引力
20
半鐘が鳴った。
ハッとして千春は顔を上げた。
一回打ちは市内での出火ーー
嫌な予感がした千春は足早に大店へと向かった。
しかし大店に近づくにつれ、逃げ惑う人々や反対に火の元に向かおうとしている火消し、梯子を担いだ鳶口らしい道具を担いだ人たちで入り乱れて、中々前に進めない。
人々に揉まれながらも、なんとか前へ前へと進む千春は、丁稚の利松の一人を見かけ声を上げた。
「利松!!!」
千春の声を聞きつけた利松は、小柄な身体を上手く使って人の合間を潜り抜け、素早く千春の元へと駆けつけた。
「若御寮人さん! ご無事でなによりです!」
「うちの状況はどうなってるの?!」
いつもの丁寧な言い方も忘れ、詰め寄る千春。
「佐助さんと正吉さん、市松と私の四人で高価な商品や家財を運び出しました! 三人は火の手の上がらない方にそれらを持って逃げています。私は若御寮人さんへの言付けを頼まれていたので、待っておりました!」
「みんなは無事なの?! お義母さまは? 蒼司さんは?!!」
焦げ臭い臭いが鼻をつく。千春は思わず顔をしかめた。
「御寮さんはご無事で! 女中のお柳さんと一緒にご親戚のお家に避難しております。ですが……」
熱風が身体に巻き付く。
どこから来たのか、火の粉がチラチラと舞っている。
言い澱む利松の顔を見つめ、千春はもう一度大きな声で尋ねた。
「蒼司さんは?!!」
両手で肩を掴まれた利松は観念したように話す。
「じ、実は親旦那さんのお部屋に大切な物があるから、と中に入られ……まだお」
話の途中で千春は大店に向かって走り出した。人にぶつかってしまい反射的に謝るが、なりふり構わず走り続けた。
少しして眼前に大店が見えてきた。
しかしそれは、千春が知っているものとはあまりにも異なっていた。
思わず息を飲む。
大店の三分の一程が今まさに炎に包まれようとしていた。
それでも大店は土蔵造りのため、近くの茅葺き屋根や裏通りの草葺屋根の家と異なり、火が広がるのが遅かった。
千春は機敏な動きで辺りを伺う。
探していたそれは、思いの外早く見つかった。
水が入った桶が千春の目に飛び込んできた。屋台を出していたものが慌てて逃げ、置き忘れたもののようだ。千春はその桶に飛びつき、頭から水を思い切り被った。
バシャッ!!!
ずぶ濡れになった千春は立ち止まることすらせず、大店の中へと走って行く。
その姿を認めて後から来た利松が慌てて千春を呼んだが、その頃には千春の姿は店の奥へと消えていた。
「蒼司さん!」
千春が力の限り叫ぶ。
煙に噎せて涙が出る。
炎が爆ぜる音がすぐ近くで聞こえる。
既に土間には火の手が上がっている。横目で目視し、更に奥に進もうとするとーー
義父の部屋から勢いよく出てくる人影が見えた。
千春はそれが蒼司だと瞬時に判別し、胸を撫で下ろした。
それに反して蒼司は、千春の顔を見て仰天した。
「千春さん! どうしてこんな所へ!!!」
怒号のような声がした。
蒼司が千春に気を取られている間、すぐ側の柱が音を立てて崩れた。
千春は思わず、蒼司の手を引っ張る。
既の所で柱に押し潰されるところだったが、千春のお陰で蒼司は、前につんのめって転び、間一髪でそれを躱した。
自分の下敷きになった千春を慌てて抱きおこした蒼司は、「これだけ持ってください!」と一言放ち、千春がそれを両手に抱えたのを確認するや否や、千春を横抱きにして一目散に店外へと駆け抜けた。
蒼司が大店から出て五歩ほど進んだ折も折、門口の戸が火柱を上げて倒れた。
振り返り唖然とする二人に、利松は駆け寄り、「心配いたしました~~!!!」と男泣きした。
顔を煤だらけにした二人は見合い、後から来る恐怖故か笑いあった。
そんな二人を見て、泣いていた利松は心底呆れたような情けない顔をした。
この日、放火により火元の数奇屋町はすぐに燃え落ちた。運悪く強風に煽られて火の手は広がり、蒼司の呉服屋がある南伝馬町までをも脅威に晒した。
その炎は千春の自宅のすぐ傍で消し止められたため、自宅は消失を免れた。千春にとってはまさに不幸中の幸いだった。
しかしながら被害に遭った家屋は五千戸弱にも及び、罹災者は一万人余という惨事であった。
21
火事があった日以来、義母は自分の妹の家にお世話になっていた。
息子の清一郎に続き、夫まで亡くし、更には住んでいた家までも火事で失った義母は、体調を崩して寝込んでいた。
そんな義母を心配し、千春は定期的に義母のお見舞いに行く。
「お姉さん、また千春さんが来てくださいましたよ」
義母の妹は千春に会釈をして、その場を去る。
千春は義母が寝ている布団の側に行き、正座した。
