残念ながら、これが俺の日常だ
ここは東京都内の某大学キャンパス内。大学なのだから敷地はそこそこ広いとは思うが、所狭しと並ぶビルやらコンビニやらカフェやらレストラン云云かんぬんの空いた場所、言うなればパズルのピースを嵌められる場所に嵌めたみたいな感じになっているために、あまりに狭く感じてしまうのは俺の心が狭いからではないと思いたい。
今日の空模様は暗雲漂う曇り空、ちょっとでも間違えば雨がザーッと降りそうな雰囲気の中、大学一年生の俺はちゃんと寝坊せずに朝九時に授業を受けに来て、午後二時過ぎまで、つまり九十分の授業を一限、二限と受け、十二時十分からの昼休みを超えて三限までちゃんと受けたのである。
しかも、残念なことに学食が混んでいたせいで食堂内に入ることすら叶わず、その上、いつもより混み合っていたせいか購買部のパンや弁当が売り切れてしまっていた影響もあって、この時間までお昼を食べられていない。授業を受けている間、特に三限に入ってからはお腹が鳴るか鳴らないか気が気でなかったわけだが、一度だけ鳴ってしまったことで俺の決心はもう固まったようなものだった。
授業を終える鐘が鳴ると、授業内で出された課題のレポートをさっさと教授の卓上に提出してから肩掛けバックに筆箱や最低限の教科書といった荷物をまとめ、とっとと教室を出て行く。
向かった先は、一般道と面したところに位置する大きな学生食堂だ。収容可能人数は百人ほど、大学の規模は四百人はいると思うので、明らかに施設の規模が間に合っていないと思うのだが、何故かシェフの規準は普通のレストランより高く、加えて学生にとっての良心的ワンコイン価格設定が効いているのか昼時は絶対に混み合うのだ。
それでも、いつもなら食べることが叶うのだが、生憎と今日はついていなかったようだ。
今日はっていうのもの何だかおかしいと思う。学生食堂に入って、左手にあるショーケース内の商品から何を食べようか見定めながら考える。
今日の昼食メニューはサバの定食だったのか、食べたかったな。ハンバーグ、ミートソーススパゲティ……、いや、スパゲティは駄目だ。この食堂唯一の外れ商品だからな。ソースが市販のものよりマズいのだ、不思議とね。
俺の大学生活というより、これまでの人生が他所様と比べるとかなり波乱万丈な人生を送って来た自負があるのだ。
父親を病気で、母親を事故によって幼いときに失くし、五歳にして孤児院行きとなってからはひょんなことからとある名家のお嬢様に拾ってもらって、そこから世界的に有名な研究機関のプログラムに参加したことでちょっとしたリッチになった。
十一歳でアメリカの大学へと入学、それからテロリストに狙われたり、家が爆弾で吹き飛ばされたり、一度は財布をすられてアメリカを横断旅行する羽目になったり……。
それでも無事に十五歳で大学を卒業して日本へと帰国、そこから三年くらい貯金を使って日本をゆっくりと回りながら、コンビニでばったり強盗犯に出くわしたり、街中を歩いていたら指名手配犯に襲われて返り討ちにしたり、泊まっていた旅館にダンプカーが突っ込んで来たり……。
それで、今は都内のアパートを一部屋だけ借りて十九歳の俺は大学生活をしているということである。どうしてこうなったかはよく分からないけど、俺は割と暇人でお金もあるから、もっと学生生活を楽しみたいと思ったのだろう。
高校卒業の資格は研究機関のプログラムに参加していた頃に習得済みだったので、特に困ることはなかったし……。
ただ、お金や資格とか、色々と器用貧乏になれたのはプログラムに参加したおかげではあるが、その後遺症というか、代償として色々と「巻き込まれる」体質を獲得してしまったらしい。
これを理論で解明できるものなら、賢人という名の変人が集っているあの機関に検査や研究をお願いしたいくらいなのだが( 百パーモルモットにされるから嫌だけど )、残念ながら宗教的な表現で言うところの運命というか、そういう星の下に産まれ変わってしまったとしか表現しようがないのだ。
今日もこうして昼過ぎの学食で一人優雅な食事を楽しむことを選択したわけだが、本当ならコンビニとかで質素なおにぎりかパンでも買って大人しくアパートに帰るべきだったのではないかと思うのだが、今、俺の目の前にある誘惑にはどう頑張っても抗えそうになかった。
曰く、ここにすき焼き丼があるからだ。これに勝る至福など存在しない。
俺は早速、近くの券売機で五百円分の食券を購入し、食堂のおばちゃんが立っているバーのところへとトレイを取って向かう。
「やあ、あんた。今日も一人かい?」
