ。ただし、危ないことはすんなよ。例えば、私の真似とかな。落ちたりして死んだらお母さんが悲しむぞ」
彼女は向こうに座っているお母さんたちに視線を送った。母親たちは会釈をして挨拶をしたが、彼女たちから見て神鬼さんはどのような人物に映っているのだろうか?
「分かったか? 分かったら返事」
「はい!」
「分かった!」
「よし、いい子だ。もう行きな」
「うん!」
「ありがとう、お姉さん!」
子どもたちはまるで風の精霊のように、無邪気にはしゃぎながら公園内へと駆け戻った。
「手慣れてるんですね、神鬼さんは。子どもたちにも人気みたいじゃないですか」
「相手をするのは嫌いじゃない。あいつらは人にとっての未来を担う奴らであり、人類にとっての宝でもある。大事にすんのは当たり前だ。大人としてな」
「一般常識が欠如しているかと思えば、今度は大人らしいことを言うんですね」
「何言ってんだ、これでも列記とした仕事をこなす大人の一員だぞ? まさか、一般常識がなくて仕事をやっていけるほど世界が自分に優しいとか思ってねえだろうな?」
「そこまでは言っていません。ただ、目上の人に言葉遣いを欠いたり、人の食事をバイクでまき散らして拉致るような人から出るような言葉だとは思わなっただけで」
「悪かったって、ヒトちゃん。けどな、大人になるっていうのは詰まるところ、誰かに預けていくってことなんだよ。将来をあいつらに預けるようにな。もちろん、ヒトちゃんもそのうちの一人だ。だから、私はお前を守る。必ずだ、約束する」
「……」
彼女は彼女なりに、俺にしたことに対する負い目を感じていて、その責任をちゃんと取ろうとしてくれているらしかった。
巻き込んだのは確かに彼女だが、首を突っ込んだのは俺の方。
だから本来は、俺を守ってくれる必要も義務も責任もないはずなんだ。
それでも彼女が守ってくれるのは、彼女が俺よりも大人だからだと彼女は言いたいらしい。
元より彼女を責める気なんて毛頭ないわけだが、それでも彼女をどこかで変な人だ、馬鹿な人だなどと思っていたことは認めよう。彼女はとても、尊敬されるべき……とは言わないまでも、敬意を払うべき人間であることは確かだった。
「ともかく、私たちは私たちの目的を果たそうぜ。事件の現場はあっちだ」
にやりと浮かべたそれはさっきの子どもたちと違う、とても無邪気とは縁遠い、むしろ邪悪とすら思える笑みを浮かべて公園の奥まった茂みの方へと足を進めることになった。
「ここに被害者は倒れていた。こう、横たわる感じでな」
そこは公園の外周を囲う木々や茂みの中で、視線をずらせばすぐ隣は道路に面しているが、茂みに囲まれているおかげで内側と外側、どちらからも覗かない限りは見つかることはないだろう場所だった。まさか、こんな子どもたちがはしゃいで駆け回るような場所で殺人が起こるとは誰も思わないだろうけど。
「被害者の名前は時任朱音、二十六歳の女性だ。彼女は半年前にし失職してからホームレスになっていて、二カ月ほど前からこの公園に住み着いていたらしく、近隣住人や公園の利用者からは厄介者扱いされていたみたいだ。事件発覚は今から五日前のこと、彼女もまた発見までに五日ほどの日数が過ぎていた。そもそも、この辺りが彼女の領域であり近隣住民は絶対にここには近づかない。発見が遅れたのはそのせいで、子どもがボールを飛ばしたときにたまたま迷い込んで発見されたと平からの資料にはある。遺体は腐敗が進んでいたらしく目立った外傷はなかったようだが、やはり左の首筋に二つの注射器で刺されたみたいな穴があった」
「一回目みたいに血が抜かれたわけじゃなかったんですか?」
「いや、同様に干乾びていた。だけどな、一点だけ一回目と違う点があった。体内から毒物の反応が検出されたんだ。死因は毒物……だとは思うがな。先の事件では毒物の反応はなかったからな、それが気がかりだ。吸血鬼事件に見せた別の犯人による犯行なのか、あるいは同一犯なのか。同一犯だとするならば、一回目の殺害の手口が分からない。全身の血が抜かれて死ぬなんて例にないからだ。だが、別の犯人となるとそれはそれで厄介だな。今のところ手掛かりゼロなせいで一人の犯人すらも追えてないっていうのに、その上、もう一人となると見つけるのに三日はかかりそうだな」