「お義母さま、お加減いかがですか?」
生気のない顔をした義母は、千春をチラリと見ただけで何も言わなかった。
「今日は家になった柿を持って参りました。これが中々甘くて美味しゅうございますよ」
笑顔で話す千春だが、やはり義母の様子は変わらない。
千春はただ黙って義母の側に寄り添うことにした。
出されたお茶が冷めきった頃、千春は立ち上がり義母にそっと声をかけた。
「また近いうちに伺いますね。どうぞお大事になさってください」
「……」
義母の声が聞こえたような気がした千春は、しゃがみ、義母の近くに寄った。
「清一郎は、元気にしてるかね……」
聞こえてきた義母の言葉に、千春の呼吸が止まりそうになった。
落ち着いた声を出そうと強く意識して、頷く。
「えぇ……えぇ。お義母さま」
義母はその言葉を発した千春を、穴が空くほど見つめた。
22
「初さん、これを郵便局に出してもらえるかしら? その帰りに鯖とお豆腐を買ってきて下さいな」
千春は女中の初に声をかけた。
「畏まりました」
初はエプロンを外しながらニッコリ笑って快諾した。
千春は二階の夫の部屋へ行き、箪笥から分厚い帳簿を引っ張り出し、目を通した。
あんなことがあって商品も半分以上消失してしまった今や、削減できるところをとことん削減してやり繰りする必要がある。
運び出された家財道具や商品のリストと帳簿を睨めっこしながら、千春は算盤を弾く。
自分にどこまでのことができるかは分からないが、主人も義父もいなくなった今、出来ることは何でもやる所存だった。
ほんの少しでも蒼司の力になりたかった。
ーーこの件に関しては自分の考えをまとめた後に佐助さんに見てもらい、助言を乞おうーー
思案していた千春だが、ギシッという階段が鳴る音に首を傾げた。
初が忘れ物でもしたのかしらーー?
怪訝な顔をしたが振り返らず、また珠算に戻ろうとした。
しかし襖を開ける音がして、ギクリとした千春は反射的に振り返った。
そこには、信じられない人が立っていた。
以前呉服屋に来店し、千春に馴れ馴れしく触れてきた三十路過ぎの男が、部屋に足を踏み入れていた。
思わず千春は立ち上がり、二、三歩後ずさったが壁に阻まれ動きを止めた。
千春の姿を認めた男は下卑た薄ら笑いを浮かべている。
「……い、いかがなさいましたか?」
震える声を発しながら、千春は素早く男の後ろの襖に目をやるが、男は出入り口を塞いでいて逃げられそうにない。
男は恍惚として信じられないことを言った。
「あんた……俺のことが好きでしょう?」
千春はゾッとして、あまりのことに声も出ない。
ーーどういうことだろうか。
この人と話したことはほんの二度程しかない。
それなのに、どうしてこのようなことをーー
なんと言っていいか分からなかった。
恐怖で震える手を意識して、その震えを止めようと両手を前にきつく組んだ。
「あの……」
「あんたのその眼、堪らねぇ、よ。俺は分かってるんだ。あんた、俺のこと、待ってたんだろ?」
ジリジリと距離を詰められ、千春は咄嗟に声を出す。
「わ、私は……も、申し訳ございません。私は今でも主人を想っております。どうか……どうかご堪忍なさってくださいっ」
それは、恐怖から出た嘘だった。
彼が彼女を愛さなかったように、彼女もまた彼を愛したことなどなかった。
しかし今は他に言うべき言葉が見当たらなかった。
男が退いてくれることをひたすら祈って男の眼を見詰めた。
それを聞いた男は狂ったように笑い出した。
男の次の言葉に、千春は雷で打たれたかのようなショックを受けた。
「もうあんたの夫はいないんだから、俺に愛されるためにあんたはここにいるんだろ?」
全身が泡立つような恐怖を感じた千春は、咄嗟に男の横を通り過ぎ、襖を開けて逃げようとする。
が、それより先に男が千春の袖をすごい力で引っ張り、千春は転倒した。
畳の上に組み敷かれながらも、千春は悲鳴をあげた。
「誰か!!!」
助けて、と続けようとするも、男に頬を殴られた挙句に口を塞がれてしまう。
殴られた途端火花が散った気がしたが、千春はそんなこと気にも止めなかった。
「んーー!!!」
涙ぐみながら必死で抵抗するも、千春の上に乗った男の身体は重く、びくともしない。
乱暴に帯に手を掛け、瞬く間に男はそれを解いた。
男の手が着物の裾を割って、千春の白い太腿に荒荒しく触れる。
絶望を感じて思わず目を瞑った千春は、次の瞬間男が後ろに吹っ飛んだことに気づくのが少し遅れた。
鈍い音と共に男の呻く声がした。
「ぐぇっっ!!」
着物を搔き抱いて思わず目を開けると、目の前には蒼司がいた。