「ええ、そうです」
俺は食堂によく来るので、おばちゃんに顔を覚えられているみたいだ。周りから「特徴がないのが特徴的で、すぐ忘れられる」と評判の顔を覚えているなんて、中々大したおばちゃんだ。
「あんたも彼女とか作ったらどうだい? そういう学生さんも多いし、友達の一人とかでも」
「いえ、大丈夫ですよ。俺は別に、そういうのが欲しくて大学に来たんじゃないので」
大学に入って二カ月ほど、まだ六月と少し湿っぽい時期。自分の交友関係はカラカラに乾いているけど、俺の巻き込まれ体質を克服しない限りは誰かとつるまない方がいい。
いや、それも方便だ。本当は一人でいるのが楽だから一人でいるのだろう。
「まあ、いいけどさ。それで? 今日もあれかい?」
「ええ。すき焼き丼、すき焼きのタレ無しで」
「それはただの牛肉丼だと思うんだけどね」
「そんなことないですよ。ちゃんと半熟卵や白滝も乗ってますし。味が濃いのがあまり得意じゃないだけで」
「そうかい。じゃあ待ってな、直ぐ作るから」
「お願いします」
おばちゃんは流石はプロと言ったところだろうか、ものの一分ほどで完成させてトレイにすき焼き丼を乗せてくれた。俺は食券を彼女に渡し、箸とレンゲをもらって席に行く。
二時過ぎの食堂は驚くほどガラガラだ。今の時間は授業中だし、何より昼時をとっくに過ぎているからって言う理由もあるだろう。こんなにも広い食堂をたった一人で占拠した気分になれるのはとても気分が良い。やはり、コンビニじゃなくて学食を選んで正解だったらしい。
適当に目についた席に腰かけて、頼んだいつものすき焼き丼を眺めてみる。
艶々で熱々の白飯にじっくりと焼かれた牛肉を満遍なくまぶしてなお湯気が立ち込め、丼の淵に所狭しと詰められた白滝や玉ねぎが良い香りのアクセントを生み出し、最後に堂々と真ん中に鎮座する半熟卵の何と美味しそうなことか。
ここにタレをかけてしまうと、全ての食材の味がタレ色に染まってしまって非常に厄介だ。肉の油も、玉ねぎの甘さも、白滝の淡白な味付けも、卵の奥ゆかしいとろみも、全てが全てタレの味。俺にとって、それが一番我慢ならないのだ。だからこそ、いつも必ずこれを頼むときはタレをつけないで注文するのである。
何もすき焼き丼だけじゃない。お寿司や魚、餃子やしゅうまいに醤油はつけないし、とんかつにソースをかけるようなこともしない。
濃い味付けが許されているのは、せいぜいラーメンくらいなものだろう。外部から余計なものをかける必要性などないほどに、料理そのものに味がついているのだから。
箸を右手に持って、箸先を黄身を包み込むトロッとした卵白に突き立て、ゆっくりと全体に満遍なく広がるように切り崩す。
ああ、この瞬間こそが至福。黄身が牛肉の間を通り抜けて下の白飯にまで浸透しつつ、真っ新な白身によって彩られて見た目の派手さと美食感が増していく。これを贅沢に白飯と一緒にかきこめば、さぞや美味しさで口の中が弾けて心が躍り出すことだろう。
「いただきます」
さあ、いざ俺の箸が丼の中の食材に触れようとして……。
机が宙へと舞い踊った。何か巨大な質量が机に正面衝突したらしく、丼諸共左の方に吹っ飛ばされて、俺が箸を突き立てることになったのは黒い全く美味しそうじゃない革ジャン。
巨大質量の正体はどうやらバイクだったらしく、黒いヘルメットをした黒革ジャンの黒バイクが俺の目の前に止まってエンジン音によって空気を震わせている。
「……おい」
まさか、自分にそんな声が出せたのかというくらい低い声でライダーにガンを飛ばす。
顔が見えないからどこの誰かは全く知らないし、そもそもバイクを乗り回すようにライダーの知り合いなんていないけど、そんなことはどうでもいい。
よくも俺の至福の瞬間を邪魔してくれたなこの野郎。
「あんた、俺のすき焼き丼の弁償を……」
「青年、丁度良い。ちょっと付き合え」
「は?」
くぐもった声で俺に話しかけたそいつは俺の首根っこをひょいと掴むと問答無用でバイクの後ろに乗せた。箸を持ったままだったのでこのまま目ん玉突き刺してやろうとか本気で考えたけど、何となくヤバい感じがして箸から手を放した。
というか、何だこの状況は。ライダーの後ろに箸を持って乗車するなんてシュールな場面は俺でもなければ当事者になることも、目撃者になることもないだろうと思う。
すると、バイクがやってきた入り口の方から七人ほどの警官が踏み込んできて、こちらに銃を向けてきた。
あまりの突然すぎる出来事に、俺の額から流れる冷や汗が止まらなかった。
おいおい、嘘だろ? これって、もしかして俺、人質にされてる?