「三日で見つかるんですか?」
「私が解決できなかった事件はない。伊達に『超越者』なんて呼ばれてないってことだ。だからせいぜい、私が答えにたどり着く前にお前が答えを探してみろ」
「そんな無茶な……。俺は警察官でもなければ、探偵なんかでもないんですよ?」
「だが、お前にはそれを成し遂げるだけの力はあるだろう? なら、それを果たしてみろ」
「……」
本当にそんな力なんてない。今だって、俺の頭の中では考えることで精一杯だ。そもそも、さっきのマンションでの一件ですらも解決できるかどうか怪しいレベルなんだけどな。
「何か証拠とか残ってないんですか? 指紋鑑定とか」
「ねえよ、そんなもん。あったらとっくに犯人が分かってるだろって話だ」
「でも、これじゃあ完全犯罪過ぎますよ。せめて、遺体の写真とかは?」
「あるにはあるが、見てみるか? とてつもなく酷い有様だ、常人が見たら間違いなく吐くレベルでヤバい。それでも見るか?」
ほんの一瞬だけ躊躇われたが、我儘を言っていては解決できるものも解決できないだろう。
今は少しでも情報が欲しい所なのだから、あるものは全て使うべきだ。
「お願いします。それでも、見せてください」
「ひゅ~、中々の胆力だな。興味本位ってわけでもなさそうだし、覚悟を決めて見るって言うのなら止める気はねえよ。ほれ、これだ」
彼女は自分のスマホを操作して見せてくれた。そこには確かにグロイ死体の画像が幾つも保存されていた。
一人目の平西さんのものは口から泡を吹き、白目を剥いて仰向けに倒れているものだった。確かに、彼は梅干しみたいにカラカラになっていて凡そ厚さと呼ばれるものがないような感じになっていた。
彼の首筋を写した写真もあり、確かに左側の筋には二つの穴があけられていて、吸血鬼に吸血された感じも否めないようだった。
二人目の女性、時任さんのものも凡そは同じ感じだ。両者とも遺体の腐敗が激しいというのも神鬼さんが言っていた通りで、見た目からは殺され方に違いがあるようには全然見えない。
「これで全部なんですか? 確か、吸血鬼事件には三つ目がまだあるんですよね?」
「今は向こうが情報を精査しているところで、まだまだ一応は一般人の協力者である私には情報を渡せないってよ。対応は急がせているらしいが、届くのは明日の夕方とかじゃねえかな。そう言えば、一人目の遺体を解剖して調べた結果が届いているんだっけ」
「ちょっと、どうしてそういう重要な情報をチェックしないんですか?」
「いや、メールがびゅんびゅん入って来る人気者だからよ、私は。だから、ちょっとしたうっかりで情報を見落としてっていうのも結構あるんだよ」
笑えない冗談だが、その上で事件を解決しているのならやはり凄い人なのだろう。
「どれどれ……。あ?」
神鬼さんが顔を歪めた。何かあったのだろう。
「どうかしたんですか?」
ありきたりな台詞を吐いてみる。
「どうしたもこうしたも、驚きの事実が判明したんだよ。一人目の事件の被害者である平田の頭の中を調べたら脳の血管が破れた箇所があった。頭部のどこにも打撲根はなかったみたいだが、恐らくこれは遺体の腐敗によるもの。だが、どちらが死亡原因なのかは分からない。十中八九、殴打による死亡だとは思うけど、これが吸血鬼事件ともなると話は別だ。血を抜かれた後で、頭を打ち付けてしまったのかもしれない」
「けれど、血を抜かれた後で血管が破れたなら、血痕が残らないんじゃないんですか?」
「そうでもないだろう。例え相手が吸血鬼でも、首筋一カ所から血を吸ったなら全身の血を完全に抜き切るなんてできない。氷の入ったジュースを飲む時だって、最後は体を傾けたりして工夫しないと全部の汁を吸いだせないのと同じだ。増して、複雑な人体構造を持つ人間の血を完全に吸いきるなんて不可能だ。だから、例え血痕があったところで根拠にはなり得ない」
「そういうもんですかね。でも、だとしてもです。それは吸血鬼がいる前提で話していることであって、吸血鬼がいないと断定すればもうその可能性を考える必要はないと思いますけど」
