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恍惚



27


朝の光で目が覚めた。

目の前に自分のものではない腕があって、その事実に千春はビクッとした。


その腕は千春を抱きしめていて、ちょっとやそっとでは離れそうにない。


自分の身体がいつもより気怠く、重く感じられる。


そうだ、私、昨日ーー

記憶が蘇り、千春は耳まで真っ赤になった。


もぞもぞした千春に気づいたのか、蒼司は千春の背中に話しかけた。

「千春さん……? 目が覚めたのですか……?」


その声は起きがけで掠れていて、妙に艶かしかった。


気恥ずかしくて蒼司の方を向けない千春は身体を固くしたが、蒼司は更に密着して千春の背中にキスをした。


「~~!!!」

千春は声にならない声を出し、その辺に散らかっている寝間着を取ろうと手を伸ばす。


すると、後ろから楽しそうに笑う声がした。

「我儘は出来るだけいいませんから、もう少しこのままで……」


口ではそういう蒼司だが、千春の身体は彼にガッチリ固定されていて、服を取ることさえままならない。


恥ずかしくてどうしようもなくて、蒼司の顔が見られない。

みんな、どうやってこんな恥ずかしい思いをやり過ごしているのかしら……。

本当に私の心臓は、どうにかなってしまいそうーー


また隣で蒼司が笑い、その吐息が千春の首に伝わった。

「千春さん、布団からはみ出そうじゃないですか。すみません。千春さんが離れようとする度に俺が千春さんにくっついてしまったから、追い詰められてこんなところまで来ちゃったんですね」


蒼司が初めて自分のことを俺、と呼ぶのを聞いて千春の胸がキュウっとなった。


「……蒼司さん」

ようやく言葉が出たのに、名前しか呼べない。

本当に胸が一杯な時は、言葉なんて出てこない。

それに言葉には出さなくても、千春がどんな思いでいるかなんて、蒼司にはきっとお見通しだ。


「すみませんが、ちょっと……」

蒼司が謝った、と思ったら千春はその両腕に簡単に引き寄せられ、知らないうちに布団の真ん中に仰向けになっていた。


「やっとあなたの顔が見られた」

千春の真上で愛おしそうに笑う蒼司を見ることになり、クラクラした千春は酸欠になりそうだった。



28


ようやく大店の立て直しが終わり、店に足を運んだ千春は、使用人が止めるのもきかず品出しの手伝いをしていた。


そんな時佐助が千春の顔を見ながら話しかけた。

「最近、若御寮人さん、何かいいことございましたか?」


ドキッとする千春は、咄嗟に言う言葉が思いつかず赤くなった。


するとやはり品出しを手伝っていた女中のお柳さんが呆れるように言った。


「あんなにあからさまなのに、ほんとに気づいてないのかい? お前の目は節穴かい」


お柳は、佐助がこの店に奉公するより前に大店に住み込みで働いていたので、今では佐助にとって実の母のような存在だった。


「ちぇっ、お柳さん、相変わらずひでぇなぁ。もちろん分かってるよ。でもそんなこと、若御寮人さんに面と向かって言えるわけないだろうが」


その言葉に仰天して千春の声が裏返った。

「わ、わ、分かってるって……」


佐助は少し申し訳なさそうな顔をして言葉を紡ぐ。

「すみません、若御寮人さん。だって、最近の若御寮人さんはいつも若旦那さんと一緒ですから。二人の間には割って入れない空気が充満しているし……ここいらで知らない人はいないくらいですよ」


