第67話 沙夜
僕が戸惑っていると、気付けば目の前にいる彼女に近くまで詰め寄られていた。その蒼い瞳は僕の事を強く見つめていた。
細くしなやかなその手で僕に触れた彼女はこちらに話しかけてきた。
「質問に答えてよ。貴方は誰?」
そのシンプルながら少し威圧のある様子に気圧された僕は慌てて答えた。
「僕の名前はアリスタ。学院から魔物退治に来て、それでしばらくの間、滞在する為の部屋を案内されてここに来たんだ。」
そう分かりやすい様に自分の素性を答えると彼女は僕の服装を全て見ていってから言った。
「そうなんだ。じゃあ魔法使いなんだね。」
彼女は魔法使いを知っている様だった。それに今さっきまでの警戒心は少し緩んでいる。
その様子を見て少し安心した僕は彼女に問いかけた。
「まぁ、まだ未熟な見習いみたいな立場なんだけどね。それで君の名前は?」
そう言うと、彼女は僕に向けて少し微笑んでから言った。
「私の名前は沙夜って言うの。」
沙夜と名乗るこの少女に、僕は続けて問いかけた。この部屋がもし彼女の物だった場合、どうすればいいか悩んだからだ。
「えっと、紗夜さん。僕はこの部屋を使ってもいいのかな?」
「私も本で調べたくて、普段は空き部屋のこの部屋を勝手に使っていたから。貴方が使ってもいいと思うよ。」
そんな僕の問いかけにあっさりと答えた沙夜。この部屋が彼女の物では無い事と、ついでにありがたい事に居座る許可も貰ったので安心した。
そして少しだけ奥の方に入ってから僕はこの部屋を改めて見直した。
確かにこの部屋の棚には色々な本が多く置かれていて、ベッドの上には図鑑と恐らく沙夜の物だと思われるスケッチブックが置いてあった。
その中に何か描いてあるのかと、少し気になった僕は彼女に問いかける。
「その後ろにあるスケッチブックは君の?」
すると沙夜は嬉しそうに、そのスケッチブックを手に取ってきて誇らしそうに見せて来た。
「それは私のだよ。ずーっと一人ぼっちだったから、暇な時にはよく絵を描いたりするの。良ければ見てくれる?」
強烈だった。彼女のした上目遣いと頬を少し赤らめるのは反則だと思う。その時点で僕の中には断ると言う選択肢は無くなっていた。
その姿はもう僕と同じ存在とは思えない、例えるなら天使…いや女神だろうか。
今まで出会ったフラム、霧ヶ谷、マリア、三人の顔立ちが悪い訳では無いのだけど、それを遥かに凌ぐ美しさと可愛らしさがそこに混在していた。
「僕はあんまり絵に詳しくは無いけど。それでもよければ。」
「全然大丈夫だよ、じゃあ見て!」
僕がそう言うと、彼女はそう快活に応えてスケッチブックをパラパラと捲った。
そしてその中で恐らくお気に入りであろう作品を一つ一つを少し不安げに、僕に見せて来た。
その中には高い建物だったり、僕が見た事無い様な景色に、名前も知らない様な変わった生き物がそこには鮮明に描かれていた。
「これはどこの景色なのかな?」
「外の世界の事が描いてある本を見ながら、私の思うままに描いてみたんだよ。それでどうかな。上手い?」
その問いかけに彼女はもじもじとしながら聞き返して来た。残念ながら僕には、この絵が上手いかは分からない。
だけど、そこに描かれた物は紛れも無い彼女の世界を完璧に表していた。空を舞う鳥に、それを見上げている少女。
どれもが幻想的で情熱があり、僕にもその強い情熱が感じられた。だから素直に思った事を伝えようと思った。
「細部まで完璧に描けてるから、とても上手だと思うよ。それに線もしっかりと描けてる。何より絵心のない僕にも、その絵の中から情熱が伝わったから、凄くいい絵だよ。」
「えへへ。」
僕がそう感想を伝えると、彼女は明るく微笑んで喜んだ。