「昼食のときに話をしただろう? 目の前にぶら下がっている答えを否定したくなるのが人間だって。そしてこうも言った。自分にとって一度でもあり得ないと思ってしまった事実を否定して考えようともしないのもまた人間の所業だ。だから、どれだけあり得ないと思っていても、あり得ないと断定できる根拠を見つけることができるまで、その可能性を手放してはいけない」
「まさか、神鬼さんは幽霊とかも信じる人なんですか? ポルターガイストも、バミューダトライアングルを通過した飛行機が数十年後の未来で見つかった怪奇現象も、鬼の存在すらも、あなたは信じると言うのですか?」
「まさか。私は何もそんな非科学的な現象を信じているわけじゃない。ただ、そこにある事実を信じているだけだ。どれだけ超越的で、非科学的で、非論理的で、不確実で、不条理なことであっても、実際に目の前で起きているのだから信じるしかないだろうって私は考えているだけだ。お堅い理系さんとも、ファンタジーに焦がれた文系とも違う。ただ、目の前で起きた事を信じているんだよ」
「なら、目の前に鬼が現れたら鬼の存在を信じると?」
「もちろん。それが本当に鬼であるならば、の話だけどな」
彼女は多分だけど、細かい事を考えていないのだ。普通ならば、人は自分にとってあり得ない現象が起きた場合、こんなことはないはずだとまず疑い、次にそれが起きた理論を探し出す。
いや、理由探しと言ってもいいかもしれない。
別に間違っていても問題はない、理屈が通ってさえいれば何の問題もない。
要は、自分自身を納得させたいのだ。これはこうだから起こる、そう理解することで同じような危険が自分の身に降りかかるのを防ぐ、あるいは心構えを作る。そうして人は自分にとって未知が存在する状況を避けるのだ。
だが、彼女は違う。彼女は例え理屈が通っていなくても何も問題ない。
何故なら、そういう現象が起こっていることを既に頭では理解していて、それを受け入れるだけの度量が彼女の内側には備わっているからだ。
つまり、自分を納得させる必要性を感じていない。むしろ、彼女なら自分に降り注ぐ障害を破壊して突き進んでいくに違いない。
身体能力も、思考能力も、本当に人間離れしているのに、彼女は人間であるように振舞っている。
だから彼女は魅力的に映る、のかもしれなかったり、そうでなかったり。
「そういうわけだから、私は吸血鬼がいる前提で動く。そっちはどうする?」
「……俺も、そうさせてもらいますよ。あなたの考え自体は筋が通っていますから」
理屈を通す必要がないのは既に理屈が通っているから、なのだから。
「そうか。そうなると、ここではもう何も有益な情報は得られないな。ぶっちゃけ、私もここで何かを見つけられるかもしれないと期待して来たんだが、そういうのは警察が持ってっちまってるし、仮にあったとしたら私が見落とすはずもねえ。あと手掛かりになりそうなのは、最後の事件現場になっている栖鳳学院と柊姫鬼の二つか。けどな、そろそろ日も暮れそうな時間帯だし、高校の調査は明日に持ち越しだな」
「そうしたら、今日はもう引き上げですかね」
「そうだな。これ以上、ここに居ても何も掴めなそうだからな。だから、今日の最後の仕事としてヒトちゃん、お前を駅まで送る」
「別にいいですよ、一人で帰ることだってできますから」
「駄目に決まってんだろ。お前、散々言ってたじゃねえか。ここは吸血鬼と殺人鬼がうろついているやべえ場所だって。時間的にはもう四時を回ってるし、まだまだ日が落ちるのも早い。六時を過ぎたら本格的に暗くなり、七時になったら夜中だぞ。そんな場所を一人でうろつかせたら、どっちかの毒牙にかけられてあっけなく死亡しそうじゃねえか」
「でも、それってこっちにとっても都合が良くないですかね?」
「都合がいい……。つまり、お前が囮になって犯人を引き寄せるってことか?」
「ええ。ぶっちゃけると、それが一番手っ取り早いですよ。犯人を捕まえるなら現行犯、これなら証拠なんて探す必要もなければ、地道に聞き込みをして宛てのない犯人捜しに応じる必要も全くない。問題は、そいつを捕まえることが出来るかどうかって話です」
