働く男
働く男の朝は早い。
六時にセットしたアラームに叩き起こされ、彼は眠そうに目をこすりながら体を起こした。あまりの寒さにもう一度布団に戻りたくなる気持ちをぐっとこらえて、暖房のスイッチを入れた。部屋が暖かくなるまでスマホをいじるが、特に誰からも連絡は来ていない。先日振られた彼女のことを思い出し、あまりの辛さに全てを捨てて二度寝したくなる気持ちをぐっとこらえて、彼は布団をたたみ、朝食の準備をした。コーヒーとトースト一枚の簡単な朝食をスマホをいじりながら無心で食べ終え、トイレに行き、顔を洗いに洗面台へと向かった。鏡の奥には、少し白髪の混じったボサボサ頭の三十路の男が立っていた。彼は思わず苦笑いをした後、歯を磨き、髭を丁寧にそり、頭を流した。
髪をドライヤーでセットし、クローゼットから少しくたびれたスーツを取り出した。高級なスーツとは決して言えないが、少し上等なスーツである。振られた彼女からもらったことを思い出し、破り捨てたくなる気持ちをぐっとこらえて、手慣れた手つきでネクタイを締めた。
スーツの上にトレンチコートを羽織り、いつものカバンを手にして彼は家を出て、歩いて十分の駅へと向かった。適当に音楽を流したら槇原敬之のもう恋なんてしない、が流れ出したため、慌てて次の曲へと飛ばしていたら駅に到着した。
勤務先は電車で1時間半、乗り換え二回。新入社員であった彼は通勤時間よりも家賃の安さを優先した。だが彼はすぐにそれは失敗だった、と悟った。
彼が住んでいる場所は巨大なベッドタウンであり、通勤電車はいつも満員である。この日も当然、開かれたドアの向こうには人々が圧縮されていた。駅員に押されながらその一員へと入る。スマホを取り出す余裕すらなく、彼は痴漢に間違われないことを祈りながら集団の動きに身をまかせる。安物のイヤホンから流れる音楽だけが救いである。と思っていたらゆずのサヨナラバスが流れ出し、曲を飛ばす余裕すらない彼は泣きそうになりながら先日振られた彼女に思いを馳せた。
別れは突然であった。学生時代から付き合い、そろそろ結婚を考え出した時に彼女から別れを切り出された。他に好きな人ができた、ということであった。彼女は非常に頑固な性格で、一度決めたらテコでも動かないことを彼はよく知っていたので、彼は何も言えなかった。
彼女はそんな彼に何度も謝った。しかし最後には、何も言わない彼に向かって、そういうところが嫌いでした、とダメ出しをされ、完全にノックアウトされてしまったのであった。
そんなことを思い出しながら辛い気持ちになっていると、いつのまにか乗り換えの駅へと着いた。彼は急いで次の電車に向かう一団とともに走った。体力は日に日に落ちていく一方で、電車に乗り込んだ時には虫の息となってしまった。
2回目の乗り換えも終わり、とうとう勤務先へと到着した。大企業というにはあまりに規模は小さいが、なかなか有名な会社である。
おはようございます、と挨拶をするが、周りの反応は冷たい。返事を返してくれたのは数人だけであった。肩を落としながらデスクへと向かい、パソコンの電源をつけた。
午後には社内プレゼンがある。準備は念入りに行ったが、彼は一応パワーポイントの確認をした。その瞬間、彼は青ざめた。先日訂正したはずの情報が上書き保存されていなかったのである。
夜遅くまで準備をしていたため、最後の最後にとんでもない失敗をしてしまった。彼は慌てて上司へと報告をした。40を超えた、普段は温厚な上司が本気で怒った。朝から血管が切れてしまうのではないかと心配になるほど怒った。彼は泣きそうになりながら、昼食も抜いてパワポの訂正とプレゼンの準備を行なった。皆昼食を食べに行き、誰もいない社内で少しだけ泣いた。
いよいよプレゼンの出番がきた。彼は人前に出ることは好きではなかったが、今では無難にこなすことができるようになっていた。パワポのアニメーションがうまく動かなかったり、説明が多少しどろもどろになる部分はあったが、なんとか自分の出番は終わった。ほっと胸を撫で下ろしていると、上司が肩を叩いてくれた。彼はまた少し泣きそうになった。
定時となったが、誰も帰ろうとするものはいなかった。彼も当然帰ることはできなかった。夜七時、なんとか仕事を一通り片付けて帰ろうとすると、彼は上司から飲みに誘われた。
内心面倒臭かったが、本日のプレゼンのこともあったので彼は付き合うことにした。近所のチェーンの居酒屋に入り、枝豆や唐揚げをつまみながら生ビールを飲んだ。仕事終わりのビールは格別にうまい、という話で盛り上がり、仕事終わりの唐揚げもうまいという話でも盛り上がった。
一通り話が終わった後、上司は急に真面目な顔になった。彼は嫌な予感がした。案の定、上司は彼に諭すように説教を始めた。朝のように声を荒げることはないが、淡々と、ミスが多い、自己主張が弱い、自分から仕事をしようとしない、上昇志向にかけている等々、三十分以上語った。
彼はまた泣きそうになった。ビールの泡は完全に消えてしまい、居酒屋で流れる乃木坂の音楽が妙にうざったく感じた。
しかし、その後上司は笑いながら、彼のいいところ語った。真面目に取り組むところ、人のことを思いやるところ等々。そしておきまりの、俺はお前に期待している、というセリフとともに彼にビールを進めた。彼は思い切って一息で飲み干した。上司は少し驚いたのち、大きく笑った。そこからは仕事の話はやめて、楽しく飲んだ。
上司が最近ハマっているゴルフの話や、彼が好きな音楽の話のような雑談から、上司が娘から冷たくあしらわれていることや、彼が最近彼女にフラれたことなどのリアルな悩みまで話をした。
そうこうしているうちにお酒は進み、二人ともほろ酔いになりながら店を後にした。お金は上司が払った。終電にはまだ早かったが、ここでお開きという話になり、駅で別れた。
行く前は面倒臭かったが、楽しい夜だった、と彼はしみじみ思った。この時間だと電車も空いている。ゆったりと座りながら彼は明日からの休日に思いを馳せた。
やりたいことはたくさんあるが、どうせまた疲れて眠るだけなのだろう、と彼は苦笑いをした。上司はまた家族サービスに追われるのだろう、別れた彼女はきっと素敵な人と楽しく過ごすのだろう、等と空想しながら、彼はイヤホンを取り出し、音楽を聴きながら浅い眠りについた。
三日後に再び働く男に戻るまで、しばしの休憩である。
働く男の一日は長い。たとえ大したことはしていない、平凡な一日だとしても。