邂逅
5
くたびれた粗末な着物を着た長身の男性が店の奥に入ってきた。
「坊ちゃん!」
「久しぶりですね、正吉さん。この歳でその呼び方もないでしょう。ところで父上はご在宅ですか?」
「は、はい。あの……清一郎様のことを…」
着物とは不釣り合いな端正な顔立ちを僅かに歪めて、その男性は話す。
「あれだけ大々的に新聞に載れば、嫌でも目に入りますよ。今日はそのことで父上と話がしたいのです」
「は、はい。もちろんです! おあがり下さい」
唖然とする千春は、佐助の側に寄り添い小声で尋ねる。
「今の方は……一体……どなたですか?」
佐助は喫驚したようだ。
「若御寮人さん、ご存知ありませんで? あの方は親旦那さんの次男の蒼司様でございます」
今度は千春が驚く番だった。
「そ、そんなお話誰からも伺っておりません。早くに亡くなってしまった娘さんがいらっしゃるとはお聞きしていましたが……」
絶句した千春を見て、佐助は言葉を続ける。
「ははぁ……いえね、蒼司坊ちゃんも大変に優秀な方でありましたが、東京帝国大学に入学するも中退して、何を思ったか作家を目指すっていうんで、親旦那さんのお怒りといったらそれはもう…見るに耐えませんで」
口調とは裏腹に噂好きの佐助は、更なる情報を嬉々として伝える。
「小説など書いて将来どうするつもりだ! そんなものになろうとするなら、縁を切る覚悟でいけ!! と、えらい剣幕で……その結果蒼司坊ちゃんは自ら離籍したのです。それ以来こちらでは蒼司坊ちゃんの名は禁句になったのでございますよ。
元々蒼司坊ちゃんは、親旦那さんの妾さんが産んだ子でして、御寮さんは蒼司坊ちゃんの離籍に反対するどころか大変お喜びになられて……お労しいことです」
それで結婚する前もした後でさえも、彼の存在を知らされなかったのかーー
千春はとんだ事実に呆然とした。
「若御寮人さん」
夢中になって話を聞いていた千春は、すぐ横に手代の正吉が近づいているのにも気付かなかったため、彼の言葉に飛び上がった。
「な、なんでしょうか」
「若旦那さんが親旦那さんにお話があるということは、ご家族である若御寮人さんにも関係のあること。若御寮人さんもどうぞ中へ……」
……本当だろうか。何年振りかは与り知らないが親子水入らずで話すことも多かろうに……しかもこんな悲しい時には尚のこと……。
そう思ったが、佐助に背中を押されて、恐る恐る義父のいるであろう場所へ足を運んだ。
6
義父の部屋の前に来た千春だが、なんとなく穏やかでない雰囲気を感じ立ち止まった。
中から二人の声が聞こえてくる。
「……それでは兄上のお葬式はなさらないのですか?」
「あんな恩知らずな面汚し、もう子とも思わん! 望月家代々の墓など入れられる訳がなかろう!!!」
「父上、そこはどうかお考え直しください……」
「もう無駄だ。疾うに非人に金を握らせ死体は沖に突き流した」
「……なんと情けのないこと……今は江戸時代ではないのですよ?」
「生意気な口を利きよって! 何年も音沙汰のないお前が言えた義理か?」
「…………」
「あいつが死んでこの家の後継者はお前だけになった。小説などという馬鹿なことは忘れて、家に戻ってこい」
蒼司はまだ黙ったままだった。
「言っておくが、これは願いではない。命令だ。分かったな?」
「……少し考えさせて下さい」
バンッ!
