某所
「何十年ぶりに休んだ気がするなあ」
紀香はうんと背伸びをして、澄んだ空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
その隣では静が柵越しに羊の体をモフモフと触っている。紀香は有給休暇を取って、静と一緒にとある観光牧場へと遊びに来ていた。
世間では五輪熱が収まりかけていたが、紀香は多忙を極めた。何せ金メダリストという、ごくわずかなアスリートしか手に入れられない栄誉を手にしたものだから周りが放っておくはずがなかった。
数々のテレビ番組に出演して、県知事を表敬訪問し、空の宮市の市民栄誉賞授賞式に出席。母校の星花女子学園で講演会ついでにソフトボール部の特別指導。その他にも道を歩いているだけでもサインや握手をねだられるようになった。ファンレターも山程届いて律儀に一通一通返信したものだから腱鞘炎になりかけたこともあった。そのような日々が一段落したところでようやく休みらしい休みが取れたのである。
だがそれもつかの間で、リーグ後半戦が間近に控えている。金メダリストの看板を背負うことになるので、周りからのプレッシャーは凄まじいものになるだろう。しかし今はソフトボールのことを忘れて、静とのデートを精一杯楽しむことにした。
「お、触れってか?」
静に手を引かれて、紀香も羊の体に触ってみた。柔らかくふんわりとした感触に「おおっ」と声を漏らした。
「メェェ~」
羊が鳴くと、紀香も「メェェ~」とマネた。
「すんげー気持ち良い。でも羊よりも犬の方が好きだなー」
紀香はそう言うなり静の両頬を撫で回した。こっちはムニムニとした弾力があってこれもまた良い感触だったが、丁寧に手をどけられてしまった。
人気はまばらで、こちらに誰も気づいていない。だからこそスキンシップをしてみたのだが、続きはまた二人きりになったときにすることに決めた。
ぐうう、という低い音がしたが、当然ながら羊が発するような鳴き声ではない。正体は紀香の腹の音であった。静にクスクスと笑われて、紀香は照れ笑いするしかなかった。
「ここのレストラン、ステーキとアイスクリームが上手いって評判なんだよなあ……今だけ目一杯食べようぜ?」
静はしょうがない、といった感じでうなずいた。
高校時代のように好きなだけ飲み食いできていた頃と違い、今は静が栄養学的に考えて作った食事を適量食べている。適量とはもちろん静の考える適量であり、紀香にしてみれば少ない方だ。だがこれもパフォーマンスを発揮するためであり、五輪の切符を掴めたのも静がしっかり食事管理をしてくれたおかげといえる。
8年先、まだソフトボール競技が開かれるかどうかわからないがロサンゼルス五輪に備えて、これからも静とともに歩んでいくのである。
「よーし、行こうぜ!」
紀香と静は手を繋いで、レストランに向かっていった。