動揺
10
清一郎が亡くなってからというもの、義母は床に臥せることが多くなった。それを心配した千春は、少しでも滋養のある物を食べてもらおうと、高価な食材を持って大店にやって来たところだった。
ちょうどその時、店を出たお客とすれ違った。
いつものように皆に挨拶して店の奥に入ろうした千春は、義父の部屋から出てきた蒼司に気づき足を止めた。
「今来たお客さんが噂の穢多の出ですかい?」
「あぁ、なんでも兄妹で裏町に移り住んだってぇ話だよ。それにしても三十路近い女が島田髷ってぇのは何とも情け無いねぇ」
侮蔑を込めた正吉と佐助の会話が耳に入り、千春は不快な気持ちになり眉根を寄せた。
ふと気づくと、隣に立っていた蒼司が、控えめな声で千春にだけ聞こえるように言った。
「とうに穢多非人という身分は廃止し、平民になったと太政官布告で定められたというのに……愚かしいことです」
こちらも眉を顰めた蒼司は、虚空を見つめ言葉を続けた。
それはまるで自分自身に話しているかのようだった。
「どんなに立派な服を着て、どんなに素晴らしい身分の出自だったとしても、死ぬときは皆一緒ですよ。同じ人間が序列をつけて、ある者は優位に立つなんて全くもって下らない」
普段は穏やかな蒼司の吐き捨てるような言い方に驚くと同時に、そのような見解を述べる人を千春は初めて見たので、その驚きは一入だった。
穢多非人の出は結婚相手を探すのにも苦労する時代だ。いい具合に話がまとまったかと思いきや、それを理由に破談になる場合が後を絶たないと聞く。
人々が穢多非人を揶揄い蔑む様子を幼い頃より見てきた千春だが、そんな様子を見かける度、鉛を飲み込んだような気持ちになった。
それが何故なのか意識はしてこなかったが、蒼司の言葉を聞いてその訳が腑に落ちた。
ーーなるほどそういうことか。
自分自身も人への差別が嫌でたまらなかったらしい。
あまりに皆当たり前のように穢多非人を非難するので、異質な自分になりたくないことへの恐怖からか、今まで何気なく周りに同調してしまっていた。
千春はそのことを恥じた。
言葉を失くした千春の顔を見て、蒼司は笑った。
「すみません、つまらないことを話しました。忘れて下さい」
千春は慌てた。
「いえ!」
静かに聞いていた千春が思い切り話したことにびっくりして、蒼司は瞠目した。
「あの……、私今まで……恥ずかしいことではありますが、あの方達の気持ちになって考えたことがなかったのです……。それが本当に情けないことで……悔やまれます……」
真っ赤になった千春を見て、蒼司は穏やかに微笑する。
「こんな時代では当然ですよ。……あなたが優しい人で良かった」
その笑顔に、優しい言葉に、千春は胸を突かれた。
自分の中に湧き上がる名もなき感情を持て余し、赤くなった顔を下に向け自分の足元を見つめた。
11
「佐助さん、これ新しく仕入れた輸入物ですか? 柔らかく肌触りがいいですね。こんなに奥じゃなくて、触れるように手前に出しておくと良いかも知れません」
反物を手に取り、千春は番頭の佐助に話しかける。
「おっ! 若御寮人さん、さすがお目が高い! その通りでございます。そういうご意見はどんどんおっしゃって下さいな。先日若御寮人さんが気に入られた反物ですが、数を増やしてみたらこれが当たりで、見る見るうちに売り切れました!」
「そうですか。それは素晴らしいですね」
千春は嬉しくなり、笑みを浮かべた。
その時、齢三十程のザンギリ頭をした男がぷらっと店に入ってきた。
千春の顔を一目見るや否や、矢継ぎ早に話しかける。
「おうおう、あんた、俺も反物を新調しようと考えてるんだよ。これから寒くなってくる時期だから、そこんとこ考えてあんたが見立ててくれないかい?」
思いもよらず近い距離に来た男に、千春は躊躇する。
佐助が千春を気遣い、ずずっと二人の間に割って入った。
「申し訳ございませんが、反物に関しては私か、そちらの者にお聞きください」
「はぁ? 何だよ、何でだよ」
千春も思わず頭を下げる。
「申し訳ございません、私も勉強の身で全ての商品を把握できている訳ではございませんので……」
男は千春を上から下まで舐めるように見たが、視線を落としていた千春はそれに気づかなかった。
「そんじゃあ、お前が」
男はぞんざいに佐助を指差す。
「見立ててくれ。そんでこの御嬢さんが、俺に似合ってるかどうか意見を言ってくれ」
