決意
31
反物を購入したお客に道案内をして、千春が店まで戻ってくると、奉公人たちが騒いでいた。
「一体何をそんなに楽しそうにお話なのですか?」
最初に口を開いたのは、もちろん話好きの番頭だった。
「若御寮人さん! 良いことを耳に入れました! 聞いてくださいよ、こいつ、なんと……」
佐助は手代の正吉を指差し、興奮したように言う。
他方名指しされた正吉は焦って両手を振り上げ、「よして下さいよ〜〜!」と真っ赤になっている。
正吉を無視して佐助は話を続けた。
「若御寮人さんのところの女中さんにほの字なんです!」
千春は目を丸くする。
正吉が初に惚れている……?
二人の様子を思い浮かべて、悪くないかも知れないなと思った。
「それはそれは……」
ニコニコ嬉しそうに笑う千春を見て、正吉は焦る。
「いやいや、お忘れになって下さい! 自分は恥ずかしくて……穴があったら入りたい気分です」
「よろしいじゃありませんか」
千春は優しく言った。
「いつも店の為に一生懸命にやっていただいております。私が一肌脱ぎましょう。次の日曜日に逢引できるよう、初さんに伝えておきますよ」
それを聞いた周りの皆は、千春らしからぬお節介に驚いて目を丸くした。
「やったな、正吉!」
佐助は思いっきり正吉の背中を叩く。
頰を上気させた正吉は叩かれるがままになっている。
「よ、よろしいのですか?」
「もちろん。女にも二言はありません」
茶目っ気たっぷりに言った千春に、その場にいる皆が笑った。
32
よく晴れた日曜日、初は出かける前に落ち着かないのかソワソワしていた。
そんな彼女を横目で見て、千春は微笑む。
その時、戸を叩く音がした。
千春が玄関を開けると予想外の顔があった。
「お義母さま!」
千春は高い声を上げる。
「もうお加減よろしいのですか? よくいらっしゃいました。どうぞお上りください」
ニコニコして話しかける千春だが、義母は部屋に入りこそすれ、瞳はどこか遠くを見ている。
「私、お茶をご用意いたします」と言う初に対して、千春は「大丈夫、私がやりますから早く行ってらっしゃい」と返した。
すると初は首を振り、「お茶くらいは出させてください」と言ってから、台所に引っ込んだ。
「お義母さま、どうぞお座りください」
義母の腰に手を当てて、座るのを介助する。
「本日は天気も良く、気持ちが良い日でございますね」
無心のように見える義母は、千春の言葉に微かに頷いた。
「皆さま、お変わりございませんか?」
反応しない義母を疎ましく思うこともなく、千春は義母の背中に手を置きながら、優しく語り続けた。
初が箱膳にお茶と和菓子を入れて持ってきた。
千春に近づき、耳元で囁くように「それでは行って参ります」と言った。
千春は笑顔で頷いた。
二人だけになり、静かになった部屋で千春は義母のことを思った。
目に入れても痛くない程の息子を亡くし、次いで旦那も永逝してしまった。
この方の侘しさと言ったら、いかばかりか、と。
千春には蒼司がいた。いつも側で支えてくれる蒼司が、どれ程千春にとって大きな存在なのかを、義母を見る度に痛感する。
不意に、風に乗って隣家から米の炊く匂いが運ばれてきた。その匂いを嗅いだ千春は気持ち悪くなり、思わず台所に駆け寄って盥の中に嘔吐した。
「っっ、はぁっ、はぁっ……」
口元を手で拭い、ようやくのことで起き上がると、義母が立っていた。
その眼は今までとは違い、狂気を孕んでいた。
千春は鳥肌が立つのを感じ、思わず後ずさった。
「お前……」
フラリとまるで亡霊のように近づく義母。
「ーー子を宿したのかーー」
その言葉を発するや否や、義母の顔が鬼のように変貌する。
「清一郎を裏切って!!! お前のせいで清一郎はあんなことになったのに!!!!!」
怒り狂ったようになった義母は、千春の髪の毛を掴み、引っ張った。
「おやめください、お義母さま!!」
千春は両手でお腹を庇い懇願したが、目を血ばらせた義母は聞く耳を持たず、遂には千春の首を絞め上げた。
ちょうどその頃、玄関のところから蒼司の明るい声が聞こえた。
買い物をしてきた蒼司は、「今日は良いものを見つけたよ! これを今日の昼飯にしよう」と大声で言いながら入ってくる。
その声を聞いた千春は、薄れ行く意識の中で思った。
いけません!
