二話
状況を整理しよう。驚きのあまり寒さすら感じなくなった狼牙は、水面に映った美少女の姿を凝視した。髪は真っ白で、目は赤。そして何より、頭頂部にはふさふさのオオカミめいた耳が生えていた。思わず手で触ると、そこには確かにケモミミがある、触る感覚も、触られる感覚もあった。作り物ではない。
「嘘だろ」
気付いてみれば、声も聞きなれた自分の物ではない。疲れからか若干掠れているが、高く澄んだ女声だ。そして耳に続いて全身をぺたぺた触ると、そこにあるのは鍛え上げられた自慢の肉体などではなくプニプニの軟らかな身体であり、なおかつその胸は豊満だった。
もはや否定のしようがない。狼牙の肉体は美少女へと変貌していた。元の面影など一切ない。知り合いに向かって自分は大神狼牙だと訴えたところで、誰一人として信じはしないだろう。夢だと断じたいところだが、それにしては周囲の情景がリアルすぎた。
「うっ」
そこでやっと狼牙は、周囲が極寒の地獄であることを思い出した。防寒着の類を身に着けていればましなのだろうが、なぜか今狼牙の身体を包んでいるのは下着めいた地味なインナーの上下だけだ。とても雪で閉ざされた森の中をうろつく格好ではない。
「やっべえ、どうすんだ」
このままでは凍死待ったなしだ。暖を取る場所があればいいが、近くを見渡しても風雪をしのげそうな場所など無い。ならばどうするべきか。
「走るしかねえ」
彼は脳筋だった。言うなりパンと頬を叩き、猛烈な勢いで走り出した。
「うげえ、う、はぁ」
そして僅か数十秒でばてて倒れた。この体のスタミナは無いに等しいようだ。一瞬だけ身体は暑くなったが、大汗をかいたせいでむしろ冷えたくらいだ。完全に逆効果である。
「ど、どうすんだこれ……」
雪の積もった地面に大の字になって倒れ伏しつつ、狼牙がつぶやく。実際、このままだと凍死は避けられないことは彼も理解していた。しかし、打開策など思いつかない。思わず、身を縮めた。むやみに走り回ったせいで最早立ち上がる元気すらない。
「糞がッ……!」
あまりに意味不明な状況に思わず悪態が漏れた。こんな場所で、こんな意味不明の状況で死ぬなど御免こうむる。全身に力を入れて立ち上がろうとし、バランスを崩して転んだ。それでもあきらめず、萎えた足に力を込めたところで……
「オイオイオイ」
低い、しかしよく通る男の声が聞こえた。あわててそちらの方を見る。分厚い毛皮の外套を纏った若い男がそこには居た。
「妙な声が聞こえたから着てみたら……やっぱり遭難者かよ、まいったね」
群青に近い特徴的な黒髪を掻きつつ、男はぼやいた。そして小さなため息をつき、続ける。
「助けは必要かい、お嬢ちゃん」
「おじょ……ッ!」
狼牙は予想外の言葉に、狼牙は憤慨しながら今度は足をもつれさせることなく立ち上がった。そして人差し指を男にびしりと向け、叫ぶ。
「俺は男だ! 女じゃねえ!」
「は?」
そうはいっても、どう見ても狼牙は男ではないことは明白だ。男は一瞬言葉に詰まった。そして狼牙の真冬にはあまりにもふさわしくない格好を見てぽんと手を打ち、勝手に納得する。寒さで錯乱するのは遭難者にはよくある話だ。その類に違いあるまい。
「なるほどなるほど、わかった。何にせよ、そのカッコウじゃ寒いだろ? 貸してやるよ」
「わっ!?」
そう言って、男は来ていた外套を脱いで狼牙に投げ渡した、顔面に毛皮の塊が直撃した狼牙は色気のない悲鳴を上げたが、文句も言わずに慌ててそれを羽織る。分厚い毛皮で出来たそれから漂う男の体臭に、なぜか狼牙の心臓がどきりと跳ねる。感じたことのない妙な感覚を首を振って払いつつ、首元の紐を縛った。なかなか長身なこの男の着ていたものだから、今の狼牙が着るとさすがにぶかぶかだ。
「すンません」
とはいえこの状況で文句を言えようはずもない。狼牙は一礼しながら、男に視線を向けた。
「ん?」
妙な声を上げる狼牙。それは、男の身なりがあまりにも奇妙だったからだ。動きやすそうな金属製の軽鎧姿で、腰には長剣を佩いている。現代日本であればコスプレ以外ではありえない格好だ。
「どうしたよ」
「いえ、なんも」
異常事態の連続にいちいち驚くことにすら疲れた狼牙は、静かに首を振った。もはや開き直りの境地に近い。
「そーかい。んじゃ、ついてきてくれ。近くに街があるんだ、流石にこの格好じゃおれも寒い。そこで防寒着を見繕ってやる」
そう言うと、男は手をひらひらと振りながら踵を返して歩きだすのだった。