喪失
16
それから二か月ほど経ったある日のことーー
冷たい雨が降り注ぎ、辺りが真っ暗になった頃、千春の家の門を叩く音がした。
こんな時間に誰かしらーー
千春は訝り、側にいた女中の初と顔を見合わせた。
「私が参ります」
初が率先して玄関に行き、千春がそれに続く。
玄関を開けると、強い風と共に冷気が入ってきた。
千春は目を見張った。
そこには、ずぶ濡れになった蒼司が立っていた。
「蒼司さん! どうなさったのですか?」
目を伏し目がちにした、蒼司らしからぬ覇気のない顔は、千春を一層不安にさせた。
「初さん、拭くものと清一郎さんの着物を持ってきて頂戴」
「かしこまりました」
初は奥へ消える。
千春は思わず手を引いて、蒼司を居間まで連れて行く。
蒼司は黙ったままだ。
手拭いと着物を持ってきてくれた初に言う。
「ありがとう。初さん、申し訳ないのだけれど火鉢の用意もしてくれるかしら? このままでは蒼司さんが風邪をひいてしまうわ」
出来るだけ今の蒼司を一人にさせたくない千春は頼んだ。
「すぐにご用意致します」と言って、初はまた席を立った。
再び部屋は静まり返った。
千春は手拭いを持って、蒼司の顔と髪を優しく拭く。
蒼司はされるがままになっていた。
「こちらに着替えてください。私はその間隣室におりますので……」
そう言って立ち上がろうとした千春を、蒼司の手が制した。
次の瞬間、千春は蒼司に搔き抱かれた。
益々混乱したが、千春はそっと蒼司の背中に手を置いた。
「……父が……」
やっとの思いで発せられた言葉に千春は耳を澄ませる。
「父が逝きました」
あまりに突然のことで、千春は息を飲んだ。
「なぜ……?」
「心臓麻痺でした……苦しまずに逝けたようです……」
「そう、ですか……」
千春は泣きそうになりながらも、泣き声にならないよう気をつけながら蒼司に語りかけた。
「お辛いですね……」
鼻がツーンとする。止めようとした涙は今にも溢れそうだ。
こんな時にはどんな言葉も役に立たない。
ようやく親子として、通い合ったと思ったのにーー
蒼司のことを思い、千春の胸は張り裂けそうだった。
いつもは強い蒼司の震える背中を、千春は唯々抱きしめていた。
17
葬儀が終わった数日後、千春と一緒に父の部屋にいた蒼司はポツリと言った。
「父は幸せだったのでしょうか……」
千春は横にいる蒼司を見つめる。
「長男は相対死にで、次男は放蕩息子で、大した金にもならぬ小説など書いて……」
「蒼司さん」
名前を呼んだ千春だが、それにも構わず蒼司は後を続ける。
「恩を返すでもなく、孫もなく…」
「それは違います。お義父さまはお幸せでした」
蒼司は眉を顰め自嘲した。
「そうでしょうか」
千春は思い立ったように立ち上がり、本棚から本を何冊も抜きとって床に積み上げた。
突然の行動に驚いた蒼司は「何を……」と問いかけるも、何かを探している様子の千春はその質問に答えない。
「私、無知で知らなかったんです」
一体何の話だろうか、と蒼司は訝る。
千春は本を抜き出して見ては床に置く、という行為を繰り返している。
「ーーあった!」
千春が探していた本は、本棚の奥に隠れるようにしてあった。
髪に埃が付いているのにも気づかず、千春は満面の笑みで笑う。
「作家さんには筆名があるということをーー」
千春が取り出し見せた本は、蒼司が書いたものだった。
蒼司は言葉を失くした。
「何冊も何冊もあるんです! たぶん、あなたが書いたものは全て。私とあなたが知り合う前は本棚の手前にあったんですけど、恥ずかしかったのかお義父様は隠してしまわれて……」
蒼司は思わず片手で顔を隠す。
既に醜態をさらしていたので今更ではあるが、千春に泣くところを見られたくなかった。
「以前、お義父様に勧められて読んだ事があるんです! 普段はほとんど会話されない方だから、私嬉しくって……あなたのお陰でお義父様と仲良くなれました。……お義父様はあなたがいてくれて幸せでしたよ。自慢の息子です」
ニコニコ笑って言う千春にたまらなくなって、蒼司は千春の背後に回って抱きしめた。
「……こっちを見ないで下さい」