自分も指刺された千春は目を見開く。
苛立った様子の佐助が反論しようとする気配を感じた千春は、急いで言葉を紡いで笑顔を作った。
「私の意見でよろしければ」
男はそんな千春の様子に目を細め、満足そうな顔をした。
「この色合いはお客様の顔色に映えるように存じます」
ニコニコしながら千春は反物を男の肩口に当てる。
「そうか?」
男は反物を抑えている千春の手の甲を撫でた。
思わず反応しそうになるが、それを堪え話しかける。
「お寒い日にはこちらのモスリンと言われる軽くて温かい肌襦袢を中に着るのもよろしいかと……」
佐助が取った肌襦袢を千春に手渡す。
反物を一旦脇に置き、肌襦袢の手触りを知ってもらおうとした千春は男にそれを手渡そうとした。
すると男はそれを取らず、肌襦袢に隠れた千春の両手をまさぐった。
今度こそ我慢できなくなった千春はびくりと肩を揺らした。
訝しがる番頭が千春に声をかけようとした時、店先に蒼司が現れ声を掛けた。
「千春さん、父上が火急の用があるということです。申し訳ないのですが、ご自宅に一度お戻りください」
その声を聞いた千春は弾かれたように頷き、「お客様大変申し訳ございません」と深々とお辞儀をした。
「親旦那さんは厳しいお方なので、早く行かないと大変ですね!」と佐助は些かわざとらしい声を出した。
男が不満そうな顔をしたのを蒼司は見逃さなかった。
小走りになり、蒼司の元に駆け寄ると、蒼司は珍しく千春の肩を抱き、店から離れた場所に千春を誘導した。
思わぬ接触にドキドキする千春は、訳が分からないような戸惑った顔をして蒼司を見遣る。
「あぁ、すみません。父上は今日は神戸でしたね。間違えました」
シレッと言って手を離す蒼司を目を丸くして見つめる。
「……若御寮人さんともあろうお方があんな男に関わらなくて良いのですよ」
薄々感じてはいたが、矢張り助けて下さったのかと思い、千春の頬が赤く染まる。
いつから見られていたのだろうか……。
「あなたは何て言うか……ちょっと隙がありすぎますね」
困ったような顔をして蒼司は笑った。
「あの男が今後店に来ても、出来るだけ関わらないようにして下さい」
……確かに自分は不快な思いをした。
けれどそれで店の売り上げに貢献できるのであれば良いのではないかしら、と一瞬そんな考えが千春の頭をよぎった。
「いや、それはいけません」
?!
口に出していたかしら?
狼狽した千春に蒼司は畳み掛ける。
「あなたは表情がクルクルと変わりますからね。考えていることが分かりやすいのです」
またしても恥ずかしい思いをした千春は顔を背ける。
「あぁ、勘違いなさらないで。それが悪いと思って非難しているのではありません」
蒼司の真意を読み取ろうとして顔を上げ、千春は首を傾げる。
頬はまだ薄桃色に染まっていた。
「むしろ好ましい、と思っているのですよ」
ーーいつもこれだ。
最近の蒼司は、いつも千春の心を掻き乱す。
何でもないような顔をして、意味深な台詞を述べては千春の様子を観察している。
先ほどまで感じていた安堵感は今や漫ろ心に変わっていた。
ドキドキして、どうしようもない。
息が詰まりそうだ。
「……イジメすぎたかな……」
蒼司の放ったその一言は千春の耳には届かなかった。
「と、兎に角、助けていただきありがとうございました。今後気をつけます。わ、私は一旦家へ帰りますので、皆さんによろしくお伝えください……」
「はい、分かりました。お気をつけて」
逃げるように去る千春の後ろ姿を眺めながら、腕組みした蒼司は独り言ちた。
「あの男のあなたを見る瞳は気に入りませんね……」
騒めく雑踏の中にその剣呑な声は掻き消された。
12
自室で着物の仕立てをしていた千春は、女中の初に一階から呼ばれた。
「若奥様、蒼司様がお見えになっております」
「ただいま参ります!」
ーーどうしてだろう。
最近、蒼司の名前を聞くだけで心が落ち着かない。
嬉しいような、苦しいような気持ちになって、よく分からない感情で自分が満たされてしまう。
だから会いたくないのに、会いたい。
矛盾した気持ちに戸惑いながら、そんな気持ちを悟られまいと、いつもより時間をかけて階段を降りる。
「こんにちは、蒼司さん。今日はどうなさったのですか?」
珍しく良い着物を着ている蒼司の姿を見て、千春は尋ねる。
「今日はご報告したいとこがあって、こちらに参りました!」