机を思い切り叩く音がして、千春は身体を震わせた。
「何を考えるというのだ!!!」
このままではいけない。
千春は恐怖を押し殺して室内にいる義父に声をかけた。
「お義父様、よろしいですか?」
しばしの沈黙の後、義父が言った。
「入れ」
「失礼致します」
蒼司は千春の顔を見た。
「お前はまだ会ったことがなかったな。彼女は清一郎の嫁だ」
「千春と申します。よろしくお願い致します」
蒼司は千春の瞳を真っ直ぐに見て、「蒼司と申します。清一郎の弟です。兄が大変ご迷惑をおかけしました……」と謝罪した。
「いえ……」
千春は首を振った。
「父上、今日は帰ります。近々また参りますので、その時にまたお話しましょう」
不満気な顔を見せた義父だが、千春の手前何も言わなかった。
「お義父様……」
千春の呼びかけに義父は顔を手で覆った。
「すまないが、今は一人にさせてくれ……」
「かしこまりました」
千春が部屋から出ると、蒼司は立ち去ることなくまだそこにいた。
「あなたと少しお話したいことがございます。よろしいですか?」
千春は頷いた。
「はい。こちらは人の目がございますので、少し歩くのはいかがですか?」
「結構です」
二人は店の外へ出て、静かに歩き出した。
7
少し歩いて人通りの少ない路地に行くと、蒼司は言葉を紡いだ。
「失礼を承知で、単刀直入にお伺いします。いくら必要ですか?」
千春はその質問に戸惑った。
「えっと……あの、どういうことでしょうか?」
「あなたは兄に深く傷つけられた。何も知らずに巻き込まれてしまった、所謂被害者です。一旦ご実家に戻られるとして、行く行くはまたご結婚されるでしょう。それまでに私の家に要求するお金は、いかほどでしょうか」
「お金など……。あの……私はここを出なければならない、ということでしょうか?」
今度は蒼司が驚いた顔をした。
「可笑しなことをおっしゃいますね。こんな家、もう一秒たりともいたくないのではありませんか?」
「私は……縁あってこちらに参りましたので、出来ることならば夫が大切にしていたものを、私も変わらず大切にしていきたい、と存じております」
蒼司はその言葉に面食らい、少しの間言葉をなくした。
「失礼ですが、兄がどうして投身自殺をしたのかは……」
「もちろん存じております」
「それでも尚、兄を恨まない、と言うのですか?」
「……初めは恨みました。最期まで打ち明けて下さらなかったことを。でも死んでしまった方をいつまでも恨む訳にはいきませんもの」
千春は哀しそうに微笑した。
「それに一番苦しまれたのはあの方です。私にも罪悪感を持っていらっしゃいました。私も夫を追い詰めた一因かと思うと……」
そこで一旦区切って、昂りそうになる気持ちを抑えた。
「……本当に……あの方が打ち明けられるくらいの仲でいられたのなら、どんなに良かったでしょう。違う選択肢を与えてあげられなかったことが悔やまれます」
蒼司は眩しい物を見るような眼をして、静かに口を開いた。
「あなたは何も悪くありません。むしろ生きるのが辛かった兄に、あなたのような方が側にいてくれて良かった」
蒼司の瞳は夕陽に反射してキラキラと輝いていた。
「本当にありがとうございます。そして……あなたを見くびるようなことを申し上げて、すみませんでした。お好きなだけ、こちらにいらっしゃってください」
千春は哀しみも苦しみも全て内包して、穏やかに笑った。
「ありがとうございます」
「ただ」
「?」
「忘れないでいただきたい。あなたはまだお若い。それにあなたほどの器量良しなら、良い貰い手はすぐに見つかるでしょう。何が幸せかはあなた自身が決めることですが、それを見誤ることのないよう慎重にお考えください」
千春のことを考えた誠実な物言いを聞いて、千春は素直に頷いた。
「分かりました。そのように致します」
今まで張り詰めた表情だった蒼司は、ようやく笑顔を見せた。
8
千春が縁側に面した襖を開けると、生垣からこちらを覗き込む近所の人たちと目が合った。
どうやら清一郎の話をしていたらしく、千春の姿を見て気まずく思ったのか、あっという間にその人々はどこかへいなくなった。
ーーこんなことは大したことではないーー
千春はそう思った。
夫が亡くなってからというもの、人々に奇異の目で見られたり、落書きのような物を敷地内に投げ込まれたりしたことはよくあった。
女中の初は千春を心配したが、千春は気丈にも「人の噂は七十五日ですから」と言って笑った。
泣くのは一人の時でいい。
それに辛いのは自分だけではないーー
同性を好きになり言えなかった清一郎の苦しみはいかほどだったのだろうか、と事ある毎に考えるようになった。
夫に対して自分ができることは、もっと他にあったのではないかと、自己嫌悪に落ち込むことも少なくない。
そうなるとやはり気持ちが塞いで仕方ないので、外出したくない気持ちを押しやって、わざと用事を見つけては呉服屋に足を運んでいた。
9
ーーあれ?