「そこのライダー! すぐに降車して、両手を頭の後ろに回しなさい! 大人しくするんだ!」
「やだね! 私はそもそも、追われるような立場の人間じゃないって言ってるだろうが! それとも、公僕ともあろう警官が罪のない大学生の一人に銃なんて物騒なもんを向けるのか!」
「くそっ! 人質か! これ以上、余罪を重ねても良いことはないぞ!」
「知らないね! 私は忙しいんだ、これで失礼するよ!」
ライダーはハンドルを二、三階捻ってバイクのエンジン音を轟と唸らせると、しょっぱなから猛スピードで動き出した車体をウィリー走行で制御し、警官たちを避けて割った窓から堂々と出て行ってしまう。後ろでは未だに警官たちが銃を構えていたが、彼らが追って来るような気配はない。
普通、こういうときはパトカーでも、白バイでも走らせて人質を取り返そうと追いかけて来るはずなんだが、どういうことだろうか。
「あの!」
「ん? 何だ、青年」
「何だじゃないですよ、何なんですか、一体。俺を人質なんかにして、早く解放してください」
「別にいいぜ、私にとってはあの場凌ぎの文句に過ぎないからよ。この高速で走るバイクから降りて、地面の染みになりたければの話だけどな」
「……いえ、結構です」
そう言うしかなかった。むしろ、このまま降ろさないでどこにでも連れてってくれとまで願ってしまった。この人の声音は、本気の人が言うトーンで全く以て冗談ではなかったからだ。
「素直な良い子ちゃんは好きだ、青年。安心しな、知合いに日本の警官のお偉いさんがいる。きっと、今頃は部下たちに追うのを辞めるように言ってる頃だっろうよ」
「は、はあ……」
そのときだ。ピロロロロという昔の携帯電話から鳴るような音楽なが流れて来たので何事かと思えば、恐らくだが彼女が所有する携帯から鳴っているものだ。
「青年、悪いが出てくれ。私の上着の右ポケットに入ってる。変なところ触ったら無理やり振り落とすからな」
「そんなことしませんよ……」
今は指示に従うしかないようだ。彼が何者かも分からないわけだし、警察の偉いさんとコンタクトがあるなんて危ない人物というか、絶対にシャバの人間ではないと察することができたからである。
俺は素直に彼女の上着の右ポケットから、革ジャンの艶っとした感触とは違う携帯の硬い感触を見つけて取り出した。最新式のスマホのコール画面には電話番号だけが表示されており、電話の相手が誰か判別することはできなかったが、取り敢えず応答ボタンを押すことに。
「もしもし」
『こちら、警察庁長官の平だ。神鬼の携帯のはずだが、君は?』
「その神鬼っていう人にバイクに乗せられて拉致された青年ですよ。警察庁長官の平さん」
『まあたやらかしおって、この馬鹿野郎。大丈夫、君は無傷で解放されるだろうからそのまま彼女と一緒に行くところまで行くといい。必要であれば、こちらから君を自宅まで送り届ける準備もする。申し訳ないが、もう少しだけ我慢してくれないだろうか』
「あの、これは拉致誘拐事件の類じゃないのでしょうか。ついでに、俺の昼食も木っ端微塵にされたところなんですけど」
『すまないが、彼女に依頼を出しているのはむしろこちらの方なのだ。彼女を逮捕するわけにはいかんし、存在を公にすることも許されない。彼女が出した被害は全てこちら持ちだ。もちろん、君が望むならば彼女に出す報酬から差し引いて君に返すことにしよう。今は、これ以上のことは話すことができない。申し訳ないね、本当に』
「国家権力ってやつですか、お偉いさんは都合が良いんですね」
『何とでも罵ってくれて構わない。我々は、我々の正義のために動くと決めている。理解しようとしてくれなくていいし、理解する必要はない。では、詳しい話は彼女から聞いてくれ』
ぶつっと一方的に通話は切られてしまい、後には通話の後になるツー、ツーというむなしい音がバイクが風を切って道路を進む音と共に鳴り響くだけだった。
「はん、綺麗に振られちまったな。青年、そういうことだ。どれだけ善良な市民であろうとも権力には勝てねえ。この世の中に力ある者は少ない、だからこそ振るうことができるから特権って言うんだぜ、青年。まあ、同じく力を持つ者として、それを乱用して良いって話じゃないのは分かってるけどな。お前の人生の中の時間をほんの少しばかり貰っちまった、すまねえな」
「……まあ、どうしようもなく許せない気持ちはありますが、俺はある程度は理性的な方だと思っています。だから、せめてどうしてあんな状況になったのかを説明してもらえませんか?」