入ってきてはダメーー
物音に気付いて台所まで来た蒼司は、目の前の光景にこれ以上ない程激昂し、強い力で義母を千春から引き剥がす。
けれど、老人とは思えない程の力で千春に又しがみ付く義母を見て、蒼司は力任せに義母を斥けた。
その刹那、義母の小柄な肉体は宙に放たれた。
勢いを保ったまま飛んだ義母の頭が、竃の隅にぶつかり鈍い音がした。
手が離れて咳き込む千春に、義母を注視する蒼司。
蒼司の異常な様子に気付き、千春がその視線を追うとーー
義母は頭から血を流し事切れていた。
あまりの出来事に二人は押し黙った。
千春は思考が停止して人形のように固まった。その一方で蒼司は静かに熟考していた。
33
「千春さん、よく聞いて下さい。私が逮捕された後、店のことは佐助に任せるのが良いでしょう。この土地は手放すのです。あなたは才覚があるから、別の土地で商売でも始めるのがよろしい」
この場に不釣り合いな抗いがたいほどの優しい声に、これから先に述べられるであろうことを予想して千春は首を振った。
「何をおっしゃるのです。これは事故です! 逮捕されるなどと……」
「私が母上を殺めてしまったことは紛れもない事実です。だからどうかお話を聞いて下さい」
涙で蒼司の顔がよく見えない。言葉が出てこない千春は必死で首を振る。
「私に万が一のことがあった場合には、あなたに遺産がいくよう既に手筈は整えてあります。まさかこんなに早く役に立つとは思いもしませんでしたがね」
場違いに笑う蒼司は尚言葉を紡いだ。
「河内という私の友人を訪ねて下さい。信頼できるやつです。彼がきっと助けになります。あなたが別の土地で新たな暮らしをするのに困らないほどの蓄えを、彼に預けてあります」
震える身体を抱きしめて、何とか声を出す。
「そんなものはいりません! 私はっ、私はあなたさえ側にいてくだされば良いのです!」
ここで言葉を発しなかったら一生後悔すると分かっていた。なりふり構わず必死に言葉を発する。
「巡査はこれが誰の仕業など分かりはしません。おざなりな捜査ばかりで、彼らには真実などどうでも良いのです!」
千春に反して、蒼司は非常に落ち着いていた。
「分かっています。彼らが扱う刑事事件の三分の一は冤罪と言われていますから。しかし元々私は縁を切られた身、家の不幸の後に帰ってきて財産を狙ってると考えられるのは必至です。心証が悪いのですよ」
諦念したように笑う蒼司の顔が涙で益々見えなくなる。
尊属殺人は死刑、よくて無期懲役ーー
そんなこと、絶対にさせないーー
「……っっ私と共に生きるとおっしゃったではないですか! それに元々は私のせいです、罪ならば私が!」
「いいえ、あなたは私たちの家族のせいで充分苦しみました。もうこの家から解き放たれて下さい。あなたには、この子を守っていただきたい」
蒼司は千春のお腹に優しく触れる。
壊れ物を扱うようにそっと。
千春は驚愕の表情を浮かべる。
「……気づいていらっしゃったのですか?」
「私は誰よりもあなたのことを見ていますから」
ニッコリ笑う蒼司。
「されば、私とこの子のために、留まり下さい! あなたほど賢いお方ならこの場をどう切り抜けるかなどお安い御用でございましょうっ……」
「……それではこの子に顔向けできませんよ」
頭が真っ白になる。
どうしようーーどうしたってこの人は行ってしまう。
どうしたら良いのーー
呼吸が苦しくなる。
しゃくり上げる千春を見て、蒼司は初めて苦痛の表情を浮かべた。
千春をそっと抱きしめ、背中を摩る。
「……落ち着いて、ゆっくり呼吸をして下さい。僕の声を聞いて」
狂おしくなる胸と荒い息を持て余す。
しかし千春の耳は、蒼司の声を聴き逃すまいとしていた。
「僕は、あなたのお陰で幸せです。愛した人を護れた。これ以上の幸せがあるでしょうか?」
顔を上げて、彼の顔貌、その声全てを記憶に入れようとする。
「しかもあなたは私に家族を作ってくれた。この子が健康に生きることができれば、私は何もいらないのです」
「……っっ!」
堪らなくなり、千春は口に手を当てた。
「愛しています。いつまでも。亡くなることは怖くありません。恐怖とは人間の想像が作り出すもので、実在しません。今の私は愛しか有さないのです」
大粒の涙がポロポロポロポロ流れるも、このままではいけない、と思った。
無理矢理に深呼吸を何度もして、息を吸いすぎて痺れてきた手のひらを蒼司の頬に当てる。
涙が出るのを物ともせず、千春はにっこり笑った。
蒼司が最後に見るかも知れない自分の顔が、泣き顔なんて嫌だった。
「……私も愛しています」
笑顔を見た蒼司は心底嬉しそうな顔をして、千春を抱きしめた。
「……ありがとう」
暫し抱きしめた後、蒼司は躊躇いがちに言葉を紡いだ。
「申し訳ないのですが、もう一つだけお願いです……私が父だと言うことはこの子には知らせないで下さい。親殺しの子だなどと後ろ指をさされ、辛い思いをする謂れはこの子にはないのだから……父は流行病で亡くなったと……そういうことにしておいて下さい」
子を心配する切なる願いは、果たして千春の胸に届いた。例えそれがいかに残酷な願いであろうとも、聞き入れたいと思った。
「……あなたの仰せのままに致します」
千春は辛うじて絞り出すように返答した。
覚えておこう。この人の手も温もりも、匂いも全てーー
この身が朽ちるまで永遠に、心に焼き付けておこうーー
注釈:
尊属殺人とは、自己または配偶者の直系尊属(親や祖父母など)を殺すこと。この場合特段に重い刑で処罰していました。
明治時代の相続は、家督相続であり、お嫁さんに相続権はありませんでした。それ故蒼司は、念のため前もって自分の財産が千春にいくように取り計らっていたと考えてください。




