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悋気



「お味はいかがですか?」


肉食は穢れなるもの、という意識が強かった千春は恐る恐る一口目を口に入れた。


!!

千春はその味に驚く。

猪や鹿、もしかしたら豚よりも何よりも……

「美味しい、です……」


その言葉を聞いて蒼司は破顔した。

「それは良かった。明治十年には牛肉屋が東京市内だけで五百八十八件も出来たそうです。牛肉の人気は今や不動のものとなっていますからその数は益々増えることでしょう。私もあのような悪友たちと複数の店をまわりましたが、ここのが一番美味い、と思っています」


上機嫌に千春の顔を見ながら話す蒼司。

見られながら食べるのは何だか恥ずかしい。


でも煮えたぎった鍋が冷めるまで放置するのは忍びないので、千春は頑張って箸を動かす。


「本当に美味しいです」

ニコニコしていた蒼司が徳利を手にする。


「ほら、お猪口を持って下さい」


「いえ、私は結構です。お酒をいただいたこともございませんし……」

慌てて両手を顔の前で振るが、蒼司は納得しない。


「今日は私のお祝いでしょう?少しで構いませんから、付き合って下さい」


そう言われては断れない。

眉毛を八の字にして困った顔をした千春だったが、仕方なくお猪口に入ったお酒を一気飲みした。


その飲み方に蒼司は眼を白黒させ、千春が思いっきり噎せたのを見て笑いを噛み殺した。




お腹も八分目程になり、幾度も勧められたお酒のせいか気を良くした千春は、いつもよりトロンとした瞳で蒼司を見つめた。


「……千春さん、大丈夫ですか?」


「ん……」と頷く。

千春は普段は口にはしない思っていることを吐露した。


「あなたはいろんな方に必要とされているのですね。お父上のことはあれど、無理に家業をお継ぎになる必要はないのではありませんか?」


その言葉に目を細める蒼司。


「私は、自分のやりたいことを押し殺してまで、人の意見を尊重するようなお人好しではありませんよ」


穏やかな優しい声で、話を続けた。


「若い時分は親に対しての反抗心もありましたし、何しろ血の繋がらない母に疎まれていましたから、いつ家にいても気詰まりで、それが嫌で嫌で家を出ました。……私も子どもだったということです」


蒼司は瞳を閉じて懐かしむように語る。


「もちろん、今でも小説を書くのは好きですが……」


千春に向き直り、質問をする。


「小説家になっていいことは何だと思いますか?」


千春は首を傾げて答えを待つ。


「……それはね、どこにいても、紙と筆だけでやっていけるということです。つまり、呉服屋をやりながらでも、仕事の量を調整することができれば小説も書いていけるのですよ。