「却下だ。私は言ったぞ、命を大事にって。確かに、それは最も手っ取り早い方法なのかもしれないが、そんな危険な真似を許容するわけがないだろう」
「ですが、それが最も手っ取り早いなら取る方法はこれを取るのが一番……」
「まだ言うか? 私はね、絶対にそれを許すつもりはない」
彼女は滅茶苦茶、それこそ鬼のような形相で俺の顔に自分の顔を接近させて睨みつけた。鬼気迫るとでも言ったらいいのか、今の彼女は鬼というか、鬼よりもおっかないかもしれない。
「もしもその提案を続けるのなら、今ここで私があんたの命を貰ってやってもいいんだぞ?」
そればっかりは御免だ。俺とて、こんなところで地面の染みと一緒になりたくはない。
「分かりました、分かりましたから。どうか矛を収めてください。もうそんな提案は絶対にしません。誓いますよ、心にでも、神でも、仏にでも。ですから、お願いです」
「別に心にも、神にも、仏にも誓う必要はない。私に誓え、そして約束を守れ」
「はい、分かりました。絶対に守りますから、どうか」
あと一歩遅かったら胸倉を掴まれていたかもしれないが、今回だけは見逃してくれたみたいだ。彼女の矛は自分の鞘に収まり、すぐに雰囲気が元の邪気ある子供のものへと戻った。
「でも、流石にこれじゃあヒントが無さ過ぎやしませんか? この事件の犯人は不明で、動機も不明で、殺された時間も曖昧で、近隣住人の証言ですらも曖昧で、これじゃあ推理小説失格ものの難事件じゃないですか。防犯カメラの映像とかくらいは、本当はあるんじゃないんですか? それが無ければ本物の難事件であり、迷宮入りがほぼ確定していると思いませんか?」
「ねえよ」
「え? 今、何て……」
「ねえって言ったんだよ。この一帯、この区画全体、どこもかしこも監視カメラが存在しない。ここはな、隠された犯罪特区なんだよ」
「……」
俺は絶句した。
まさか、この情報社会とも、監視社会とも言える現代日本、現代の世界において監視カメラが一台もない街中が存在するなんて誰が思うだろうか。
マンションの中に監視カメラが無いと聞いた時からかなりおかしいとは思っていたが、まさかそんな危険地帯がこん東京都内にあったのか。それだけで、俺は十二分以上に驚いている。
「ここではよく犯罪が起こる。殺人も、窃盗も、わいせつ行為も、器物破損も、不法侵入だってそうだ。監視カメラがねえのも大きいが、何よりここは昼間であっても人通りが少ない傾向にある。夜になれば、更にシンと静まり返るさ。まるで、この世界には自分しかいないんじゃないかっていう全能感から一種の快楽物質が脳内に分泌されまくって気持ち良くなっちまうくらいにな。しかしながら、その危険度は他の住宅区じゃ味わえないくらいに高い。ダンジョンの何度で言えばインフェルノとか、ルナティックとかナイトメアとか付きそうなくらいだ。だが、ここに来る住人はそれを承知でここに住み着く。どうしてだと思う?」
「どうしてって、そんなこと言われても……」
「おいおい、聞いた傍から思考を放棄するな。考えた事を言葉にできるのは人間の得意技の一つだろうが。もっとよく考えて喋れ、脳みそが付いていない口だけを何となく動かして喋るんじゃねえ。『I7』にいたくらいだ、それくらいの脳はあるんだろうがよ」
「……」
仕方ない、こうまで言われた以上は考える他にないだろう。
俺だって、一応はのうのうと人生を生きて来ただけあって、学も人並みくらいにはあるつもりでいる。
ぶっちゃけ、プログラム参加経験はほとんどのことが無駄に終わってしまっている気がしてならないわけなんだけど、
さて、本題である命題は「どうしてこの殺人区画に人が住みたがるか」って話だったな。
こういう幾つも可能性が考えられるとき、俺は一気に答えにたどり着こうとはしない。というかできない。
どこぞの天才か、あるいは名探偵ならば必然的に答えを導き出せるのかもしれないけれど、俺にはそんな特殊な力も才能もない。
だから、思いつく限りの可能性を並べて検証するのが俺のやり方だ。
回りくどいとは思うけれど、全パターン試すっていうのは一番確実性が高く、それでいて合理的なのだ。数学の証明問題と大差ない。
