第一話 トイレの対面にあるものはなに?
『トイレから出れないので、今日のゼミ、休みます』
唐草川研究室のメンバが入っているグループラインに、そのメッセージが届いた。
最初に確認をしたのは、四年生の村本だった。
「え? なにこれ、おもろ」
「どうしたん?」
村本の反応を見てから、宮川が問う。
彼は今、研究室のパソコンで自身の研究であるシミュレーションを走らせているところで、ディスプレイには幾何学模様が浮かんでいた。
研究室の壁一面は、パソコンで覆われている。
理由は、研究費を費やして、それぞれの人間に、パソコンが割り振られているからであった。
唐川草研究室には、八人の四年生と、三人の院生、総数十一人の学生が居る。
研究室の特徴は、ゼミ以外、ほとんどの人間が研究室に来ない、というところである。
要は、研究室であれ、家であれ、どこでもいいから、やることさえやるならば、文句は言わない。
格好の良い表現をするならば、実力主義の研究室なのだ。
其の中でも、最も頭が切れるといわれているのが、宮川だというのは、研究室周知の事実であった。
四年生では、彼だけが、すでに卒業を手にしていると言ってよかった。
言うならば、自由、言うならば、自己責任、
そんな言葉を当てはめることができる研究室において、唯一の縛りが、週一日あるゼミには必ず出席である。
それにさえ、出れば、基本はなにも言われることはない。
だが、就職活動であろうが、病気であろうが、それに出なければ、研究室のボスである唐草川教授から、雷を落とされるというユニークな研究室である。
だからこその、村本の反応、
「ライン、見てみろよ」
「ライン?」
宮川は、ポケットからスマホを取り出し、画面に表示されているメッセージを見て、眉を片方上げた。
「なんだこれ?」
言葉には、若干の含み笑いが込められている。
それを確認して、村本が馬鹿にしたように、
「ガッキーのやつ、アホやろこれ、あいつ先生にぼろくそ言われるやつやで」
「ほんまやな、アホとしかいわれへんな、ってかこれ、どういう状況? もしかして、トイレのトビラ開かへんとかかな?」
「なに? どうしたん??」
二人の会話を聞いて、彼ら近づく人物が一人。
彼の名前は、南蛇井太郎。
研究室のM1の院生である。
彼は、最も四年生と仲が良い院生であった。彼が担当をしている四年生が多いことが、その理由である。
「ああ、なんかガッキーが、トイレから出れないみたいで、ゼミ休むみたいですよ」
「は? どゆこと?」
南蛇井は、理解ができず首を傾げた。
トイレから出られないとは、どういう意味だ? と彼の頭では、必死に解を求める。
「え? それって、あれじゃないん、腹が痛いからって意味じゃないん?」
「はは、まあ、そうだとは思いますよ」
村本が、答える。
「でも、今の時間にするやつじゃなくないですか?」
「ああ、確かに」
南蛇井は、納得の頷きを返した。
彼らが不思議がり、笑いを禁じえない理由は、時間である。
ゼミの開始時間は、研究室の面々が全員夜型ということもあり、遅い。
早くても、昼からであり、今日の開始時刻は四限の時刻、十四時五十分からであった。
そして、現在の時刻は……
午前一〇時である。
現在、研究室に居るのは三人。
この三人は、たまたまそれぞれに用事があり、たまたま早く研究室に来ているだけであった。
「ガッキーの家って、そんなに遠かったっけ?」
南蛇井が、研究室の入り口近くに置いてある冷蔵庫に向かっていく。
村本が、スマホを見ながら、
「いや、言うて一時間くらいだと思いますよ。ってか、もしも遠かったとしても、連絡はやすぎでしょ」
と、居ない相手にツッコミを入れた。
それに、すかさず宮川が、
「これ絶対サボりですよ。腹痛くても、遅れるならまだしも、来れないことはないでしょ」
「いや、もしかしたら、盲腸とかで、やばいんかもしれへんで。二人とも飴いる?」
南蛇井は、冷蔵庫から、飴の入った袋を掲げた。
「あ、俺いります」
「俺は、大丈夫です」
村本は受け取り、宮川は手を振って断った。
それから、南蛇井は紙コップにコーラを注ぎ、一口飲んだ。
そして、彼は確認するように口を開く。
「でもあれか、それやったら病院にいくわな。さすがに」
「ですよね!」
村本が声を張り上げた。
彼は、続けて興奮気味に言う。
「病院に行くなら、病院に行きますって言うでしょし、腹が痛かったら、腹が痛いって素直に言うと思うんですよね。つまり、トイレから出れないって表現をしたってことは、ウソってことですよ。あいつ、舐めてるわあー」
村本は、唐草川研究室の中で、最もおしゃべりな人間だ。
それは言い変えれば、人の荒を探すのが好きだ、とも言える。
そして、現在ガッキーと呼ばれている人物は、彼の餌食によくあっていた。
「え、これちょっとまって」
そこで、宮川があることに気がつく。
「どうしたん?」
「これってさ、メッセージが届いたんは今かもやけど、実際に送ったんは8時前くらいみたいやで」
「え? うそん」
村本が確認する。
「あ、ほんまや。7時46分送信になってる。なんでや?」
「あれやろ、電波でも悪かったんちゃうか? たまにあるで、送信するのにクソ時間掛かるとき」
「まじか!」
と大きく村本は相槌をした後、
「ってことはあれやん! サボり決定やん!」
「いや、もしかすると、あれかもしれへんで」
「あれ?」
谷川が、含み顔で言う言葉に、村本はすかさず反応した。
「トイレがさ……」
と、谷川は、あえてゆっくりとした口調で話す。
それにより、村本と、自身のパソコンの前にたどり着いた南蛇井は、耳を傾ける。
「トイレが――そもまま異世界にいってもうたんかもしれへん」
「は? なにそれー!」
大声を出して、村本が笑う。
南蛇井も、肩を震わしてコーラを吹き出すのを我慢していた。
「やったとしたら、これがあいつからのラストメッセージってことやな!」
そんなやり取りがされている中、三人の会話の中心になっていた人物。というか、基本的に馬鹿にされていた名前であるガッキーこと、新垣カオルは、しゃれにならない状況に瀕していた。
そう、
あながち、人の想像って言うのは、残酷なのかもしれなく、的確に物事というものを突いているのかもしれない。
つまり、
想像ができるものは、現実の世界に還元することができるということだ。
ということで、軽はずみな発言は皆さん、よしましょう。
「どうなってんのこれ?」
ビックリするような腹痛から解放され、なんとかトイレから出ることに成功をした新垣カオルは、口をあんぐりと開けて、呟くように言った。
問いを発しても、誰も答えてはくれない。
目の前に広がるのは、トイレの個室の前にあるはずの、小便器の列ではなく、はたまた対面にあるはずの、個室のトビラでもない。
そこに広がるのは、見たことのない景色。
そう、
新垣カオルは、
トイレごと、異世界転移した。