ここで怒ったところで時間が戻るわけでも、すき焼き丼が返ってくるわけでもない。
相手が相手だし、勝てない相手に喧嘩を売っても自分の立場を不利にするだけだろう。そうなるくらいなら、せめて事情くらいは把握して自分がこれからどういう行動を取るべきかを考える方が有益だと考えたまでだ。
「実はな、とある事件を調査しにやってきたわけなんだが、残念ながら私の身分証の新しいのがまだできてなくてな。事件現場に向かう途中で怪しい大人がいるって通報を受けちまって、そのまま逮捕されそうになったから逃げて来た」
なんて身勝手な人なのだろう。大学の食堂を堂々と破壊したことと言い、自由奔放が過ぎるってものじゃないだろうか。
「逃げちゃ駄目じゃないですか。せめて警察に大人しく捕まれば解放されたかもしれないのに」
「嫌だよ。どうして無駄に拘束されて時間を費やさなきゃいけない? こっちは向こうのために動いてんのによ」
「それはそうかもしれませんけど……」
見た目は大人なのに、中身は完全に駄々をこねる子供みたいな言い訳だ。それが通用するのは偏に、彼女がそれだけの力を持っている自負があるからだろうと推察する。
「じゃあ、身分証明証はどうして失くしたんですか?」
「鍋敷きにした」
「は?」
思わず素っ頓狂な声が出てしまった。鍋敷きにした? って、流行語か何かだろうか。
「いや、昨日は鍋をしようと思ったんだが丁度良いマットがなくてよ。それで、丁度手頃なサイズの物があるって思ったら身分証でよ、それを火にくべちまったから燃えてなくなった」
「……」
自己中心的な上に相当な阿呆だった。自分の身分証を燃やす人がいるなんて思わなかった。てっきり、何かの宗教に入信していて身分証を燃やして神を降臨させる怪しい儀式でもしたのかと疑ったくらいだ。
「それでよ、青年。頼みがある」
「何ですか、今度は。人の昼食を蹴散らして、この上で何かまだ頼みごとがあるんですか?」
「そう怒るなよ。手伝えば、お前が楽しみにしていたすき焼き丼どころか、もっと良い物を食わせてやるからよ。報酬も弾んでやる」
そこまで不満そうな声を出したつもりもなかったが、気持ちというのは言葉に自然と乗っかるものらしい。彼……。いや、彼女はヘルメット越しに笑っているような気がして、俺の色よい返事を待っているようにも思えた。
正直、ここまで派手な巻き込まれ方は初めてな気がする。
巻き込まれ体質と言っても、自分が主体ではなくあくまでも他人が主役であって、本当に巻き込まれて終わりなだけなのだ。
俺自身が事件の渦中に立って彼女に協力しようなんて……。
しかも、彼女は警察のお偉いさんの雇われで、とある事件の調査に来たと言っていた。
つまり、上層部が頭を抱えるほどのヤバい事件を彼女は請け負っていることになる。一度関われば、もしかしたらもう引き返すことが出来なくなる可能性だって十二分に有り得るんだ。
断るなら今しかない。だが、この巻き込まれ体質がいつまた危険を呼び込むか分からない。
もしかしたら、その事件とやらの犯人にされるとか、次は俺が犯人に無惨に殺されることになる可能性だってあり得るんだ。ならば、こちらから危険に近づいて原因の種を排除する方が、危険と分かっている以上は安心かもしれない。
彼女だって、協力しない人間に機密情報を明かすはずもないだろうし、もう受けるの一択しか残された選択肢はないようだ。
「分かりました。引き受けましょう。報酬、期待していますからね」
「そう来なくちゃな。じゃあ、早速だが現場近くまで向かうぞ。詳しい話はバイクを降りてからじっくりとな。昼食だって食いたいだろうし、そこでゆっくりとお話しようぜ。青年」
「よろしくお願いします。えっと、神鬼さん、でしたっけ?」
「神鬼麗奈。それが私の名前だ。青年、名前は?」
「俺ですか。俺は人ですよ」
「人? そりゃ、人間だからな。洒落か?」
「違いますよ。俺は周囲から人って呼ばれることが多いんです。自分の名前に同じ漢字が三つも入っていますし、あまりぱっとしなくて聞いた事のない苗字と名前ですからね」
「確かに、お前はすぐ忘れそうな顔してるからな」
悪かったよ、すぐ忘れそうで。
「じゃあ、代わりに私がちゃんと覚えておいてやるよ。ヒトちゃん」
「ヒトちゃん?」
「そう、名前。これなら忘れないだろ? 可愛らしいしよ、大学の一年坊主にはお似合いだ」
「……」
もういいや、それで。他人から仇名らしい仇名を「ヒト」くらいしか貰ったことないから新鮮味はあるけどさ、せめてもう少し男の子っぽい感じに呼んでほしかったと思った。