晴れやかな顔をした蒼司の気持ちが伝染したのか、千春も口元を綻ばせながら言う。
「良い報告のようですね。いかがなされましたか?」
「この度、私は父上の後を継ぐことを決意いたしました」
その言葉に千春は意外な気がして驚いた。
「まぁ……それは……呉服屋をやっていく、ということでございますか?」
「はい。先程そのことを父上に伝えて参りました。父上にしては珍しく……とても喜んでいただけました」
蒼司に無理している様子がまるで見えなかったので、千春は安心して笑った。
「それは大変おめでとうございます。私でできることがあれば、微力ながらもお手伝いさせていただけたら、と思います」
千春からの祝福を聞いた蒼司は、嬉しそうに言葉を紡いだ。
「そうおっしゃっていただけると思っていました。早速ですが、千春さんをお借りしたい。これからお時間ありますか?」
予期しない問いに、千春は目をパチクリさせる。
「これから……ですか?」
「はい、これから私と一緒にご飯でもいかがですか? 千春さんにお祝いしていただきたい」
子どものような物言いに、千春はなんだかくすぐったい気持ちになって笑った。
「私でよろしければ、是非」
「良かった。それでは、参りましょう」
口角を上げた蒼司に千春はドキドキしながらついて行った。
牛鍋屋の暖簾を潜ると、蒼司は迷わず二階に上がり、団体客の一人である野暮ったい男に声をかけた。
同伴した千春は蒼司の後ろで歩を止めて、その様子を見ていた。
「やぁ、やはりここにいたか。君に話したいことがあったんだ。この前見せてきたフランスの単語マカロンについてだが、飴玉と訳すのはやはり違うね。調べてみたのだが、フランスのマカロンと日本の飴玉とは天と地ほどの差があるよ」
「そんな大袈裟な」
「いやいや、実際そうなんだ。これを見てくれ」
蒼司は懐からブリキの缶を取り出して、それを男に投げて寄越す。
「百聞は一見にしかず、と言うだろう?」
その缶を受け取った男は眠そうな眼を見開き言った。
「まさか、本物か?」
「そのまさか、さ。本郷五丁目の青木堂に行けばいつでも買えるんだ。その店一番の贅沢品らしい。それをやるから味わって、良い翻訳書を作りなよ」
「俺たちにも分けろよ!」
その場にいた三人がどっと缶に手を出す。
「やめろよ! これは俺が貰ったんだ!!」
必死の形相で缶を死守しようとする男を見て、蒼司は笑った。
千春は最初男たちの荒々しさにドギマギしたが、誰もがふざけていて楽しそうな様子が伝わってきたので、遅れて笑顔になった。
一通り騒いだ後で、別の男が発言した。
「おい、蒼司。武にこの本は是非読むべきだと無理矢理押し付けられたんだが、お前はこの本についてどう考える?」
眉毛が太くガタイの良い男が床に置いたのは一冊の本だった。
千春は蒼司の背後から題名を盗み見る。
「露妙樹利戯曲 春情浮世之夢」
蒼司もやはりその本を一瞥して、笑った。
「君、それはからかわれたな。皮肉屋の君が読む代物ではないよ」
「やっぱりそうか。叩きつけて返してやろう」
「かの名作も君にかかれば形無しだな」
男たちは一様にニヤニヤする。
すると今度は丸眼鏡をかけた気弱そうな男が蒼司に話しかけた。
「僕は良いフランス語辞典を探しているのですが……」
「それなら私の家に丁度いいのがある。持って行くといいよ。今は専ら英語の翻訳をしているので当分は必要ない。都合のいい日時が分かったら連絡をくれ。最近は自宅にいないことが多いから」
蒼司は振り返り千春に言った。
「長いこと待たせてしまってすみません。奥の方の席へ行きましょう」
無意識なのか意識的なのか分からないが、蒼司は千春の手を取って奥へ向かおうとした。
すると、ガタイのいい男が「ここで食べていけば良かろう」と大きい声で叫び、それを後押しするように一同が囃し立てた。
蒼司は首だけを後ろに向け、返事する。
「こんな野獣の巣窟に彼女を置いてはおけないよ」
「違いねぇ!!!」
男たちが一斉に笑った。
蒼司は挨拶がわりに片手を挙げ、その場を辞した。
注釈:
穢多は、中世及び近世に社会的最下層に置かれた身分の一つです。江戸時代には非人とともに士農工商の下におかれ、居住地も制限されるなど、不当な差別を受けました。
島田髷は、当時は未婚女性が結うものでした。
「露妙樹利戯曲 春情浮世之夢」はシェイクスピアのロミオとジュリエットです。