それだけで僕も幸せになった。もしかしたらの感情は恋なのかもしれない。
そういう風に考えていると彼女はベットに腰掛けてその隣に僕が座る様に促して来た。
そこに座ると、沙夜は白く細いその指先を僕の指に絡めて来て、僕は凄く緊張した。
そしてゆっくりと彼女は話し始めた。
「…沙夜はね。ずっと昔からこのお城の中で暮らしてるんだ。」
彼女がそう言った後、僕はその意味が何となく分かった気がした。彼女は美しいけど、それと同時に儚く脆い。
その体の白さは病的でもあり、神秘的でもある。だから沙夜の事が知りたくて、僕はそれを聞いた。
「体の病気なのかい?」
そう問いかけると彼女は僕に向けて、どこか悲しげに微笑んで見せた。
「うん。昔から私が体を動かす度に怪我をしちゃうから外に出た事は滅多に無いの。」
そして彼女は言葉を続けた。それは叶わないと知りながらも、自分の思い描く理想の夢を語るみたいに。
「でもね。いつか、いつかきっと体が治ったら絵で描いた様な、広くて綺麗な外の世界を見たいなって思ってるんだ。」
その言葉を聞いた僕は心が痛くなった。だから僕に保証なんて出来ないけど、彼女に少しでも笑って欲しかったから言った。
「きっと出来るよ。」
そう言われた彼女は不安げに僕の方を覗き込んだ。
「本当?」
それに僕は答えた。
「本当だよ、だから約束しよう。いつか必ず君の病気を治して、外の世界に連れて行ってあげる。」
そして僕は、その約束を出来る限り果たす事を胸の内で決めた。
「うん!約束だよ。アリスタさん。」
そう僕に向けて、明るく笑ってくれた。だけどその後に彼女は俯いて咳をした。
「ゲホッ…。ゲホッ。」
彼女の顔が赤い、触れている指先もとても熱い。
「大丈夫?」
僕が問いかけると彼女は申し訳無さそうに言った。
「…ごめんなさい。ちょっと体調が悪いかも。」
「謝らなくていいよ。それで、僕はどうすればいいかな。」
「…部屋まで…運んで。」
喋る事も辛いのか、辛うじて伝えてくれたその言葉の通りに、僕は彼女をおんぶして急いで駆け出した。彼女の部屋がどこなのか分からないので、所々案内してもらって何とかそこにたどり着いた。
〜
彼女を部屋まで運んだ後、ベットで下ろして横たわらせた。
「そこにあるお薬を貰えますか?」
彼女が指差した机の上に置いてあったその錠剤を僕は手に取って彼女に渡した。
「これだよね。はい。」
「ありがとう。アリスタさん。」
少しやり取りをした後、彼女は隣に置いてあるコップに入った水と共に錠剤を飲み込んだ。
それでもまだ見てる感じだと、彼女の顔や体は真っ赤だ。でもこれはその肌の白さもあるかもしれない。
「大丈夫?」
「うん。このお薬を飲んでから、しばらくの間は体が楽になるから大丈夫だよ。」
僕の問いかけに彼女がそう答えたので、僕は安堵して呟いた。
「なら良かった。」
ホッと胸を撫で下ろすのと同時に、この部屋のドアが開いた。誰だろうと思ってその方向に目を向けると、そこには霧ヶ谷が居た。
「霧ヶ谷じゃないか。僕は彼女が体調を崩していたからここまで連れて来たんだ。」
僕が霧ヶ谷に事の経緯を伝えると、何か凄い神妙な面持ちで僕に言葉を返してきた。
「それはありがとう。だけどもう私の妹に関わらないで貰えるかしら。」
「どうしてまた。」
それに対して僕が聞き返すと、彼女は普段の時からは想像出来ないくらい取り乱しながら答えた。
「その理由は言えない、この部屋から早く出て行って。」
その瞳はどこか、大切な物を奪われたく無いという風に見えた。
でも様子だけじゃなくて、何か彼女にとって僕が関わってはいけない理由があるのだろう。
「分かった。」
