横浜ベイサイドスタジアム一塁内野席
あのときは冬だったな、と黒犬静は紀香と恋仲になった頃を思い出す。そのとき観たソフトボールの試合もかなりの生徒が応援に駆けつけていたが、それとは比べ物にならない程の観客が周りにいる。その大半が日本代表のレプリカユニフォームを着ているから座席が赤く染まっているように見える。
静が着ているのはもちろん、背番号3。一緒に観戦している両親も同じく紀香のレプリカユニフォームを着て声援を送っている。楽しそうな両親の顔を見るのは久しぶりだ。
思えばいろいろあった。紀香がクジテックに入社したその翌年、静は後を追うようにして埼玉に向かって二人暮らしを始めた。現地の専門学校に通って栄養士の資格を取り、今は給食センターで勤務しているが、資格を取った本当の目的は紀香の胃袋の管理にあった。
紀香はとにかく大食いだが、自分で料理することができない。事実、紀香が先んじて一人暮らしをしていたときは外食するかコンビニ弁当を食べるかの二択で、高校の寮の食事に比べて栄養が偏っていたから何度か体調不良に見舞われたという。これじゃダメだということで、静は同居を始めてから学んできたことの実践を兼ねて、手料理を食べさせるようにした。元々父親から手ほどきを受けていたこともあり、紀香は美味い美味いと作るものは何でも完食してくれた。それからは全く健康であり、現在に至るまでお互い支えたり支えられたりしている。
そして紀香は今、世界一をかけた戦いに挑む。今朝、ほんの1、2分程度だが紀香と電話で話をした。クッキーの差し入れに対する御礼だったが、味は選手たちの間で大好評だったと言ってくれた。
あのとき、寒い冬の中で試合に臨む紀香にどうしても差し入れがしたいと、父親に教えてもらって作ったのもクッキーだった。形はいびつだったが、美味しそうに頬張ってくれたことを今でもはっきり覚えている。今では当時と比べ物にならないぐらい菓子作りのスキルが上がったが、あれ以上に紀香を喜ばせるものを作ろうとするのは難しいだろう。
しばし思い出に浸っていたところ、大歓声が聞こえてきた。
日本語と英語のアナウンスを受けて、背番号3がゆっくりとバッターボックスに向かっていく。34000人の地鳴りを伴う声援がグラウンドに飛ぶ。
相手投手はアメリカ人ながら日本の実業団リーグで長年プレーしているベテランであり、リーグ戦では紀香をカモにしてきている。予選最終戦でも紀香から全打席三振を奪って日本の進撃を食い止めた。
紀香がユニフォームの胸に手をやったのを、静は見た。あの中には昔、静が渡したお守りが縫い付けられている。恋人どうしになる直前に渡した必勝祈願のお守りを、今でも大切に持ってくれているのだ。
どうか今日は打たせてあげてください、と、静も両手を組んで祈った。
「しゃあっ、来いっ!!」
打席に立った紀香の咆哮が、静と34000人の耳に届いた。テレビ中継のマイクも声を拾って、日本中に届けられていることだろう。相手投手もつい失笑したが、格上の立場にいる精神的余裕から来るのか、それとも紀香の元気の良さを微笑ましく感じたのか。
それでもすぐに真剣な面持ちに戻って、サインの交換を済ませた。長い手がムチのようにしなり、風を切る音が聞こえてきそうなほどの豪快なウインドミルで黄球が投じられる。
球をじっくり見ていくことを、紀香はしなかった。渾身の力でバットを振り抜くと、鈍い打撃音が轟いた。
大歓声に乗って、黄色い軌跡が漆黒の夜空に描かれていく。みんなボールの行方を追っている中、静だけは紀香の方を見つめていた。
今、日本中が紀香に魅了されている。ジャッジを待たずに右腕を掲げて走る姿を、静は以前から何度も見てきて、その都度魅了されていた。星花女子学園の撫子色のユニフォームを着ていたときも。クジテックの緑色のユニフォームを着ているときも。そして日本代表の真紅のユニフォームを着ているこのときも。
もう一度、歓声が大爆発する。照明に照らされる中で小躍りする紀香の姿は、一段とまぶしかった。