落涙
34
自分宛ての手紙を読んだ八重は呆然として、物が言えない。
「八重、一体何が書いてあったんだい?」
色を失った八重に夫の勇は話しかける。
「父上が……」
八重は一旦そこで言葉を止め、唾を飲み込んだ。
「父上が生きていらっしゃる、と……」
ダムが決壊するように、八重の目から涙が溢れ出る。
勇もその言葉を聞いて僅かながら動揺したようだった。
「生きている? 君のお父様は流行病で亡くなった訳ではなかったのか?」
身体を震わせる八重は、高ぶらせた感情をそのまま言葉に乗せた。
「嘘だったのよ! 全部、私を守るための嘘!!!」
勇は八重の肩を掴み、「落ち着け、八重! 子に障る」と八重を窘めた。
ハッとした八重は、なんとか気を落ち着かせようと深呼吸をした。
「読ませてもらうよ。僕にも関係のあることだから」と言って、勇は八重の手から手紙を取り、文章に目を通した。
そうして八重の驚愕の理由を知った。
目を見開いた勇の横で、八重がポツリと、事実を確認するように「父上は私を護ったがために、今でも罰せられているのよ……」と言って、脱力した。
35
真実を知った日から、一週間が過ぎた。
正気を取り戻した八重は夫の勇に相談事があると言って、話を切り出した。
「父上に会うことはできないかしら?」
八重の問いに勇はしばし黙り込んだ。
「……君がお父様の血を分けた娘だということが証明できれば、或いは出来るかもしれない」
八重はずっと考えていた疑問を勇にぶつけた。
「お父様宛の手紙はどうしてここにあるのかしら? お母様は出さなかったのかしら?」
勇は言葉を詰まらせた。
「出さなかったんじゃない、出せなかったんだよ。……接見禁止という制度があってね、監獄に入った者は家族や知人からの手紙を受け取ることは一切不可能だったんだ。会うなんて以ての外だった」
「そんな……」
「しかし今やその制度はなくなったからね。必要があると認められた時は接見が可能になる筈だ」
「母上はそれをご存知なかったのかしら? 誰よりお会いしたかったでしょうに……」
八重は思わず涙ぐんだ。
「近年、君のお母様は目を悪くされていたからね。そういうことも重なったのかも知れない……」
八重に知られずに遠くの監獄所まで出向くのは不可能だったんだろうとも思ったが、勇は口には出さなかった。
八重は目に涙を溜めて、夫に哀願した。
「どうか、どうかお力を貸してくださいませ。一生のお願いでございます」
畳に手をついて頭を下げる八重に慌てる勇。
「八重さん、よしてくださいよ。僕たちはもう家族ではありませんか。君の願いは僕の願いでもありますから」
そうしてニッコリ笑って、言葉を続けた。
「幸いにも僕の友人には弁護士や法律に精通している者が何人かおります。早速彼らに助力を願いましょう。そうと決まればこうしてはいられません」
勇は勢いよく立ち上がり、走りながら部屋を出て行った。
36
勇の努力の甲斐あって、八重はようやく父親に会えることになった。
緊張する面持ちで監獄所の正門前に立つと、勇は八重を励ますように力強く頷いた。
面会室は物品の持ち込みが禁止の為、正門で待つという勇に自分の荷物を預けた。
八重は大きく深呼吸をして、監獄所内へと一歩踏み出した。
職員の諸々の注意事項を上の空で聞き、待合室で座って待つ間も落ち着かなかった。
やがて八重の名前が呼ばれた。
大袈裟なくらい反応し、八重はギクシャクと歩を進める。
鉄格子のある、狭い部屋に通された。
中には、痩せ細った白髪の老人がいた。
一目見て息を飲んだ八重に対し、蒼司は信じられない者を見るような顔をして、思わず立ち上がりそうになった。
そんな蒼司を背後に立っていた看守が止め、一言二言、何か暴言を吐いた。
しかしその言葉は、二人には最早聞こえていなかった。
「お父上……」
八重は掠れる声をようやく発した。
「あぁ……」
蒼司は右手を目元に持って行き、嘆息した。