高校や大学で習う数学は答えを出す方法を知っているから一撃必殺で導き出すことも可能かもしれないけれど、現実は不確定で曖昧だから、答えを一撃必殺で出すことなんてできやしない。それができたなら、名探偵も、天才も、警察も、特殊現象捜査官なんていう大層な肩書も必要ないってことなのだから。
じゃあ、早速だけれど検証してみようか。どの可能性から探るか迷ってしまうけれど、まずはそうだな。一番誰でも思いつきそうなところから攻めてみようと思う。
一、実は住みやすいから。やはり、住居を選ぶ一番の理由というのは家然り、その周囲の環境然りといったところだろう。
部屋が広い、使い勝手の良い物件ばかりが集まっている、コンビニや食事処、スーパー、学校、駅などが近くにある、道路が広く車が運転しやすい、ご近所付き合いがしやすい、物件自体の値段が安いといったところだろうか。
どれも理由としては最適解に近いものだが、人によってニーズは変わって来るだろうし、全部を叶えることはとてつもなく困難を極めることだ。
しかし、駅は割と近いし食事処だってある。
スーパーが近くにあるかは分からないけれど、少なくとも高校は近くにあるわけで、道路もまあそれなりに車両が通過できる幅はあるみたいだ。
ただ、ご近所付き合い云々に関しては主婦間同士ならともかく、事件に巻き込まれた人間に関してはあまり良好とは言えそうになく、物件の値段だって少なくともあのマンションに関しては良心的とは言い難く、何より圧倒的にどの地域よりも治安が悪いという最悪の汚点がある。
これを避けて通ることはできないし、住みやすいとは正直、言えないのではなかろうか。
少なくとも俺のような一般人の常識から当てはめれば、住みやすさを理由にして来るような場所ではない。
二、物件選びで住みやすさ除外したなら、次に来るのは立地か、あるいは都内であるからという理由になるだろう。
さっきも挙げたが、ここは駅との距離がかなり近いし、この位置だと電車で三十分もいけば秋葉原にも、池袋にも、新宿にも、東京にだって行くことができる。確かに、交通の利便で言えば良い方なのかもしれない。
だが、それはこの土地が他よりも安いというところに落ち着けばの話だ。
治安という人を守る防壁を、盾を捨ててまで選ぶのだからそれなりに恩恵がなければおかしな話になってくる。
しかし、一の中に含まれていた条件の中で既に物件の安さは除外してしまっているわけで、詰まるところ、これは当てはまらない。
となれば、その土地にしかない特有の状況か、あるいは恩恵があるということになる。
今回の場合だと監視カメラがないこと、あるいは治安が他よりも非常に悪い事で、犯罪件数が他よりも多く、今は吸血鬼や殺人鬼なんていうのが潜む魔窟となっている状況のことを指すのか。
だが、それは一般人にとっては何のメリットもないことだ。
一度、散歩すれば財布をすられ、ともすれば背後からナイフで一刺しとか、あるいは全身の血液を抜かれてまで住みたいと思うのか。
これも却下、ともなれば残った可能性はもう一つしかないと今のところ俺は考えている。
散歩すれば財布がすられ、ともすれば背後からナイフで一刺しされることもあり、あるいは全身の血液が抜かれても困らない。
そうなっても、そうされてもいいと思える人たち。……いや、そうなると、あるいはそうされると保障されている人たち。
「つまりは、こういうことですか。ここは、現在進行形で犯罪者か、過去にその経験がある人達か、あるいは犯罪を犯された、これから犯されたい側の人間が住み着いている」
「どうしてそう思った?」
「簡単な話ですよ。犯罪者は言うまでもない、ここは犯罪をしやすいから。カメラが無くて、目撃者もいない。殺人ともなれば尚更でしょう、だって目撃しているはずの唯一の人間はもう殺されているのだから、実質は誰も見ていない。犯人にとってこれほど都合が良いことはないでしょう。過去に経験がある人も同様です。犯罪は癖になる、なんて誰かが言ったものですよね。あれは別に殺人が快楽になるとかそういう話しじゃなくて、単純に一人目を殺せば二人目を、二人目を殺せば三人目をと自分が犯罪者だとバレるのではないかという疑心暗鬼から来る一種の衝動のようなものだということですけど、一度犯罪を犯した人間が出所したり、住む場所を変えたからと言って辞めるという保障はどこにもないわけじゃないですか。だからこそ、この場所は済むには最適なんですよ」