「はい。……大丈夫です、私はあなたの小説をまた最初から読みますから」
わざととぼけた声を出す千春に、蒼司の胸が熱くなって、涙が流れた。
「……ありがとう……」
その言葉を聞いた千春も思わず涙ぐんだ。
18
貧乏だった頃の名残で、貧民街の田舎蕎麦店に入った蒼司は、渋い顔をして茶を啜った。
家を継ぐと決めてからは早々に呉服屋に引越し、最近ではこちらに来ることは少なくなっていたが、今日はなんとなく足がこちらに向いた。
すると、店に入ってきたでかい図体の男がズンズンと音を立てて蒼司の隣に来て、乱暴に座った。
「よぅ、望月。久しぶりじゃねぇか。なんだその時化た面は。珍しいこともあるじゃねぇか。明日は雪か?」
蒼司は緩慢にその男を見遣り、挨拶した。
「お久しぶりですね、大場さん。相変わらずお元気そうで。……まぁ、私だって悩むことくらいありますよ」
ニンマリした大場は、蒼司の肩に手をかけて勢いよく言った。
「なんでも俺様に相談してみろ! 立ち所に解決してやるぜ」
蒼司は横目で大場をチラリと見、溜息をついた。
「いや、結構ですよ。笑い飛ばされるのオチです」
「ますます気になるじゃねぇか。いいから言ってみろよ」
大場はしつこい。
いつもならそれでも適当なことを言って誤魔化せただろう。
しかし今の蒼司には余裕がなかった。
大場のことをよく分かっている蒼司は、観念して重い口を開いた。
「情けない姿を見られたんです、惚れた女に」
ニヤニヤしていた大場は不意に真顔に戻り、「情けない姿? お前が??」と信じられない顔をした。
「今の流れで私ではない、と言ったら信じてもらえますか?」
ドンッ。
思い切りど突かれた。
力の強い大場にそうされて、蒼司の身体はよろめいた。
「いいところだ。ちゃんと話せよ。惚れたってお前が?」
ジトリと睨む蒼司に、大場は物珍しいものを見たかのような顔をする。
「父が亡くなり、自分が自分でないようになったんですよ。それは、私も人の子ですからね。その時に落ち込んでいるのを見られたのです」
そうーー言葉にしてしまえば、それだけなのだ。
しかしそれ以来千春の顔がまともに見られない。
「格好悪い印象を払拭するには、どうしたらいいですかねぇ……」
そんな蒼司の言葉を聞いて、大場は豪快に笑った。
ボロい店が震えたような気がした。
「こりゃぁ、、こりゃあいいや! 今度そのお嬢ちゃんを連れて来なよ!!」
分かってはいた。まぁ、こんなものだろう。
結局、時が経つのを待つしかないかーーと蒼司は苦い気持ちで思った。
19
呉服屋の奥の自室で物思いにふけっていた蒼司は、初め千春の声に気づかなかった。
「蒼司さん、よろしいですか?」
まさに今考えていた人の声が襖越しに聞こえ、蒼司はびっくりした。
これまで蒼司が千春を訪ねることは幾度もあれど、千春が蒼司の自室まで来て声をかけることはなかった。
「少しだけで良いのです」
我に返った蒼司は慌てて返答した。
「もちろんです、どうぞお入りになって下さい」
襖を開けた千春は、躊躇いがちに蒼司の側にやってきた。
「あの、これーー」
そうして勇気を出して、手に持っていた物を蒼司に手渡した。
蒼司は驚いた顔をしてそれを凝視する。
それは御守りだった。
「最近、いろいろと辛いことが続きましたので、必要かと思いまして……」
「……」
予想外の出来事に、珍しく蒼司は二の句が継げなかった。
「あの……ご迷惑でしたか?」
「迷惑なんてとんでもない!」
慌てて言った言葉を聞いて、千春は花のように微笑んだ。
「それなら良かったです。浅草に行く用がありましたので……。それでは、私はこれで」
咄嗟に千春の手を掴んだ。
「もう帰ってしまわれるのですか?」
赤くなって何も言えなくなった千春を見て、蒼司は冷静さを取り戻す。
手を離し、千春を安心させるように笑う。
「すみません、どうかしていました。気にしないで下さい。これ、大切に致します。本当にありがとうございます」
千春は頬を染めながら何か言いたい顔をしたが、結局話さず、頷いてその場を後にした。
注釈:相対死にとは、心中のことです。
筆名とはペンネームのことです。