その目には涙が浮かんでいる。
声が出なかった。
いろんな感情でぐちゃぐちゃになって、何を言うべきなのか分からなかった。
「ありがとう……」
蒼司が口にしたのは、その言葉だった。
八重は溢れる涙を拭うこともせず言った。
「なっ……っ……何をおっしゃいます。それはっ……私の言葉です。父上のおかげで私は、ここにこうしております……なんとお礼を……」
蒼司はゆっくりと首を振った。
「そんなことは良いのです。それより……千春は……千春は元気ですか?」
当然聞かれるだろう質問だった。
八重は答えを用意していたのにも関わらず、胸は痛んだ。
「母上は……今、少し体調を崩しまして……今日はものすごく来たがっておりましたが、連れてくることが叶いませんでした」
蒼司に聞こえてしまうのではないかと思うほど、八重の胸はドキドキした。
申し訳ない気持ちで思わず下を向く。
そんな八重の様子を見て、蒼司は目を細める。
そうしてまるで八重を慰めるかのように話しかけた。
「それは仕方ありませんよ。あなたに会えただけで私は本当に……幸せです」
顔を上げた八重に言葉を続ける。
「名はなんと言うのですか?」
自己紹介がまだだったと気づき、八重は顔を赤くした。
「八重! 八重と申します。よろしくお願いいたします!!」
蒼司はこれ以上ない程優しく笑った。
「千春によく似ていますね……そのすぐ赤くなるところも、泣き虫なところも……」
八重は青年のような物言いに変わった蒼司を見て、唐突に理解した。
母はいつも少女のようだった。
それは、父を変わることなく愛していたからだーーと。
そしてそれは、今目の前にいる父にも言えることだった。
見た目は老いて骨と皮のようになれど、その瞳は恋する青年のものだった。
八重は言わずにはいられなかった。
「母上は、ずっと、ずぅっとーー父上一筋です。私は父上の事情を最近まで存じなかったのですが、母上は……暇さえあれば父上のお話をして下さいました」
それを聞いた蒼司の目から、一度堪えた涙が堰を切ったように流れ出した。
八重は思わず蒼司を抱きしめたくなる気持ちを抑えた。
「……歳をとると……涙脆くなっていけませんね……」
「そんなこと……」
八重は言葉に詰まった。
どちらともなく黙り、その場が静けさに包まれた。
八重は、もうずっと、蒼司の側にいたかった。父の側にいて呆れるほど沢山の話をしたい、と切に思った。
しかし無情にも時は過ぎていく。
許された面会時間はほんの僅かだ。
「八重、は……八重のお腹には……」
蒼司は八重の大きなお腹に言及した。
父親から初めて自分の名前が呼ばれた八重は、顔を綻ばせて言った。
「赤ちゃんがおります! もうすぐ産まれる予定ですよ! そうしたら父上はお祖父様になりますね」
蒼司は目を大きく開いて、幸せな溜息をついた。
「今日は……嬉しいことがありすぎて……どうにかなりそうです。……おめでとうございます、八重。丈夫な子を産んで下さいね」
八重は身を乗り出して話す。
「産まれたら、また父上に見せに参ります!」
満面の笑みで話す八重に、蒼司は微笑を返した。
そうして、蒼司は八重の姿を目に焼き付けるように、じっと八重を見つめた。
「私は、千春とあなたに会えて……本当に幸せだ。今日は会いに来てくれて、ありがとうございました」
八重は必死で首を振る。
「私こそ!! 父上に会えるなんて、思ってもいませんでした。本当に、本当に……幸せなことです……」
優しい目をして笑った蒼司は「すみませんが、今日は、もう疲れました……。八重に会えて興奮し過ぎたかも知れません」とお茶目に言った。
八重は慌てて、「それはいけません! お休みになられて下さい。また参りますから、どうぞお元気で」と言って席を立った。
部屋を出た八重は、胸が一杯で飛び上がらんばかりだった。
自分のことを待ちわびている夫の姿を目にすると、身重の身体にも関わらず、小走りになって勇に抱きついた。