蒼司は拳を大きく振り上げ、執拗に何度も何度も男を殴っている。
「蒼司さん!」
千春の声は蒼司には聞こえていないようだ。
今や男の顔は殴られて腫れ、血が飛び散り、見るも無残だった。
気絶したらしい男を未だ懲らしめようと、蒼司は腕を振りかざす。
「やめて!!! もう、やめて下さい!!!」
千春は蒼司の背中に無我夢中でしがみつき、悲鳴のような声を上げ止めようとする。
すると、漸く蒼司は正気に戻ったようだった。今までいからせていた肩を下げ、千春に向き直った。
「ーーす、すみません……怪我はっ……お怪我はありませんか?」
蒼司も千春も互いの荒れた呼吸は暫し治りそうにない。
「だ、大丈夫です……。た、助けに来て下さって……ありがとうございます」
千春は息も絶え絶えに謝辞を述べる。
すると、肩で息をしていた蒼司は顔を険しくして千春の頬にそうっと触れた。
「頬が赤くなっております……」
一度落ち着いたかのように見えた蒼司の瞳がまた怒りで燃え上がったのが分かり、千春は慌てた。
「これしきのこと、大丈夫でございます! それよりも……蒼司さんのお手が……」
23
千春は蒼司の拳が赤く腫れていることに気付き、青くなった。
「今医者をお呼びして参ります!」
慌てて立ち上がろうとする千春を蒼司は左手で制した。
「待ってください、私ならなんてことはないです。医師を呼ぶほどではない」
蒼司に掴まれた右腕が熱い。
「だからあなたはここにいて下さい」
それは優しいけれど、有無を言わさぬ強い口調だった。
千春は蒼司の真剣な瞳に吸い込まれそうになる。
ぼうっとなりかけた千春だが、血がついて痛々しい蒼司の右手を見て我にかえった。
「……では、少しお待ちください。私でよろしければ手当てさせていただきます」
千春は一階へ戻り、未だ震える手で着物をきちんと着直した。
男はどうやら勝手口から侵入したらしい。
開け放たれたそれを目にして、千春は寒心に堪えない。
それから、準備した救急用具を二階へ持って行き、正座した自らの横に置いて蒼司に向き合った。
千春が一階に降りて用具の準備をしている間に、蒼司もどうやら気絶した男を担いで一階まで降り、外に連れて行ったようだった。
そこまで太いとは思えない蒼司の腕にどんな力が潜んでいるのだろうかと千春は密かに感心した。
何よりも男の姿が見えないことに安堵した千春は気を取り直す。
桶に入れた水に布巾を浸して絞り、蒼司の汚れた右手を千春は丁寧に拭きあげる。
その腫れた手を見ているうちに感情が高ぶってきて、千春の目頭が熱くなる。
「どうしてこんなになるまで……」
蒼司はその言葉を聞いて、照れ臭そうに笑う。
「……あなたのことになると、どうも見境がなくなるようです。いけませんね」
「えっ……」
思いがけない言葉に、千春は真っ赤になった。それを誤魔化すように言葉を続ける。
「そ、そういえばどうしてこちらにいらっしゃったのですか? 本日は出版社に行かれて遅くなるとおっしゃっていましたよね」
千春は瞳を逸らし、軟膏をそっと蒼司の手に擦り込んでいく。
「……出先にあなたがくれた御守りが袂から落ちたのです。そうしたら急にあなたの顔が見たくなって……」
驚いた千春は目を丸くした。
本当かしら……。
だとしたら、なんと幸運なことだろうか……。
包帯を蒼司の手に巻いている途中で、千春は胸が一杯になり、考えることなしに言葉が口を衝いて出てきた。
「あなたのことをお慕いしております……」
千春がハッと自分の行いを恥じ慌てたと同時に、蒼司が千春を抱きしめ、その反動で千春の手から包帯が落ちた。
くるくるくるくる床を転がる包帯を視界に入れながら、千春の頭の中はその包帯の色のように真っ白に染まった。
「何度もお伝えしている筈なのに、ご存知ではないですか?」
蒼司が千春の耳元で囁く。
抱き締める力を緩めた蒼司は、息を飲む千春を見つめた。
「私が千春さんに夢中なことを……自分でも可笑しいと思うくらい、最近では……あなたのことしか考えておりません」
千春の鼓動が早鐘のように打った。こんなに側にいるのではそれを隠すことすらできない。
金縛りにあったような千春は、ただただ蒼司のその熱情篭った瞳を見つめ返す。
気がつけば蒼司は息が触れるくらい近くにいた。
二人の間には抗えないほどの引力が働いているかのようだった。
蒼司の温かい左手が千春の頬に触れたとき、その唇は千春の唇と重なった。
頭の芯がジンとして、千春は愈々何も考えられなくなり、瞳を閉じた。
注釈:鳶口とは、この場合火事の際に家屋を壊すのに用いる道具です。昔は消火活動が追いつかず、家屋を壊すことで火の勢いを失わせていたようです。