「だとしたら、犯罪をする側にとっては有理かもしれないが、犯罪を犯された側は分からないだろう? 犯されたいって思ってるならまだ筋は通るかもしれないが、どうして加害者だけじゃなくて、被害者も移り住んで来ると読んだんだ?」
「一度、怖い思いをしているからこそ、そういうところに住みたいと普通は思いません。ですが、むしろ犯罪が起こりやすいと分かっているからこそ用心しやすいのかもしれません。次にいつ起こるか分からないから怖い。けれど、起こると分かっているなら話は別です。手の内がバレているなら、後は対処すればいいだけの話なんですから。だとすると、犯罪者さんはご近所さんで顔見知りだと襲っても意味ないですよね。だって、知っているんですから。対処されることを。逆も然りですよ。やると分かっている人間をわざわざ警戒なんてしません。やられそうになったら、ただ対処すればいいだけなんですから。でも、俺たちみたいな余所者が来た時は警戒される。表面では良い風に振る舞っていても、警戒される。だって、俺たちのことをここの人たちは知らないからです。逆も然り。何も知らずに迷い込んだ人、例えば俺みたいに人はここで犯罪が起きやすいことを知らないから警戒しない。だから、犯罪者たちは余所者を襲い、犯される側は余所者を疑う。ですが、ある意味で安全でもありますよね。だって、自分たちが警戒するべき相手は犯罪者たちが襲ってくれるんですから。だから、そうですね……」
相応しい表現か、あるいは言葉を探すのならそう……。
「ここは、鬼と人間が共存している集落と言ったところじゃないでしょうか」
あるいは、人間を食い物にする鬼たちが住む集落だと言えるんじゃないでしょうか。
「ははっ、中々良い線いってるぜ。流石、私が見込んだ助手だけあるな、頼りがいがあるぜ」
神鬼さんはケラケラと笑って答えた。どうやら、及第点くらいは貰えたみたいだな。
「しかし、それでも犯罪は起っちまう。余所者を襲うのが幾ら合理的と言っても、あいつらは鬼じゃなくて人間だ。だから、鬼同士、あるいは同じ集落に住む仲間同士でも殺しが起きちまう。そのことを再認識しているんじゃねえかと思いたいが、そういうわけにもいかねえか。今回起きた犯罪の発端が何だったかは知らねえが、少なくとも犯人の目星は既についてる」
「そうなんですか?」
「言っただろう、最初に。私はあの管理人が怪しいって。一番最初に起きた事件で、あの引き籠り男性と唯一接点があったのはあいつだけ。そうなったら、もう疑う余地もなく柊豊根で決まりなはずなんだよ。警察だって、既にその結論には辿り着いている」
「そこまで分かっているなら、どうして彼女を逮捕していないのでしょうか?」
「してないんじゃなくて、できねえんだよ。だって、確固たる証拠がねえから。あいつが確実に殺したっていう証拠がねえから対処ができねえ、だから捕まえられねえ。ここで起きる犯罪件数が高いのは事実だが、同時に犯人が捕まりにくいのも同じことなんだ。ここの住人間で起きた犯罪は解決率が高いが、それ以外の解決率が非常に低い。だがな、解決率が高いからと言って解決できない案件がないわけじゃない。確率なんてそんなもんだ、ガバガバなんだよ。数学なんて机上の空論でしかなく、現実に照らし合わせればままごとも同然だ。データを集めれば信頼度を上げることはできても百パー信頼できる数値なんて在りはしない。今回もそのパターンだ、このままだと相手に逃げ切られてゲームオーバーになっちまう」
「なら、どうするんですか? このまま何の手掛かりも得られないままに、明日もまた学校に行って調査を続けるって言うんですか?」
「いや、そんなお間抜けなことはしないさ。指を咥えて見ているなんて、この『超越者』である私がやるわけがない。私だって馬鹿じゃないんだからな、お前がやって見せたように私もまた頭を少しばかり使おうじゃないかってことだよ」