千春は赤い顔のまま絶句した。


それを見た佐助は慌てて付け足す。

「いや、それは悪いことではなくて! 目出度いことだなぁ、と思いまして。実際、私は嬉しくてたまりませんし……。お二人は幸せになるべき方々だと思っておりますから」


そんな佐助の言葉に千春はハッとした。

清一郎の下へ嫁入りして以来、佐助にはいつも側で助けてもらっていたのだ。

私からそのことを報告すべきだったのかも知れないーーと千春は思った。


千春は思わず涙ぐみそうになりながら、「佐助さん、ありがとうございます」と有りっ丈の心を込めて佐助に伝えた。


その時の佐助の笑った顔は、真夏に咲く向日葵のようだった。



29


季節は巡り、春がやってきた。


朝起きるといつも隣に寝ている蒼司の姿がない。

人一人分の温もりがないと、こんなにも肌寒く感じるのかと千春はぼんやりする頭で思った。


寝惚け眼で起き上がった千春は、枕元にある半紙に気がついた。

そこには蒼司の端正な字でこう書かれていた。


ーー


おはようございます、千春さん。


今朝も君の寝顔は可愛かった。

そんな訳で今日も私は幸せです。


出かける準備をして、玄関を開けてみて。


ーー


千春は目をパチパチさせた後、蒼司からの言葉に顔を綻ばせ、笑った。


さぁ、今日もあの人は、どんな風に私を驚かせてくれるのかしらーー

千春は胸をときめかせ、急いで支度しようと立ち上がった。


いつもの反物に手を伸ばしたが、少し考え直して、普段は着ない余所行きの服を引っ張り出す。


こうしている間にも、蒼司の笑顔が恋しい。

毎日当たり前みたいに一緒にいるのに、可笑しいくらいだ。


支度を終えた千春は、初に少し外出する旨を伝え、取るものも取り敢えず家を出た。


後ろでは満面の笑みの初が、そんな千春を見送っていた。


外に出ると、馬車が目の前に用意されていた。

席から降りてのんびりしていた御者は、千春の姿に少し慌てて、すぐさま御者席に乗り込んだ。


何も分からない千春は、キツネに化かされたような気持ちになったが、蒼司のことを考え、思い切って馬車に乗った。


千春が座るとすぐさま、馬車が動き出した。

どこに向かうのかワクワクしながら、千春は流れ行く風景を眺めた。



30


四半時ほど過ぎただろうか。

ようやく馬車が停車し、千春は外に出た。


金銭を渡そうとすると、もう貰ったから良い、と言われた。随分と良心的な御者だ。


振り返り顔を上げると、蒼司が寛永寺仁王門の前で千春を待っていた。

千春の胸が高鳴って、思わず小走りになる。


「蒼司さん!」


「やぁ、早かったですね」

千春の姿を認めた蒼司は、満面の笑みで両腕を広げる。

その意図が分かった千春だが、周りに沢山の人がいることが気になり、躊躇った。

千春が恥ずかしがっている間に、蒼司の腕は千春を抱きしめる。


「会いたかったです」

千春は蒼司の声を聞きながら、彼の匂いを嗅いで安心した。


「……私も……」

蚊の鳴くような声で応じた千春を笑った蒼司は、「聞こえませんでした」と少しだけ意地悪を言う。


蒼司の思う壺だと分かっていても、どうしても頬が赤くなってしまうのを止めることができない。


「わ、私も……会いたかったです」

それを聞いた蒼司は嬉しそうに笑って、千春から身体を離した。


「それでは、行きましょう」

 

千春はこの時になって初めて、蒼司の左手に弁当箱が下げられていることに気づき、尋ねた。


「お弁当ですか?」


その反応に満足したような蒼司は、得意げに言う。

「ええ、早起きして頑張りました。楽しみにしていてください」


右手で千春と手を繋ぎ、歩き出す。


「ここはもしかして……」

千春は辺りをキョロキョロ見回す。


「今流行りの逢瀬場所ですよ」

自分のことを考えてくれる蒼司の言葉に、千春の心が温かくなる。


少し歩いただけで、千春は感嘆の声をあげた。

「わぁ………」


流石に東京随一のお花見処と呼ばれるだけある。

あまりに見事な光景に千春は息を飲んだ。


芋を洗うような賑わいではあるが、そんなことも気にならないくらい感動していた。


「千春さん、こちらに」

蒼司は千春の手を優しく引き、清水観音堂の裏手まで連れて行った。


そこにある桜は特に素晴らしかった。


「こちらは秋色桜というそうです。綺麗ですね」

蒼司は笑顔で話を続ける。

「この桜に纏わる有名な句がありましてね」


「何ですか? 聞かせて下さい」

千春は興味深そうに蒼司の顔を見た。


「ーー井戸端の 桜あぶなし 酒の酔ーーというのです。早い話が桜に夢中になるあまり、酒に酔って井戸に落ちては大変ですよってことですね。そんな訳で今日はお酒を持ってきませんでした。ただでさえ千春さんとお酒の組み合わせは危険ですから」


冗談めかして言う蒼司に、忘れたい記憶を呼び起こした千春は真っ赤になった。

「もう……」


声を出して笑う蒼司に又手を引かれて、適当な場所で腰を下ろす。


その時、強い風が吹いた。

桜の木々が風に煽られ、花びらが舞った。


木漏れ日に照らされて、

キラキラ、キラキラと

雪のように二人の下に降り注ぐ。


千春は何だか胸が一杯になり、泣きそうな気持ちになった。


時が止まってもいいーー

このまま、全てが固まってしまっても構わないーー


「願はくは 花の下にて 春死なむ その如月の 望月のころ」

句を詠んだ千春を意外そうな顔をして見る蒼司。

「西行ですか」


「この句が好きです。とても……。こんな光景を見ると、私もそうだったらいいなぁなんて思ってしまいます」


蒼司は微笑しただけで何も言わなかった。

そうして千春と共にただ桜を眺めていた。


いつしか風は止み、咲き誇る桜を眺める人々のはしゃいだ声が、千春の耳にも入ってきた。


桜に見惚れて微動だにしなかった千春の頭を、蒼司がそっと触った。

「花びらがついていますよ」

とびきり優しい眼をして言う蒼司に、千春はふわりと笑いかけた。




注釈:

 四半時というのは、現在の約30分程の時間を表します。


「願はくは 花の下にて 春死なむ その如月の 望月のころ」は西行の有名な俳句です。

 叶うことなら2月の桜の咲く下で逝きたいものです、という感じでしょうか。「如月の望月のころ」というのは、旧暦の2月15日(満月)を言うらしいです。太陽暦では3月末に当たり、西行の熱愛した桜の花盛りの時期に当たります。驚いたことに彼のその願いは叶えられたということです。


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