第三幕:犬君、帰ってくる
京都・二条院西の対(一幕の四年後)
舞台奥、第一幕で犬君が壊した内裏の模型(修理済み)と、
雛人形一対が飾ってある。
紫の上(十七歳)、右近(二十七歳)、話をしている。
取次ぎの女房・衛門(十六歳)、 橋掛りより入場。
衛「ただいま門前に、大江高章の妻という方が来て、『罷り申しに参上した』とおっしゃっています。お通ししますか?」
紫「大江高章の妻? 誰かしら」
右「……確か、もと女童で、『犬君』という人では」
紫の上、両手をぽんと打つ。
紫「そう! 犬君だわ! 来てくれたの?! 本当に? すぐにお通しして、早く」
犬君(二十一歳)、橋掛りの中央まで来ている。
壺装束、三十センチ四方の包みを持っている。
紫の上に相対し、両手をついて挨拶をする。
犬「姫様、皆様、ご健勝で何よりです。犬君でございます。夫が、越前から筑前に国替えになりましたので、ご挨拶に参りました」
右「越前はいかがでした? 大変に雪深いところだとか」
犬「越前の雪はすごいですよ。建物の軒まで積もります」
犬君、扇子で雪の高さを示す。驚く一同。
紫の上、立ち上がる。
紫「犬君、今まで何をしていたの? どうして一度も来てくれなかったの?」
犬「いやそれは。越前におりましたから。やめる時に散々暴れた手前、手紙も出しにくうございましたし」
紫の上、へたへたと座り込む。
衛「噂では、若狭に宋人が七十人漂着したとき、越前の国司が漢詩のやり取りをしたけれども、通じなかったとか。本当ですか?」
犬「よくご存知ですね。わたくし、詩宴の時、端女の格好で侍っていましたの。どうしても宋人を間近で見たくって」
一同「はあ」
犬「国司殿の心入れの漢詩は、宋の人には鼻も引っかけてもらえなくて、残念でした」
右「端女の恰好、ご夫君には何も言われなかったの?」
犬「宴の途中でわたくしに気がつきましてね。目を白黒させておりましたわ。ほほほほほ」
右「相変わらず、やりたいことはみんなやる人ね」
犬「そうそう、お土産を持ってまいりました。 宋人からいただいた『輪鼓』です」
犬君、風呂敷包みを解き、輪鼓本体と、糸でつながった棒二本を取り出す。
犬「まずは、本体を床において、真ん中のくびれたところに糸を通し、右から左にころころころっと転がします。両手の棒を持ち上げて、右手の棒をとんとんとんとん引っ張ると、回転が速くなります。やってみますね」
犬君、立ち上がり、輪鼓の実演。(拍子が入る)
輪鼓を背面にとばしたり、足のまわりを回したり、派手な技を披露する。
曲が終わり、一同拍手。
紫「……久しぶりだわ、こんなに笑ったのは。犬君の夫君は、本当にお幸せね」
犬「姫様はどうです? 光の君と内々に祝言を挙げたと聞きましたが。お幸せですか?」
紫の上、答えに困ってうつむく。
犬「越前にも、聞こえておりますよ。前の東宮妃と、北の方との車争いとか。
右大臣の六の姫君との一件とか」
紫「……よくご存知ね」
犬「姫様を心から大切にしてくれる男は、他にもいると、犬君は思っていますけど」
右「光の君も、上を大切にしておられます」
犬「そうかしら? 自分のことも、他人のことも大事にしない男かもしれない。
でも、わたくしも、結婚してみて、姫様がここを離れられない気持ちも、わかった気がするんです」
紫「本当に?」
犬「情が移ると言うか、離れては暮らせなくなりますよね」
紫「……そう、分かってくれるの。
でも、それでは、犬君はまだ戻ってきてくれないのね? どんなに頼んでも、無理なのね」
犬「申し訳ありません」
紫「いいのよ。でも筑前は遠いわ。手紙を書いてもいいかしら」
犬「もちろん♪ 文を賜りませ。返事は必ず書きましょう。でも、愚痴は無しでお願いしますよ」
紫の上、うなづく。
犬「長居をいたしました。では姫様、失礼いたします。皆様もどうか息災で」
犬君、一礼して立ち上がり、橋掛りから退場。
一同、静かに見送る。
【終】
罷り申し……地方官が任地に赴任するとき、参内していとまごいをすること。
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