あの後ろ姿はもしかして……。
町を歩いていた千春は、蒼司らしき姿を見かけて声をかけようと思ったが、隣にいる人を見て思い留まった。
蒼司が愉しげに話しをしているのは、異人だった。
千春が聞き耳を立てると、確かに二人は異国の言葉で話していた。
ーーすごい。
千春は感心して、遠目に二人の様子を見ていると、異人の方が手を振りその場を去っていった。
それを見届けて踵を返す蒼司が千春に気づいた。
「おや……こんにちは。ちょうどこれから店に向かおうかと思っていたところです」
見ていたことが気付かれて、千春は何だかばつの悪い思いがした。
「こ、こんにちは、蒼司さん。私はこれから友人の家へ行く予定です。以前から頼まれていた反物を届けに参ります」
「友人のお宅はどちらですか?」
「馬喰町です」
「店と反対方向ですね」
「? ……そうですね」
一体何が言いたいのか分からない千春は不思議がった。
「……天気も良いですし、遠回りして店に行くことにします。途中までご一緒しても?」
ーー遠回り?
ここからなら店は目の前なのに??
戸惑いながらも千春は言った。
「それはもちろん……」
「良かった、では行きましょう」
ニコニコして蒼司は歩き出した。千春は慌ててその後に続く。
「あの……どうして外国語がお話になれるのですか? 先程、使っていらっしゃいましたよね? 留学された経験がおありなのですか?」
千春は興味津々になって、蒼司に質問する。
あぁ、と何でもないことのように蒼司は話す。
「外国人居留地へ行って、暇そうな外人に教えてもらうのですよ。向こうが欲しがっている日本の情報と引き換えにね。そんな訳であれは、輸入本を翻訳して小銭を稼ぐのにも使えます」
「その格好で、人がつかまりますか?」
ーーしまった!
失礼な物言いをしてしまった、と千春は慌てる。
「あの、いえ、今のはその、悪い意味ではなく……」
慌てふためく千春を見て、蒼司は吹き出した。
「いやぁ~~あなたは正直な人だなぁ。そうなんですよ、この格好では無理でしょうね。先のあれは私の友人なので気にも留めませんが」
ちっとも怒っていないどころか、一点の曇りもない空のように清々しく笑う蒼司に、千春は一時心奪われる。
面白可笑しそうに話を続ける蒼司。
「いえね、私の友人に華族の者がおりまして、そいつが便利でーー頼みさえすれば、矢鱈と高価な和装、洋装なんでも貸してくれるんですよ」
蒼司の話は突拍子もなく、聞けば聞くほど常人とはかけ離れている感じがした。
「では、援助して下さる方がいらっしゃるのですね」
小説家と言うから困窮した生活なのかと勘違いしていたが、そうでもないのだろうか。
好奇心を抑えられず、千春は失礼を承知で更に尋ねた。
「……生活にお困りになったことは?」
「恒常的に困っていますよ」
サラッと言って蒼司は笑った。
「友人がいるからと言って金を無心する訳ではないですから。でもそうですね……貧乏だから、草に詳しくなりました」
話の繋がりが分からず、千春は言葉を繰り返した。
「草……ですか?」
「はい、世の中には食べられる草が沢山あるのですよ。春は特に良い。つくしにヨモギにタンポポに、フキにノベルにドクダミに……枚挙に遑がありません」
千春は大きな眼を益々大きくする。
「食べるのですか?」
「食べます」
「調理は……」
「私が」
ニコニコしながら話す蒼司を穴があくほど見つめる。
「いろいろ試してきましたが、お陰様でまだ死んでおりません」
本気とも冗談ともつかない話をする。
料理人でもない男の人が調理?
自分で? 草を???
その様子を想像したら、思わず千春は吹き出していた。
女性として歯を見せて笑うのは恥ずかしいと習ってきたので、焦って手で口を隠す。
けれど込み上げた笑いは中々収まらず、目尻に涙が溜まってそれを手で拭う。
そんな千春の様子を見て、蒼司も釣られて更に笑顔になる。
「あなたの笑った顔は良いですね。今日みたいな、どこまでも澄んだ秋晴れの空のようだ。見ていて気持ちがいい」
自分が相手に抱いた感情と同じ言葉を返され、千春は驚いた。
そうして初めて気がついた。
こんな風に心から、笑ったのはいつ振りだろうかーー
今度は目の前の蒼司を見て、照れ臭そうに笑った。