どうです、中々良いでしょう??」


その言葉を聞いた千春は心から安心し、無邪気な顔で笑った。




店を出た蒼司を追いかけ、千春はあたふたして尋ねた。

「お勘定は……」


「払いました。千春さんに払ってもらおうなどと思ったことは一度もありませんよ」


「でも呉服屋を継ぐことになるお祝いに、と……」


「あれは唯の口実です」


蒼司から勧められた酒がまわっている千春はその意味を汲み取れず、頓珍漢なことを言った。

「貧乏なのに、ですか?」


「いえ、書き上げた小説の収入が先日入ったばかりなので、今は小金持ちですよ」と蒼司は笑った。


店内は人と熱気で溢れていて暑いくらいだった。外に出て感じる冷たい秋風は、火照った身体に心地よく、千春は思わず目を瞑った。


その時、店から慌てて出てきた一人の娘がいた。

「蒼司さん!」と如何にも親しそうに蒼司の名を呼ぶ。


千春は思わずその娘を注視した。

彼女は若く、可愛らしかった。頰を上気させ、瞳をキラキラさせて蒼司に話しかける。


「お久しぶりですね!いらっしゃっていたのなら、声をかけて下されば良いのに……狩野さんに教えられてさっき分かったところです」

肩で息をするその娘は、余程焦って追いかけて来たに違いない。


蒼司はそんな娘の様子など御構いなしに会話を続ける。

「あぁ、お久しぶりですね。お元気そうで何よりです。ここの牛鍋は相変わらず美味かったです。来てよかった」


嬉しそうにニコニコしていた娘だが、その表情を僅かばかり変え、千春に目線を移す。

「隣の方は……?」


蒼司が答える。

「あぁ、この方は私の親戚の方ですよ。牛肉を食べたことがないとおっしゃっていたので、こちらに連れて参りました」


その女性は途端にホッとした顔になった。


今までのフワフワした楽しい気持ちはどこかへ消え、千春はなんだか悲しくなった。


「あ、すみません、呼び止めてしまって。また近いうちに必ずいらっしゃって下さいね!」


「はい」

店に戻ろうとした娘は、身を翻して蒼司の近くに舞い戻ってきた。

娘は鼻と口を隠すように両手を顔に当て、背伸びをして蒼司の耳元で内緒話をした。


それから二人は顔を見合わせて笑った。


千春はそんな二人の様子を見て、胸が苦しくなった。

娘はそんな千春の様子には気付かず、名残惜しそうに蒼司に手を振って帰って行った。


ぼうっとした千春に蒼司は話しかける。

「千春さん、お腹もいっぱいになったことですし、少し歩きませんか」


「はい……」


歩いている間も、先刻の二人の笑顔が千春の頭を離れなかった。

いっそのこと一人になりたいとさえ思った。


いきなり無口になった千春を見て、蒼司は歩くのをやめた。


「千春さん、どうかしましたか?先程から元気がないようですが……」


「いえ……何も……」


「お酒のせいかも知れませんが、それだけではなくてーー」


蒼司は千春の目を直視する。


「嫉妬、して下さいましたか?」


千春はその言葉に愕然とした。

なぜなら蒼司の言葉でもって、千春は初めてその意味を理解したからーー

その事実に戸惑い、何も言えなくなった。


そんな様子の千春を見て、蒼司は笑った。


「冗談、ですよ。気になさらないで下さい。そうであれば良いな、という私の願望です」


一方千春は、笑い飛ばして取り繕うことが出来なかった。

「どうして……」

泣きそうになりながら掠れる声で必死に言葉を紡ぐ。


「いつもそんな風に私をからかって……。もうおやめになって下さい!」


言ったと同時に酷く惨めな気持ちになった。

顔を赤らめて泣くのを我慢する千春を見て、今まで笑っていた蒼司の顔は、怖いくらい真剣な表情に変わった。


「……冗談じゃなければ良いのですか?」


「え……?」

千春の頭は混乱し、動けずにいた。

蒼司は二歩、三歩と歩き、千春との距離を詰める。


蒼司が千春の頬に触れようと右手を伸ばしたところで、その緊迫感に耐えられなくなった千春は思わず駆け出し、その手から逃れた。


どうしちゃったんだろう。

自分が自分でないみたい。

こんな自分は酷く情けなくて醜い。

ーー苦しいーー


前方を見ていなかった千春は、角を曲がったところで同じく走ってスピードが上がっている人力車とぶつかりそうになった。


ーー!!

両手を前に持って行って受け身の姿勢をして衝撃に備えたが、その瞬間、千春の身体はすごい力で道路脇へと引っ張られた。


罵声が千春に降りかかり、ギリギリのところで目と鼻の先を人力車が通って行った。あと一歩で大怪我をしていたかも知れない。


人力車の姿が見えなくなって漸く千春は自分を助けてくれた人の存在を知る。

慌てて身体を起こし、事態を把握しようとすると、自分を抱きしめ下敷きになっていたのは追いかけて来た蒼司だったことが分かった。


「蒼司さん!」

気が動転して叫ぶ。


「…てて」

静かだった蒼司も身体を起こした。


「あなたって人は……本当に……危なっかしくて目が離せません」


その顔を見て、体中の力が抜け千春は静かに涙を流した。

「私のせいで……すみませんでした。本当に……申し訳ございませんでした」


ポロポロと涙をこぼしながらも蒼司の身体をあちこち確認し、「どこか痛いところはありませんか?」と尋ねる。


「私は大丈夫、本当に大丈夫ですから」

千春の涙を蒼司が優しく拭う。


「だからそんなに泣かないで下さい」

蒼司の着物の衿を握りしめ、千春はその胸に顔を隠して更に泣いた。


「あなたが無事で、本当に良かったです……」と言って震える千春の背中を、蒼司は躊躇いがちに抱きしめた。


「どうして……追いかけて来て下さったんですか……」

鼻声になった千春は尋ねる。


「あなたが一人になりたいことは分かったのですが、酔っているあなたを一人にはさせられなくて……」


千春はキョトンとして、顔を上げる。

「……私、酔ってます?」


蒼司は苦笑して言った。

「いつもより感情的になって走って、こんな風に泣くくらいには、ね」


涙で濡れた千春の頬を、蒼司は両手でゴシゴシする。

「まぁ、酒を飲ませた私の責任ですから。何事もなくて本当に良かった」


いつもより自分が可笑しいと思ったのは、お酒のせいなのかーー

千春はなんだか安心して、蒼司の顔が近くにあるのも気にならず無防備に笑って、また彼の懐に収まった。


「……千春さん?」

声に若干の動揺を含ませた蒼司は、次の瞬間千春の規則正しい静かな寝息を聞いた。


はぁ、と溜息をついた蒼司は愛おしそうに千春の頭を撫でた。




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