そう思った僕は沙夜と霧ヶ谷を残して、この部屋から出て行った。
〜霧ヶ谷時点
「おねーちゃん。アリスタさんは私を助けてくれた凄くいい人だよ。どうして追い出そうとするの?」
沙夜は私にそう問いかけてきた。確かにあんなの私の八つ当たりだ。
彼が居なかったら、沙夜の容態はより危ない事になっていたかもしれないと言うのに。
「沙夜はアリスタ君の事を忘れなさい。この先にもう会う事はないのだから。」
そうだと言うのに、気付けば私は沙夜にこう言っていた。自分が心底嫌になってしまいそうで、自己嫌悪から潰れそうになる。
そんな私に沙夜は純粋に問いかける。
「どうして?」
その一言に私は答えられない。自分が彼を殺すから…なんて言える訳が無い。
「ごめんね。」
私は謝ってから沙夜を抱きしめた。こんなのきっと独りよがりなのかもしれない。だけど沙夜はそんな私に優しく背中を撫でながら言った。
「おねーちゃん。何があったかは分からないけど、きっと大丈夫だよ。大丈夫だから。」
大丈夫。本来なら私が沙夜に言わなきゃならないその言葉を言われて、私は胸の奥が熱くなった。
何もかも、胸の奥に仕舞い込んだ辛い感情を全部吐き出してしまいたくなった。
「…ねぇ。もし私が沙夜の為に人を殺さなきゃならなくなったら、どうすればいいのかな。」
私はそう問いかける。これは「もし」じゃない。これから私が選ぶ選択肢。
最初から沙夜の為に殺すと決めているけど、それでも分からなくなって、頼りたくて。
それでも沙夜に聞いてしまうのは間違っている。そう頭の中では分かっているけれど、聞かずにはいられなかった。
「それが私の為だとしても。おねーちゃんが傷つくなら、そんな事やらなくていいと思うよ。」
そう沙夜は思うままに答えてくれた。その答えも優しくて、その優しさが私の壊れそうな心を繋ぎ止めてくれた。
こんなに優しくて、正しいこの子が死ぬなんておかしい。あってはならない。
なんで世界は平等じゃ無いんだろう。どうして普通の優しい女の子の沙夜が、病気で苦しまなきゃいけないんだろう。
色々な感情が内側でぐちゃぐちゃに掻き混ぜられながら私は悩んだ。
皆だって、こんな当たりのキツい私にだってよくしてくれたいい人だ。だから殺したくなんてない。
だけどそれ以上に沙夜の事が私は大好きだから。…だから。
「変な事を聞いちゃってごめんね。ありがとう、沙夜はとても優しいのね。」
私がそう言うと、沙夜は申し訳無さそうに私に言葉を返してきた。
なんでそんな表情をするのだろう。何が沙夜をそんな気持ちにさせているのだろう。私も不安になりながらその言葉を聞いた。
「本当に謝るのは私の方だよ。いつもいつも迷惑ばかりかけて、ごめんなさい。」
私にとって迷惑な訳が無い。
貴方がいればそれだけでいいのだから。沙夜が生きていてくれれば、それだけで構わない。
「いいのよ。貴方が幸せなら、私はいいの。」
健気で優しい沙夜の事が愛おしくて、私は頭を撫でて沙夜に頬擦りをした。
暖かい柔肌に癒されながら、より一層近付いてベットの上で体を絡めた。
すると沙夜は私に甘える様に言った。
「おねーちゃん。もう少しだけ、このままでもいい?」
私は沙夜から自分の事を求められて嬉しくなった。必要とされているだけで心の奥が暖かい物でぽかぽかと満たされていく。
「いいよ。私ももう少しだけこのままでいたいから。」
私は束の間の幸せにそのまま身を委ねた。ずっと、この時間が終わりませんように。
そう強く心の中で祈りながら。
最後までお読みいただきありがとうございます。
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