「はあ……。それは、具体的にはどういった作戦なのでしょうか? 是非とも、お聞かせ願いたいと思っているのですけれど」
「それはだな、あいつの家に押しかけることだ」
は? と俺は耳を疑ってしまった。聞き間違いかと思ったが、そうではない様子だ。
「何、間抜けた顔をしてんだよヒトちゃん。これは結構、良い案だと思ってるんだぜ? 一度、警察が家宅捜索に入っているが何も見つからなかった家屋の中。あいつが吸血鬼ならともかく、そうでなければ抜いた血はどこに隠すと思う? まさか、その辺の排水溝に捨てるわけにもいかねえだろ? 自分の住む家屋なんて、一度警戒されなくなればこれ以上に安全な場所はねえ。それに、あいつには孫がいるみたいだし、何か知ってるかもしれねえからな」
「それは凄くめでたい発想ですけど、まさか普通にお邪魔させて欲しいなんて言わないですよね? 相手は仮にも犯罪者ですし、そういう場合は警戒されてもおかしくないでしょうに」
「だから頭を使えって言ってんだよ。お前、あの高校に学生として潜入して柊姫鬼とお友達になって来い」
「正気ですか?」
「正気だよ。私が行っても仕方ねえだろうが、お前ならまだギリギリ高校三年生でまかり通る年代だ。学校の制服は今日中に調達しておいてやるから、明日にでもお前が行ってこい」
嘘だろ、冗談だろと言いたかったがこの人の目は本気だった。
つまり、彼女は柊姫鬼と友達になって「家に行っていい?」「うん、いいよ」をやって来いっていう命令を下したのだ。こっちは友達も碌に作ったことが無いような人間な上、高校にだって通ってないってのに、ぶっつけ本番で明日に「はい、どうぞ」なんて名俳優でもないのだからできるわけもない。
今までもかなり無茶苦茶なことを言っていた気がするが、これはあまりにも横暴が過ぎるというものではないだろうか。
「いや、でも待ってください。それは柊さんの住んでいる場所に証拠があることを前提に動いているじゃないですか。もしも無かったらどうするんですか?」
「そのときは、そのときだ。あいつは強者の気配が分かる、だから私が直接出向いても絶対に犯人として出て来ることはないからな。だから、そんときはやむを得ないがお前を囮にする」
「さっきは命大事にって言ってたじゃないですか」
「ちゃんと守るとも言ったぜ? それをやるからには、絶対にお前を死なせない。例え私が盾になって死のうとも、刺し違えて必ずお前のことを守り切って見せる。そんでもって、報酬も上乗せしておいてやるよ」
危険だし、絶対に御免な提案だったけれど報酬上乗せには少しだけ興味が湧いた。
「因みに、どんな報酬が付くんですか?」
興味本位で聞いてみた。
「これからの人生、月に一度だけエプロン姿になってお前の家で極上のすき焼き丼を作ってやる。私は料理にも腕の覚えがあるからな、お望みとあらば海鮮丼でも中華料理の盛り合わせでもフレンチフルコースでもご馳走してやるよ」
やばい、それはかなり魅力的かもしれない。
こんなにも綺麗な外人風のお姉さんが自分の家でエプロン姿で料理を作ってくれるなんて嬉しいにもほどがある。男の冥利に尽きるというものだ。
だって、彼女の容姿は割と俺の好みにドストライクだからだ。金髪で、碧眼で、背が高くて、年上で、ちょっとSっ気のある女性。別に彼女が好きとか、そういうことはないのだけれど、でも、自分の容姿や性格が嵌っている人に一瞬だけでもご奉仕してもらえるのは魅力以上の何であると言うのだろうか。
貰えるものは、ありがたく貰っておくとしよう。
そのときに彼女が生きていればの話なのだろうけれど、まあそれでもいい。自分の命が助かるのなら、これ以上、儲けようと思わないことが長生きをする秘訣だと思うからだ。
「分かりました、そのときは引き受けましょう」
「ちょろいな、ヒトちゃん。気付いてない、とでも思ってたか?」
マジか、色仕掛けしたら絶対に堕とせるって自身があったからこその提案だったとは。
「人の心でも読めるんですか、あなたは」
「超能力者でもあるまいし、そんなの無理だ。所謂、女の勘ってやつだな」
本当に、理屈を通さない彼女らしい答えだと俺は思ったのだった。